【モンテネグロ/ポドゴリツァ】二回、交差

ベオグラードの方角

アルバニアの首都ティラーナからモンテネグロの首都ポドゴリツァまではバスで移動。真昼の移動だった。この二都市間の道のりは、これまで見てきたあらゆる土地の中でも最上位に位置する美しい風景が続いた。子供向けアニメや童話の中の世界のような、どこかファンタジックで柔らかい西洋的な郷愁だ。

赤い花、黄色い花、緑の丘。白い壁、煉瓦色の屋根、膨らんだ小さな羊。原っぱの只中に凛と立つ木、背の低いみかんの木。丘にひし形の影を落とす、飛空艇のような雲。緩やかに山に沿う、蛇行する碧い川。Skadar Lakeという国境の湖。湿原。石壁の細い道。サルビアの花。車窓にこめかみを預け、70年代のポール・マッカートニーのソロアルバムやJUDY AND MARYを聴いたりしながら、ぼくは素晴らしい天気のその風景の中をまどろんだ。

ポドゴリツァのバスステーションに降り立ち、街中を目指して歩きはじめるとすぐにベオグラードの方角を記した道路標識が目についた。ベオグラードは隣国セルビアの首都である。その距離およそ500km。なぜそんな標識が気になったかというと、モンテネグロはかつてユーゴスラビアという国の一部であり、ユーゴスラビアの首都こそがベオグラードだったからである(ユーゴスラビアは2003年に複数の国家に解体された。その中でも中心的存在であったセルビアと、ここモンテネグロセルビア・モンテネグロという国家名で2006年まで続いた)。この標識は、もしかするとユーゴ時代からあるものなのではないか。ぼくは直感的にそう思ったのだ。かつては首都の方角を案内する一般的な標識だった。しかし国が解体された今、その標識は国境までの距離のさらに二倍以上遠くにある街の位置をポツンと指し示すどこか不自然なものとなっている。

 

二回、交差

ポドゴリツァのホステルは澄み切った川の近くにあり、フレンドリーなゲストが多かった。日本人男性に出会った。名前はY君である。23歳のY君はぼくと同じく長期のバックパッカーであり、ぼくとすれ違うかたちでバルカン半島を南下してきていた。東欧を手早く廻り終えた彼は、「パスポートにスタンプを押すため」にいくつかの国を訪れ、そのことをぼくに悪びれず話した。ぼくがポドゴリツァ三泊すると言うと、この街をただの通過点だと考えていたY君は驚いた。旅のスタイルは人によってこうも違うのである。

Y君は明日にはこの宿をチェックアウトし、これから先、ぼくが旅をしてきたルートをほぼ真逆に辿る。コソボアルバニアを通過したら、ギリシャやエジプトを巡るのだ。しかしそのあとは北アフリカをまたぐ形でモロッコへと飛び、ジブラルタル海峡に航路をとりスペイン入りするという。そしてポルトガルに向かい、ついには南米大陸へと飛ぶと語った。ブラジルには日系移民が多く入植しており、働きながら生活できる場所の存在がバックパッカーたちには知れ渡っているらしい。夢のある話だった。

Y君とぼくは似たような時期に旅を開始し、ここまで形だけは似たような道を歩んできていた。バラナシでは滞在時期まで一致していたようだった。あのガンジスの懐で、顔を合わせていたかもしれないのである。翌朝のドミトリー、ぼくは珍しく早く起床したが、Y君はもう出発の時間だった。「二回、交差したわけですね」というのが彼のお別れの挨拶だ。

 

ようこそポドゴリツァ

日本人にとっては東南アジアの途上国よりよほどマイナーな街だと思うのだが、ポドゴリツァは綺麗な都市だった。ティラーナから続くこのあたりは土地そのものがぼくには違って見える。街の中心を貫くモラチャ川は水量が多く激流とも言えるが、表面はいつ見ても美しい碧い色をしている。標高があるわけでもなさそうだが、空気の質感には高原のような涼みがある。この街でぼくはボロネーゼを食べたり、カプチーノを飲んだり、パン屋でパンを見繕ったり、スーパーでインスタント麺を仕入れてキッチンで茹でたり、青リンゴを齧ったり、街の小規模なフェスティバルに迷い込んでシンデレラの劇を見ながら野外でビールを飲んだり、クラフトビールとポテトチップスをホステルの庭に持ち込んでデッキチェアに寝そべり空を見ながらぷかぷか過ごすようなことをしていた。

あるときモラチャ川沿いを岸辺の近くまで下りて歩いていたら、たむろする二十歳手前くらいの少年たちが少しニヤついた感じでぼくを見ていた。ぼくは静かにそのわきを通り過ぎた。ぼくの背中に向かって少年の一人が声を張る。Welcome to Podgorica! と、はっきりと聴こえた。

 

2019年5月 たいchillout

 

【番外編】旅行記と紀行文と旅ブログ

旅行記と紀行文と旅ブログ

カフェ「Mon Cheri」でパニーニとアメリカーノの朝食。ティラーナは二日目の今日も雨。店員の女性はSFアニメの宇宙人のような目の色をしている。

突然だが、旅行記と紀行文と旅ブログは以下のように異なるものであると感じる。

旅ブログはその国について知りたいという読者の需要にこたえ、旅行記はその国の雰囲気を味わいたいという読者の需要にこたえ、紀行文は自分のために書く。

アルバニアの首都、ティラーナで泊まっていたホステルには、これから訪れる予定のバルカン半島諸国やイタリアをあつかった日本語のガイドブックや雑誌が少し置いてあり、それらを「Mon Cheri」に持ち出して読んでいるうちになんとなく上記のように考えるようになった。

ぼくが書いているこのブログは、メディアとしては旅ブログだが、その性格は紀行文に近い。
本格的な旅人はおおむね無職なので、旅ブロガーは「ブログで稼ぎたい」という野心を持って旅ブロガーになるのだろう。そうするとSEOを意識せざるを得ないし、人が「知りたい」こと、人の「役に立つ」ことを書くインセンティブが生じる。必竟、行き方や乗り方、買い方、おすすめスポットなどの紹介が旅ブログのメインコンテンツになる。お手本も多く、旅ブログは書きやすい。

他方で、旅関係の雑誌などに寄稿されているエッセイの類はほとんどが旅行記だ。旅行記の文章はいつも写真とセットで誌面上に組まれ、雑誌を手に取った読者が最初に期待していた雰囲気を裏切らない洒脱で幾分予定調和的な文体が特徴になる。旅行記を書くのは主に「ライター」の人たちだ。読者は束の間、旅をしているような気分を味わい、うっとりする。しかしそれは、幻想としての旅である。

ぼくはブロガー以外にも生きていく道があるし、「幻想を見せる」ことには消極的だ。旅はむしろ、幻想から脱却した先に存在する。幻想を駆使し「旅の素晴らしさ」を世に広めようと活動?している人たちもいるようだが、旅が素晴らしいことなんてすでにみんな知っているんだから、効果はどれほどなのかなとぼくなんかは穿って見てしまう。

ぼくは、作家による文章ばっかりの紀行文を読むのがなによりも好きだ。だから自分でも紀行文のように書くのが自然なことだった。紀行文には個がある。楽屋落ちやセルフツッコミは無い。読み手とのインタラクティブな関係は構築されない。個はときとしてうっとうしい。書き手を好きになれなければ読めないし、自己投影して楽しむことは難しい。冷めた気持ちで読めばすべてが自慢話に聞こえてしまう(自慢話にとられないための現代的な安全弁が「セルフツッコミ」や「インタラクティブな関係」なのだとぼくは思っている)。でも、大多数の旅ブログは役に立つ以上の役には立たないし、ウェルメイドな旅行記も旅の上澄みを掬っただけに思えて退屈なのである。

 

たいchillout

 

【アルバニア/ティラーナ】透明

小さな国の、小さな首都

朝方に到着したバスステーションのカフェでコーヒーを飲み、気力も湧いてきたので今度は隣の店に移動してしっかりめの朝食をとった。オムレツ、ソーセージ、チーズ、バスケットに入ったパンが二枚。店の壁にかけられた絵には雪山と麓の小屋が描かれている。

アルバニアのティラーナ。小さな国の、小さな首都だ。「レク」という通貨を持つこの国では基本的にユーロが使えるが、シェンゲン協定には非加盟であるため出入国の手続きがあった。そしてシェンゲン圏の滞在は合計で三ヶ月までというルールも、アルバニアには適用されない。長くヨーロッパを旅するためにぼくは、ときどきこうやってシェンゲン圏の外に出るということを繰り返した。

ティラーナはとても居心地のいい街だった。アフリカ系やアラブ系の移民や出稼ぎ労働者は見かけない。そもそもこの国で働いても出稼ぎにならないからかもしれない。そのくらい物価は安く、さして有力な産業も見当たらなそうな、コンパクトな街だった。だが、たとえばラオスのヴァンヴィエンみたいにコンパクトなのかというとそれは少し違う。小さなカフェ、小さなバー、小さなベーカリー、原色のカラフルな路線バス……どこからどのように風景を切り抜いても自然な佇まいと気負いのない歴史性を感じさせるのだ。可愛い街、という表現もしっくりくる。政治的には波乱の記憶が刻まれている土地ではあったが、ぼくが訪れたときはのどかで、「豊か」に見えた。そこかしこにあるベンチに並んで腰かけている老人たちはとても仲良しに見える。若い女性には「むすめさん」と呼びたくなるようなどこか淡い佇まいがある。タイルの中央広場は雨あがりにきらめく。優しい稜線の山々にかかる午前の白い霧。バルカン半島の街にだけ見られた──西ヨーロッパとはなにか異なる──独特な透明感は、ティラーナにとても象徴的だった。

到着した昼に天気は雨に変わったが、気がほくほくしていたぼくはちょっとしたテント風の小さなバルに入りさっそく一杯やりはじめた。グラスの赤ワインとスモークソーセージ(ザワークラウトのような位置付けにある香ばしいオニオンつき)。これでなんと2.7ユーロ。さらに大きく切った焼きチーズをオーダーする。ワインは甘みがあり、この価格にしては信じられないほど美味しい。
夜行バス明けだったので午後も早い時間にはいそいそとホステルに帰ってきて、静かで薄暗いドミトリーでどっかりと眠った。夕方に起きて動き出したときもやはり雨が降り続いていたが、案の定というか、夜も似たような店を探し歩いて、ポークシシケバブとビレッジサラダ、ドラフトビールという内容で初日をしめくくることになった。反省はしていない。

 

2019年5月 たいchillout

 

 

【ギリシャ/アテネ】「ありがたみ」のほかに

平成から令和へ

ギリシャにいるあいだに日本の元号は平成から令和に変わった。日本ではそれなりに盛り上がっているようだが、こちらはふーんという感じだ。距離的に遠いところにいることだけがその理由ではない。
「時代の節目」はたしかに同時代を生きる人々に高揚感をもたらす。だが、改元があったからといって私たちの人生も都合よく締めくくられ、仕切り直されると考えてしまうのはいささか発想が勇み足だ。ぼくは傾向として、そういうところに慎重になる。筋トレもスキンケアも日経平均もシーズン打率もぜんぶ昨日の続きから今日がはじまるわけだ。平成が令和になっても、令和がチクワになっても足りないポイントは依然として足りないままで、必要ならばこれからもこつこつとこれまでと同じように積み重ねていくしかない。だって、実際そうじゃん? 奇をてらって妙なポジションをとりたいわけでもなく、ぼくはそのシャープな現実を、冷静に受け止めていたいと、いたって真面目にそう思う。そしてそこからも希望を生み出すことはできると信じている。

 

「ありがたみ」のほかに

かのパルテノン神殿が鎮座するアテナイのアクロポリスには入場しなかった。20ユーロ。別の場所にある別の遺跡なども見学できる5日間の通しチケットは30ユーロ。似たような価格でピラミッドを見た記憶が新しかったし、この一年弱どこに行っても世界遺産があるので、「ありがたみ」や「そこに行ったという事実」のほかになにか別の動機がないと、どうにも見学するモチベーションがわかなくなっていた。

そのかわりに、美しい景色、印象的な光景には街で出会う。

白いTシャツ、赤いエプロン、ジーンズ。うまそうにタバコを吸いながら親しげに誰かと電話をしている飲食店の女性スタッフ。束の間の休憩時間の至福の一服と見える。

お菓子売りの台車を押して歩く老人。彼に、露店のアクセサリー屋の女性がおどけて敬礼をしてみせる。きっといつもこの道で顔を合わせている二人の、ささやかな仲間意識。

アコーディオンを弾く女性のストリートミュージシャン。彼女のためのチップが入った缶を蹴り飛ばして通り過ぎた男性。わざとだったら最低。

閉店後のペットショップのショーウィンドウ、鉄格子越しに水槽の熱帯魚を凝視して動かない老人。

大聖堂の宗教画に祈りを捧げるようにキスしたひと。

読書をしながら通行人の恵みを待つ乞食。

彼に見向きもせずに通り過ぎる、陽光に輝くブロンドの美女たち。

たむろすることで絆を深め合う移民たち。

 

途中、港町のピレウスに日帰りで出かけたのも含めて、アテネで5日過ごした後、次の目的地であるアルバニアに夜行バスで向かった。そこから先、ぼくはバルカン半島をほぼまっすぐ北上していくことになる。アルバニアに行くことを計画していたわけではなかった。『深夜特急』の沢木耕太郎ギリシャからフェリーでイタリア入りしているし、テッサロニキを経由して陸路でブルガリアやトルコを巡るのも魅力的な選択肢だ。もちろんエーゲ海に浮かぶ無数の島々のことだって考えた。アルバニアを選んだのはひとつの結果にすぎない。

 

2019年5月 たいchillout

 

【ギリシャ/アテネ】「赤ちゃんでも使える」

「赤ちゃんでも使える」

アテネの中心部の街並みは美しく、ツーリスティックで、数えきれないほどのレストランが密集していた。テラスや通り沿いに客席は迫り出し、朝と夕方は白いテーブルクロスの上にワイングラスが逆さに置かれて、浮かれた団体客や豊かなファミリーが訪れるのを待っていた。賑わう時間になると、テーブルの真ん中にバスケットが現れ、大きなパンが積まれた。ぼくはそれら幸福な風景を横目に、通りから通りへと、人混みのメインストリートから静けさの裏路地へと、歩き続けた。教会や街灯ひとつとっても、ヨーロッパだなあ、と無邪気に観察して喜ぶ。石だたみ。出窓の鉢植え。広場の噴水。なんてことない意匠。アパートの聖像。暖かい日差し。坂道の向こうには小高い丘、アクロポリス……。

総体としてのアテネの街は、歴史と伝統を持つ温暖な地中海の観光都市としての白く輝いた側面と、ただの大規模な経済圏として近隣の途上国から移民を惹きつける産業都市としての側面が、くっきりと分かれていることが印象的だった。むろん、バックパッカー宿は地価の安い後者のエリアにある。だからぼくは、日々、後者のエリアから前者のエリアに歩きで通い詰めた。そうしてまた、後者のエリアに帰ってきて、安い飯を食った。

そんな生活スタイルはここから先数ヶ月、ヨーロッパのほとんどの街で似たり寄ったりのものとなった。華のヨーロッパは移民だらけだ。期待も大きかったので、移民の存在感はある程度のショックをぼくに与えた。そうした地域は匂いも違うし、ゴミの散らかり方や、道路の舗装にも差がある。だけど、見なかったふりをして次の国に行くことはできなかった。煌びやかな写真だけを日本に持ち帰り、「こんなに綺麗だった」と振り返る旅も、それはそれでなにも悪くないと思うが、ここまでそうじゃないやり方でやってきたぼくには馴染まない。ヨーロッパにおいて、光と影は、溶け合うのでも反発し合うのでもなく、でたとこ次第といった感じで不規則に共存し、どこの誰からも理解と整理を拒む複雑系を築いていた。

顔用の保湿アイテムをひとつ、ぼくは唯一の美容グッズとしてこの旅で持ち歩いていた。出国前に荻窪無印良品でホホバオイルを買い、中国でクリームに切り替え、エジプトでココナッツオイルを使いはじめたのだが、このココナッツオイルがよくなかった。エジプトからイスラエル、そしてここギリシャにいたるまで毎日、シャワーの後にそれを塗っていると、口元の肌がひどく荒れてきてしまったのだ。いま思えば、あの頃は若かった。土地の物を臆せず食べて、不規則な生活を送り、染みのついた枕で寝て、あやしい水道水のシャワーを浴びていても、肌や髪の状態は日本にいるときとたいして変わらなかった。それが、この数週間で目に見えて悪化したのだ。原因はココナッツオイルに違いない。ぼくは、肌に優しい保湿アイテムを手に入れることをアテネでの最初のミッションに掲げ、とある小さなドラッグストアでそれを達成した。

そこで買った保湿クリームは、19ユーロ。当時のレートでもなかなか高い。量が多かったことと、おばさんの店員が「赤ちゃんでも使える」と言って強く勧めてきたことが決め手になった。静かで外光が店内に行き渡っていた。最初は若い女性の店員に接客を受けた。新人だったのか、あまり商品知識がなく、やがてレジの近辺で見守っていたおばさんが出てきた。ぼくは本当は、おばさんにバトンタッチする前から、この店で買おうという気になっていた。金色のうぶ毛が光る腕でいくつかの商品を手にとってぼくに手渡す女性の応対は、ぎこちなかったが、とても感じが良かったからだ。

 

2019年4月 たいchillout

 

【ギリシャ/アテネ】夏のはじまり

ユーロとヨーロッパ

機内食で出されたベーグルを食べながら、ロバート・A・ハインラインを読んでいると窓の下に山がちなギリシャの大地が見えてくる。イスラエルの国営航空会社である、エル・アル航空の機体は、アテネ国際空港に着陸した。
空港のATMでは、どういったわけか現金が引き出せず、ぼくは備えとして携帯していた米ドル札をユーロに両替した。ヨーロッパ未経験のぼくにとって、はじめて手にしたユーロだった。これから訪れるに違いない国々の大半は、このユーロで渡っていけるわけだ。これまでは、越境と両替、加えてSIMカード購入の三点は、常にセットで存在した。いくつかの事情でSIMを買う頻度も少なくなってきたが、両替すら不要になれば、出入国に伴って考えるべきことがさらに減り、旅は一段と身軽になる。
そのユーロをつかい、空港内のカフェでクロワッサンを買ってみる。一息ついたところで、エアポートバスを見つけ、アテネの市街に向かった。
前年の初夏に日本を出てからおよそ十ヶ月が経ち、季節は今や次の春になっている。この夏の終わりに帰国するが、そのイメージは湧いてこない。それはきっと、この先数ヶ月でヨーロッパをどのように巡っていくのか、自分でもまったくわかっていないからだろう。

 

夏のはじまり

予約していたホステルの入口の小さなドアは鍵が閉まっており、ぼくは誰かがやってくるのを待った。最初に現れたのは従業員ではなく、宿泊客らしき老夫婦である。ギリシャ人だろうか。婦人の、コーデュロイの帽子がいかにもヨーロッパという感じがする。ご主人がスタッフの女性を呼んできてくれ、チェックインが完了した。スタッフの女性はぼくをエレベーターに乗せ、上階にあるドミトリーまで連れていき、キッチンでのルールやシャワールームの場所を教えた。窓際のベッドに腰を落ち着けると外で鳥が鳴いている。もう夕方になっていたが、四月の末にしてはかなり明るく、日が長いのだろうと思った。「恐ろしく日が長い」。それこそがヨーロッパの美しい夏の最大の特徴の一つだと、ぼくはこの先の数ヶ月で学んだのだが、そのことに最初に気づいたのがこのときだった。
屋上からアテネの市街とアクロポリスが見えるこのホステルで、ぼくはまずアフガニスタン人だと間違えられた。幅広い人種のゲストが滞在していたが、彼らのうちの何人かは、我が家のようにキッチンを使いこなし、共同で自炊し、一緒に食事をとっていた。出会ったばかりのバックパッカー仲間にしてはくだけた、家族的な雰囲気。北アフリカや南アジアやアラブの国々から仕事を探しにきて長期で滞在している若者たちなのかもしれなかった。彼らは皆明るく、自由で、くつろいでいるので、旅人との区別はほとんどつかない。

2019年4月 たいchillout

 

フォトギャラリー

 

モンゴル

 

 

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ウズベキスタンの鉄道駅

 

 

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