银河铁道TIMES

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【インド/コチ】レインツリー

レインツリーのレストラン

朝食付きではなかったので、Raintree Multicuisine Restaurantというところでブッフェ式の朝食をいただいた。250ルピー。350円から400円の間くらいだ。いま思うとたったそれだけなのか、という気がするけど、当時は「こんなに金かかる店に入ってしまって…日和ったなあ」と後ろめたかった。後ろめたかったけど、この「レインツリー」は外国のビールも揃っていて、とにかく清潔で、お気に入りになってしまい、朝だけでなく夜も通った。日和ったというのは事実だと思う。モルディブを目前にしていたというのもあったけど、旅の初期にあった、お前は誰と闘っているんだというくらいのストイックさはシュリンクした。「ストイックさ」というのはたとえばシビアな節約においてもそうだし、不確定要素の多い行程を選んで積極的にリスクテイクしていく姿勢や衛生面で自分の常識を破壊していこうとするチャレンジ、空気を読まない堂々としたコミュニケーションにおいても言える。かつて自分は、確かに、なにかと闘っていたのだと思う。むろん、その相手は自分自身である。お前はどこまでやれるのだ。お前はどこが変わったのだ。なにを得たのだ。新しくなにができるようになったのだ……。新しい経験に出会うことによって、新しい行動を手に入れていることを、そのようにして自分に問い質していく姿勢があった。旅そのものという巨大な投資を自分にしているという気負いもかなり強かった。モノにしてやるという意気込みが、自分を旅に強く押し込んでいった。
予算という枠はあったが、期間や行程を見据えた計算をしていなかったので、節約のラインというのは完全にフィーリングで決定していた。あんなにやる必要はなかったのかもしれないし、あそこで頑張ったからまだ旅をできているのかもしれない。だからこのときも、シビアさ、ストイックさがこうしてゆるやかながらも失われたことで、やがて不本意に旅を終わらせなければならなくなるのかどうか、検討をつけていたわけではなかった。

 

コンチネンタル、教会の墓地、サンダル、スカート、夕暮れビーチ、砂漠の大地

コチは地理的にはマニアックだが、風土は決して辺境ではない。観光地化された小さな街は、観光地化された大都市よりもツーリスティックだ。経済における観光産業の割合がその土地のツーリスティックさを決める。デリーがどれだけメジャーでも、観光業とは無縁に生きている人の数も多すぎるので、そういう意味で(商品化されていない)真の見所は多い。バンコクしかり、北京しかり、東京しかりだ。
フォートコチには(ぼくがお洒落なカフェを探して歩いてばっかりいるのもあるが)お洒落なカフェがたくさんある。レインツリーに加えて、Solar Cafe、Kashi Art Cafe、Quasi Cafe、Krishna Kripa Seafood Restaurant、Elite Bakeryなどのカフェ・レストランで食事をした。味はどこも悪くない。家庭的なところ、気取ったところ、いろいろあった。すべて観光客からの強い需要を見込んだ店構えをしている。まず、英語のメニュー。そしてコンチネンタル・ブレックファースト。アムステルビール。観光客で道が混み合うほどその数は多くないが、一定数のツーリストを安定して獲得している土地のようだ。かわりに、地元のおっさんたちが集まるような、なんてことのないカレー屋みたいなのを見つけるのに苦労した。そして苦労して見つけても、「面白そう」感がグッと高まらずに日和って清潔なレストランに入ってしまう。もちろんこれはぼくの状態によるところも大きい、先に書いたように。
フォートコチには三泊した。これは、というローカルな体験はしていない。コミュニケーションで印象に残っているのは、前回の記事に書いたホステルのオーナーの母親(リンダ)の件と、二日目の昼下がりに歩いているときに訪れた教会の隣の墓地にいた老人と少女。墓に花と線香をやっているのを見て日本みたいだなあと思った。平板な墓たちにはとなりのトトロに出てくるような蔦の垂れた巨木(レインツリー?)が影を落としていて、老人とその孫らしき少女の姿が美しかった。ぼくはそれをぼんやり見ていて、少し目があっただけだったが、帰り際、老人の小さなバイクの後部座席に乗った少女が「ハロー!バイ!」と大きい声で言って、ぼくに手を振った。
その後サンダルを買った。サンダルは一度、最初の国である韓国の釜山で買って、海雲台ビーチで履き倒したけど、その後はゲストハウスでの室内履きになってウランバートルに置き忘れ、次にマレーシアのペナンで買ったやつを四ヶ月くらい使っていた。というわけで三足目のサンダルを手に入れた。
人々、というところで印象的だったのは地元の男たちがスカートのようなものを履いているということだった。男性のスカートのような衣装はインドの他の土地でもときどき見かけたが、面白いのは南下するに従ってスカートの丈が短くなり、スカートの割合が増えてきているということだった。暑いからだろうか。それともインドの男は、南にいくほどセクシーになっていくのだろうか。
心地良かった風景は夕暮れのビーチだ。夕暮れのビーチは世界中どこでもきっと綺麗だが、たとえば日本の本州にいて海に夕日が沈むのを見ようとすると、島や半島を除くと日本海側に行くしかない。太平洋は日本では朝日を見ることに特化した海だ。コチは西に海があるので刻々と空が赤くなって、それが海に映った。そうすると風景全体が夕陽色になる。その変化をすべて見ることができる。泳ぐ人はいない。子どもたちは足だけ海水に浸す。見にきている人はたくさんいた。ぼくも若者たちに混じって砂浜にどっぷり腰を下ろして冷えた砂に手をついた。これがアラビア海なのだ、ということはインドでは何度も意識した。それはなんとなくエキゾチックだから、というわけではなくて、現実にぼくはこれからアラブ地域に入っていくので、この海をその象徴として捉えていたのだった。アラブは全く未知で、先入観も偏見もある。だからじつに本も買っていた。『イスラーム主義 - もう一つの近代を構想する』(末近浩太)という新書をKindleで読んでいた。夕暮れのビーチの向こうに、砂漠の大地があった。

(たいchillout)

インド編終わり。インドには期待も大きく、最初は緊張(恐れ)もあった。だが旅してみ終わったときの印象としては、思っていたよりも特別ではない、ということだった。物価も衛生面も人間も、狂っている!と逃げ出したくなったり、逆に感銘を受けたり、やみつきになったりするほどの突出が他の国と比べてあったわけではなかった。ヒンドゥーに触れて死生観が変わったり、新たな価値観にわかりやすい形で目覚めるということもなかった。時代柄もあるだろう。いまやインドも世界の一部になっている。ぼくが、一国に浸るのではなく、常に次の目的地へと意識を向け続けていたこともあるかもしれない。だが、インドは広い。まだ行っていないところがたくさんある。

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【インド/コチ】未曾有の美女

未曾有の美女

島であるフォートコチへと渡る小型フェリーのチケット売り場で未曾有の美女を見かけた。女性はムスリムで、ヒジャブをしているのだが、よくあるヒジャブとは違っていて、頭のシルエットがドーム型になっていない。耳や首回りを隠す布と頭部を隠す布が分かれており、頭部を隠す布は長方形に近い立体を留めている。枕カバーをピンと張ったみたいに。

女性はひとりで静かに座っていた。チケット窓口の列に並んでいたぼくは、ヒジャブからローブまで統一されたその全身の色合いに感動した。キッパリ真紅と濃紺の二色だ。すごくおしゃれだ。ヒジャブの形も含めて周りに同じスタイルの女性をまったく見かけないが、その女性が宗教的に異端なのか、ただファッション性が高いだけなのか、判別がつかなかった。というよりも、ぼくからするとあまりにファッション性が高く、あまりに宗教的だった。いまどきの若いムスリムの女性がカラフルなヒジャブでおしゃれするというのはもちろん知っている。だが彼女たちは、おしゃれになればその分当然、宗教的ではなくなった(あくまで見た目の話だ)。その女性はちがった。神秘性が桁違いにある。同時にはっとするモダンさがあった。そのままの姿で、パリコレにも出れそうだし、古代文明の儀式で神に差し出された生贄のようでもあった。

目と鼻と口だけが見えている。目の周りは黒く化粧をしている。エキゾチックな、という言葉ではとても形容できない。こんなに顔立ちの整った人間をぼくは知らない。奇跡を見ているみたいだった。インド人なのだろうか。これまで北インド各地で見てきたインド人女性とも違っていた。日本的な基準でも西洋の基準でもアラブの基準でも東南アジアの基準でも、おそらく世界のあらゆる基準で理解できる普遍的で絶対的な美しさ、不可能な融合(混血という意味ではなく、基準の融合だ)を成し遂げてしまっている。だからある意味異様で、好意に驚きが勝る。近寄りがたい美人というありきたりな意味ではない。美しいものは必ず感覚にするっと入り込んでくる。引き寄せられ、最初からそれに馴染んでいる自分がいる。しかし、友だちになったとしても全く会話なんてできないだろう。見るたびにぼくは驚いてしまってすべての考えを中断してしまうだろう。

 

息子には内緒

コチは南インドでは大きな都市だが、のどかな印象はある。人口は多いが、派手な建築なんかは無いからだろう。そして自然と街が一体化している。ヴェネツィアではないが、水の都である。陸とそれほど離れていない場所に島が点在し、それらを小型のフェリーが結んでいる。日常の足だ。ぼくが宿を選んだフォートコチはその代表的な島だった。本土からフォートコチまでのチケット代金は、メモによると4ルピーとある。4ルピーは5円から6円の間だ。いくらなんでもそんなに安かっただろうか。

予約していた宿は個室だった。割りのいいドミトリーがなかったと記憶している。だがそのホステルに到着すると、いま断水されているからと言われ、別の建物の別の部屋に案内された。そこはどうやらホステルのオーナーの実家だか、お母さんの家だか、そんな感じのところで、ぼくのために準備していたのか、ここも一応宿であるのかわからないが、一応個室を割り当てられた。誤算だったのが異常に暑いということだった。コチがこんなに暑いというのも誤算だったが、気温が夜になっても下がらないという点も誤算だった。その上ぼくはケチってエアコンのない部屋を予約しており、ご丁寧に臨時で割り当てられた新しい個室にもエアコンがついていなかった。小さな窓はあったが密閉度が異常に高く、天井でまわるシャンデリアのような風車もほとんど意味がない。シャワーを浴びて横になったがまったく眠ることができない。この旅は寒さを避けて暖かい土地を巡る旅だった。始まりの夏はモンゴルや中央アジアを訪れ、冬のいまは東南・南アジアからアラブで過ごし、二度目の夏はヨーロッパを北上する。実際に防寒具を持たずに出国しており、これまで各地でも気温が下がってくると逃げるように南下し続けた。直近だとネパールの寒さが予想外で端的に耐えなければいけない場面が多かった。だからインドを南下するのは本望だった。しかしここまで暑いとは。ほんとに暑いとこは暑いし寒いとこは寒いし、まったく地球というやつは。

わずかでも風と夜気が欲しく、部屋から出てリビングルームで手持ち無沙汰にしていた。そこに現れたのはオーナーの母親だ。オーナーの母はぼくに調子はどうかと訊ね、暑いでしょうと言った。ぼくはうなずいた。ぼくがただ暑いのではなく、耐えられないくらい暑いのがわかったのだろう。オーナーの母はそんなぼくに救いの手を差し伸べたのだ。エアコン付きの部屋が空いているからそっちに移る?と言った。もちろん料金は変わらない。そしてぼくは荷物を移し終えた。
「ありがとう」
「息子には内緒ね」オーナーの母は言った。

(たいchillout)

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【インド/ムンバイ→コチ】地球の歩き方を自分で見つけること

旅立ちからジャスト八ヶ月の日に、コチへついた

例によってsleeperクラスの三段目。コチ行きの鉄道も20時間を越えた。大都市ムンバイからすると下りの路線なので乗客はこれまでよりも少なく、車内は乾いていて落ち着いていた。南下するにつれて如実に暑くなった。デリーではウィンドブレーカーを着ていて、ムンバイではカーデガンを羽織って、コチ行きの鉄道でTシャツになった。車窓からはときどき海が見え、ときどき、まっすぐとその海へ続く誰もいない一本道が見えた。天気は無限に晴れている。植物はマングローブのように大きく丸みを帯びたものになってきた。いくつもの河にかかる橋を渡ることが増え、熱帯の湿地に入っていることはわかった。暑さが暴力的なものになる。だが、景色は美しい。男が一人、河に足を浸した牛の背中に水をかけている。男が一人、河の水に浸した服を石に叩きつけて乾かそうとしている。尽きかけていたミネラルウォーターを買おうと停車駅でホームに出ると電車が走り出したので慌てて戻った。暑さは暴力だ。日本にいて暑さが暴力にならないのは、そこにアイスコーヒーが、スタバが、図書館があったからなのだ。ぼくはHIGHWAY TO HELLと書かれたAC/DCのTシャツを着ていたが、首回りも肩もボロボロになっていたので次のモルディブで会う彼女に渡して日本に持って帰ってもらうことを決めた。黄緑色の、遠くからでも目立つHIGHWAY TO HELLはお気に入りだった。苦楽を共にしたHIGHWAY TO HELLは天国に一番近い島で天命を全うすることになるのだと思った。同じコンパートメントにはおじさん二人、おじいさん一人、おばさん一人、「国は?」と聞かれたのを皮切りに質問攻めにあった。
「国は?」
「仕事は?」
「結婚は?」
BMWは日本製?」
「インドに何日いるの?」
「宗教は?」
宗教はないんだ、と答えると、
「じゃあrollは?」と聞かれた。
ロールってなんだろう?と首を傾げるぼく。おじさんは、
「ほら、信仰する神のことだよ、シヴァとか」
と補足してくれたが難しくて答えられなかった。

「日本はテクノロジーがアドバンストしてるよね」と言われた。インド人は日本の技術を褒めてくれることが多い。日本と聞いて連想されるイメージは、当然だが国によって違う。インド人は技術。石油の国々ではトヨタなどの車。フランスやアメリカ西海岸の人はアニメなどのサブカルチャー。それらはむろん、自分たちがどの分野に力を入れているかという関心の裏返しだ。ちなみに中国人の男は、少し親しくなると、東京のナイトライフとアダルト系WEBサイトの話をしてくる。だいたい中国なまりがひどい英語なのでほとんどなにを言っているのかわからないのだが(しかも若干声を潜める)、ニヤニヤしているので、ぼくは言いたいことに勘づくスピードが早くなった。日本は性的な意味で楽園だと思っている中国男子は多い。

この鉄道の中で、お守りのひとつだったビールジョッキのキーホルダーの金具が引っ張られてバックパックからちぎれた。旅立ちからジャスト八ヶ月の日に、コチへついた。

 

地球の歩き方を自分で見つけること

南インド、ケーララ州コチ。旅好きでなければ知らないであろうこの土地にぼくが行ったのは、そこからモルディブに飛ぶチケットを買っていたからだった。
インド以西のルートを考えあぐねていた。本当はパキスタン、イラン、トルコと陸路でヨーロッパまで行きたかったが、パキスタンとイランの国境は閉鎖されていると話に聞いており、インドとパキスタンの国境は通れるには通れるが両国は一触即発だと言われていた。だからぼくは空路を選んだ。空路を選ぶからには空路ならではのルートをとりたい。その結果のモルディブであり、次のスリランカであり、そしてぼくはスリランカから、未知の極みであるオマーンという国へ飛んだ。モルディブオマーンは旅立ちの時点では全く意識していなかった国だった(スリランカは憧れたビールがあるので行くつもりだった)。
いまでもそのときの気持ちを少しだけ思い出すことができる。オマーンという、自分が一切の情報を持っていないイスラムの国へ飛ぶことを不意に思いつき、そのアイデアが具体化していき、ついにチケットを買ってしまったときのワクワク感。またこれで面白くなる、そう感じたときの喜び。ほとんどの人間は、その人自身がよく知っているものが好きだ。「好きなもの」があるのではなく、「知っているもの」が好き。よく知っているものに出会うと、反応し、饒舌になり、自分の正しさを感じる。だから彼らは知識の断片をすでに所有している憧れの国へ出かける。あらゆる情報を行動の前に調べ上げ、同じ思い出話を永遠と繰り返し、未知にはただ口を閉ざして感覚を遮断して緊張し身構える。ぼくは違う。違うのだなあと最近よく思うし、違うことを誇りに思う。ぼくはオマーンの楽しみ方を知らない。ぼくは未知のものに、既知のものよりも絶対にときめく。知らない景色に親しみを感じることができ、知らない現象・トラブル・屈辱をその場で解釈し、ノリと常識が通用しないところでコミュニケーションを開始し、はじめて出会った人の人生の話を自分の人生よりも何倍もすごいストーリーだと確信して聞くことができる。ノリと常識が通用しない場所に旅で身を置くことは、ノリと常識がピタリと一致する人と旅で出会うことよりも圧倒的に本当の幸せに近い。
スリランカ、そしてオマーンからは全く新しい旅がはじまる。リゾートのモルディブではこの旅の例外的なバカンスがある。一年間を目安にした旅のうち八ヶ月が経過し、アラブに踏み入り、いよいよアジアをフィニッシュしようとしている。だからコチはこの旅の、前半が終わる場所だった。地理と時間における区切りだった。デリーやムンバイからモルディブに飛ばなかったのは、コチの方が安いからだ。安いという理由だけでインドの南端まで行ってしまうことが大事だった。それがぼくにとっては、インドを楽しむことにおいても、ベストなアイデアだった。インターネットを見ればたとえコチだって日本人の誰かがそれについてブログに書いている。ぼくはそれを見ない。テレビでは過去に一度はどこかの局が世界のあらゆる辺境を特集している。ぼくはそれを見ない。地球の歩き方を読まない。歩き方を自分で見つけることが一番エキサイティングで、それは、安全や安心が欲しいからといって軽い気持ちで手放してはいけないものだ。そのエキサイトには、どんな絶景よりも、人間を解き放つ力がある。
楽しみ方を自分で見つけた時だけ、対象について本当に自分オリジナルの意見を持った時だけ、本当の充実感が手に入るのだといつかどこかで知った。そのきっかけはゲームだったかもしれない、レゴブロックだったかもしれない、昆虫飼育だったかもしれない。
いずれにせよ、その直感に忠実に、より自覚的に、より頑固にやっていく。

(たいchillout)

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【インド/ムンバイ】神聖な場所には何もない

アフガニスタン

ケーララ州コチ行きの寝台列車のチケットをチャーチゲート駅で買った。出発は二日後だ。チケットカウンターに並んでいたのだが、目に見えてイライラしている西洋人男性がいて、彼はどうしても今日の鉄道でデリーに行きたいらしい。彼の出身はハンガリーだった。
長距離列車のチケットはどこでも買えるわけではない。特に外国人には専用の窓口があった。ぼくの前に並んでいたのはアフガニスタンからきた男性だった。旅行者か仕事かわからない。アフガニスタンは紛争地帯だ。一部、渡航が可能なエリアがあるとどこかで聞いた記憶があるが、ぼくにしては珍しく行くことをイメージすらしなかった国だ。旅をしていればそこで何人(ナニジン)に会っても驚かないが、アフガニスタンにはインパクトがあり、まじまじと見てしまった。不思議なことに、一般市民である彼自身がゲリラ活動をし銃火器や軍用ナイフを携帯しているわけではないとわかっているのに、彼に関わったら危険なのではないかとそのときぼくは無用な警戒心を持った。その考えが全く理不尽で頭の悪い間違いであることに気づきながら、ぼくはぼくの緊張感を取り除けずにいた。

 

開襟シャツのおっさんたち

チャーチゲートから徒歩で南にくだれば、イギリス植民地時代を彷彿とさせるトラディショナルな建築が並ぶ。美術館、そして官庁街だろうか。その割には大衆的な雰囲気もある。地図アプリでピンを打っておいたビアバーに入って昼下がりながらエールとIPAで一服。テーブルも椅子も高いタイプの、吹き抜けのある二階建てのバーだ。その後夕方にかけてゲートウェイ・オブ・インディア・ムンバイから大勢の国内外の観光客に混じって海を眺めた。街頭のスタンドでケバブの親戚のようなものを買って食べる。スパイシーだが具材は、インドなのでベジタブルだ。黄色く濁った目をした老人が何事かを話しかけてくる。ぼくは日本語で「うまい 美味しい めっちゃうまい」と言った。
やがて、ドアが開け放たれた満員電車で帰るのだが、車内は仕事帰りのおっさんばかりなのに少しも臭くなかった。全開のドアから入り込む風が車内を開放的にしている。西に、アラビア海に沈む夕日が見える。おっさんたちは誰もスーツを着ておらず、開襟の、リネンかコットンの半袖シャツを着ている。東南アジアでも男たちはよく開襟シャツを着ていた。肌の色の濃い痩せた男たちには襟のついた開襟のシャツがよく似合う。目的の駅が近づいてからだをもぞもぞさせているぼくに一人のおっさんが何事かを言った。何を言ったのかわからなかったが、ぼくは駅の名前を言った。おっさんたちは協力してぼくに道をあけてくれた。

 

Worli Fort - 少女の歯

翌日、ドミトリーを変えた。豊かな地域らしく、清潔なスーパーマーケットがあった。たしか三階建てだったと記憶している。外国ではよくあるように入店に際して大きなバッグはロッカーに預ける必要がある。パッケージデザインにも手を抜かないブランド意識を感じさせる食品が多く、もちろん外国産も多い。スタバに行くとパソコンを広げ打ち合わせをする男たち、外国人、勉強する大学生や高校生がいる。
だが、海辺へ近づくと再びスラムに入った。スラムの特徴は家が家らしい原型を留めておらず、臭いがあって、切断された鶏が転がっていたりする。そして人は必ずいる。スラムは平日の日中だからといって過疎になることはない。オフィス通勤したりママ友ランチをしたりすることがないから生活が止まない。ぼくは海を目指して歩いた。海があればとりあえず海まで歩く習慣になっている。ムンバイのスラムは三つ目だ。ひとつ目はここで触れている。二つ目は二日前の午後のことで、これも海のそばだった。Worli Fortという要塞が岬の突端にあって、そこに向かっていくまでの半島全体がスラムだった。そこはスラムなのにカラッと乾いていてバラナシのよりも入り組んでいたがなぜか小さな道にも時折日差しが届いた。ぼくはその中を何人かに道を聞きながら何も無いWorli Fortまで行った。Worli Fortはイギリスかポルトガルがつくったらしい要塞だが、本当に何も無い。当然観光地でもなかったが先端でわかりやすい場所にあったので行った。そしたらスラムを通りぬけることになったわけだ。"神聖な場所には何もない"。ハイロウズの曲にそういう一節があったことを思い出した。Worli Fortには猫が一匹と波の音、海にかかった橋を渡る車の音があった。Worli Fortの北の数キロ先にはBandra Fortがあり、二つのFortの間は湾になっている。湾を渡る大きな橋がWorli Fortの南の半島の付け根から伸びていた。引き返す途中、小道の先にオモチャの狩猟銃を持って、猫にミルクをやるおかっぱの少女がいた。通りがかったぼくが少女に笑いかける前に座り込んだ少女がぼくに笑いかける。人懐っこさとはこのことをいう。ぼくはとっさに、口を開けて笑った瞬間の少女の歯を見た。スラムに暮らす子はどんな歯をしているのだろうと思った。

話が二日前に脱線してしまった。ともかくまた海に出た。こちらは弓のように曲線を描くロングビーチになっており、泳いでいる人はいないが、クリケットやビーチバレー、サッカーをしている男たちがたくさんいた。意味もなく歩いている人も多い。再び夕暮れ。自分の身体よりも大きな袋を担いでゴミを漁る背筋の伸びた小柄な老婆。上空の飛行機。夕飯はSantacruz(サンタクルーズ)という駅の前まで歩いてハッカヌードルを食べた。

(たいchillout)

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【インド/ムンバイ】アラビア海へと続く坂道

ポンデリング

かつてはボンベイと呼ばれたムンバイはインドの国土の南でも北でもなく真ん中にある。そして西のアラビア海に面している。経済と人口では首都デリーと同格の規模を持ち、貿易の港町で、映画を中心としたエンターテインメントにも強い。
ただ歩くだけで、空気も植物も砂も街もデリーとはずいぶん違う感じがした。まず第一に気温が大きく違う。露店で売っている食べ物も違う。デリーと比べるとムンバイにはカレー屋が少なく、チャイ屋も少ない。その代わりにデリーでは見かけなかった謎の揚げ物を売っている店が多かった。甘そうで多分自分の好みではないと思った。遠目にはミスタードーナッツポンデリングにも見えなくないが絶対ちがう。

 

ストロベリーラッシー

予約していたホステルの宿泊客はアクティブなタイプの若い西洋人ばかりだったが、狭く、砂埃が舞って、現地の人の人通りが絶えない道にあった。シャワーを浴び長い鉄道旅の汚れを落として軽くホステルの周りを歩いた。インドではじめてのラッシーを飲んだ。ストロベリーラッシーだ。インドといえばラッシーということもあってか、特にバラナシでは日本人に有名なラッシー屋がいくつかあるようだったが、ぼくは興味がなかった。ムンバイで入ったラッシー屋は喫茶店のような雰囲気があり、観光客は誰もこなそうだからきっと美味しいだろうなと思った。やっぱり美味しかった。お昼時をすっかり過ぎた田舎のモスバーガーみたいな弛緩した雰囲気の店内に客は少ない。仕事の打ち合わせといった雰囲気の男女は、清潔な身なりをしており、肌の色が濃いから原色の服がすごくビビットに映える。二人の周囲だけを切り取るとここがアメリカの学生街だと言われてもおかしくない。それから道でおじさんから焼き芋を買って、人の少ないビアバーに行って、この日は早めに寝た。

 

Riye

よく晴れた次の日、この日もとりあえずホステルの周りを探検しようと、地図アプリで適当に目星をつけた教会を探して、半分スラムのような場所に迷い込んだ。スラムの定義はわからないが、その場所はまずざっくりと印象がきたなくて、人々の生活が狭い道にはみ出している。どこまでが家の敷地かわからず、どこからか茶色や黒っぽい液体が流れてきているからそれを爪先立ちで避けながら歩かなければならない。だんだんと道幅が狭くなってきたところで、目の前に学校の制服を着た少女が立っていた。中学生くらいだろうか。少女はぼくの行き先に立ちはだかっていて半身でこちらを振り向いた。ぼくは立ち止まった。少女はおびえるのでもなく、好奇心をのぞかせるのでもない様子で「Where are you going」と言った。「church」と答えた。なんのchurchか忘れたからただchurchと言ったのだが、少女はどの教会のことか判ったらしい。「こっちじゃないよ」と言った。ぼくはどうしても教会に行きたかったわけではなく教会を目安に散策をしていただけだったので、それならそれで構わないからこのまままっすぐに行きたい、と思ったが上手く言えるはずもなく、ぼくが困っていると思ったのか少女は「案内してあげる」と言った。ぼくたちは少女の家の前に立っていた。少女は家の奥に向かってヒンドゥー語でなにかを言った。「道に迷っている旅人さんを○○教会まで連れていってくるわ。すぐ帰る!」。たぶんこんな感じだろう。
教会までの道中、インドなまりが強かったが少女は淀みなく英語を喋った。ぼくはほとんど聞き取れなかった。「日本はテクノロジーがすごいんでしょう?」そう言ったのは聞き取れた。教会に続く上りの階段のふもとに立って、別れ際にRiyeという名前を教えてもらった。発音だけでは聞き取れなかったのでスペルを一文字ずつ教えてもらった。

 

アラビア海へと続く坂道

教会を見た後、地図を頼りに海の方向に歩いた。しばらく海を見ていない。ムンバイの前はデリーで、その前は内陸国のネパールを横断しており、ネパールの前はバラナシ、その前はコルカタコルカタに飛んだのはバンコクからだ。コルカタでもバンコクでも海を見ていない。バンコクの前はチェンマイチェンマイにはラオスから陸路で入った。ラオス内陸国ラオスの前はカンボジアカンボジアにはベトナムホーチミン・シティから入国している。ホーチミン・シティでは海を見ていない。最後に見た海はホイアンからホーチミン・シティに南下するバスからの風景だ。ちょうど二ヶ月前頃になる。
潮の香りが漂う。もうスラムではない。威厳のある大きな建物が多く、いくつかは大使館かもしれない。やがて下りの坂道のアスファルトにでた。アラビア海へと続く坂道。坂の上から海が見えたからそう思ったのだ。
海を見てもやることはない。ムンバイは暖かいが二月なのでさすがに泳いでいる人はいない。人も少ないがゼロではない。ぼくのようになんとなく海にきたという現地の人たちが点々といる。岩場で洗濯物が干されている。濡れた長い髪を振り乱す子どもに見惚れていると、ぼくによってきて右手を差し出した。お金はあげない。子どもはインド人にしても肌の色が黒かった。男の子なのか女の子なのかもわからなかったが、目も眉もとても鋭く美しい。子どもはぼくに断られてもしょげることも卑屈になることもなく、大きく手を振って歩いている。
海岸沿いで見つけたカフェのテラスでチョコチップマフィンとカフェラテのランチをしていると、さっきの子どもが小さい子を抱っこしていた。抱かれているのはまだ歩けない子だ。髪の長い子どもは、ぼくには気づかずにカフェの前を横切った。

(たいchillout)

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【インド/PASCHIM EXPRESS】たいチルラップ

フランスのルフィ

デリーからムンバイへのながい列車の旅がはじまった。PASCHIM EXPRESSという名の寝台列車は16時45分にほぼ定刻通り出発し、翌日の14時45分に到着する予定である。ぼくは指定席のない当日券を除くと最も安いSleeperクラスの寝台を確保した。コルカタからバラナシに向かったときは陽が暮れてからの出発で朝早い到着だった。つまり外を見てもずっと真っ暗で、読書と睡眠くらいしかやることがなかった。今回は違う。長旅なので明るい時間も鉄道に乗っている。車窓からの景色を楽しめるのである。

寝台は三段ベッドになっており、日中は跳ね上げ式の二段目が畳まれている。そうすることによって天井が高くなり、一番下の段に上中下段の三人が並んで座れるようになる。一番下のベッドを使う人は気の毒だ。三人の男の尻が終日たっぷり押しつけられたシートに夜は眠ることになる。むろんシーツなんてない。
三段ベッドは隣の三段ベッドと向き合っており、それぞれの二段目を畳むと六人がけのボックス席ができあがる。ぼくのいたボックス席のメンバーは、ぼく以外に二人のフランス人男性がいて、他はおそらくインド人。もちろんぼくは最上段の寝台を手に入れた。ただでさえ倹約してSleeperクラスを買ったのだからそこは譲れない。ぼくがチケットを買うときに最上段は空いていたが、空いていなかったら空いている日がくるまでいくらでもデリーでの滞在を延ばしただろう。時間に追われない気ままな旅行者は、倹約している分、こういうところでアドバンテージを駆使する。駆使するべきだ。二人のフランス人はぼくの下段ではなく、向かい合った三段ベッドの最上段と二段目にいた。

二月の北部。しとしとと雨が降ったり止んだりしている。気持ちを落ち着かせるような美しい霧の農村を多く通り越す。農村といっても村全体を車窓から見渡せるわけではない。実際には家が一軒だけ見えることが多い。家はなにかの畑を持っていて、開放的なつくりになっている。ときどき動物や子どもが駆けている。
下段に座ってそうした景色を見ていると突然頭の上から日本語が降ってきた。
「いっただーきまーす!」
三段目に座ってケバブのようななにかにかぶりついたフランス人男性だった。
「きみ日本語話せるの!?」
男性は日本アニメのファンらしい。いまのはモンキー・D・ルフィの物真似だった。日本語は話せないがアニメのセリフは覚えていると言った。ぼくをびっくりさせようとしたんだ。

雲に隠れた陽が沈む間際。通路の反対側の男性がコーランを唱えはじめた。窓の方を向いて頭を下げた。ムスリムの人なのだ。ぼくは男性のケータイの画面を盗み見た。そこにはびっしりと文字が書かれており(ヒンドゥー文字かタミル文字かアラビア文字か忘れた)、そのびっしりさにぼくは、そこに書かれているのはコーランなのではないかととっさに考えた。南下する鉄道の向かって左側に男性はこうべを垂れていた。あれ?そっちは東だ。メッカはサウジアラビアなので、西にあるはずだった。
夜、トイレに入る。なぜか電気がつかなく、ぼくはケータイのライトをつけた。トイレットペーパーで便座を拭いて、それをライトにかざしたらトイレットペーパーは真っ黒だった。

朝、車内を練り歩く男からチャイを買う。買い込んでおいたクロワッサンを食べて、もう一度車内を練り歩く男からチャイを買う。隣の車両のトイレに行って、戻り際にひらかれたドアからすでに明るくなった外の景色を見て風を浴びた。
パシパシと威勢良く手を叩いて若い女が歩いてくる。三段ベッドの一番上から体育座りで通路を見ていたぼくの足を強く突く。なにか用があるのかと思えば、金をくれというジェスチャーだ。金をねだるのになんだ強気なその態度は。見ると左手の五本の指の隙間には綺麗に折りたたまれた10ルピー札や20ルピー札が連なっている。ぼくはどきどきしながら無視をした。隣のコンパートメントのインド人たちを小突き出したその女の背中に向かってぼくは日本語で言った。
「調子ん乗んなよ!!」
すると、通路越しの下段ベッドに座るインド人男性が、三段ベッドの上にいるぼくを見上げた。しばらく目が合う。男性はクイっと首を傾げた。
「しょうがねえやつだよな」
そう言ってるように見えた。

 

たいチルラップ

上半身裸で、裸足の足を引きずるようにして雑巾で通路を拭く男。そのとき、下段のベッドに座っていたぼくは組んでいた足を上げた。男はぼくの足元にあったチャイのコップやその他細かいゴミを雑巾でかき集めて、綺麗にした。男は手を差し出してチャリチャリと小銭を鳴らした。ぼくは足を組み直したまま、ケータイから顔を上げなかった。男の体には障害があった。清掃係ではない、おそらくは無断で乗り込み自主的に掃除をしているに違いなかった。
今度はちんどん屋が通路を通っていく。母娘でやっているのだろう。母親は打楽器を叩き、それにあわせて煤けた少女が腰でフラフープを回す。最後に少女は通路に頭をついて前転した。
再びトイレにたって、ドアからの風を浴びる。大平原の彼方に見えたのは巨大な骨組みだけの伽藍堂だ。まるで学校か大聖堂が全焼したみたいだった。
図々しい若い女の物乞いがまたやってきた。ぼくは触られることすらないように退避して最上段の奥で身構えていた。女が突いたのはルフィのフランス人男性だ。ルフィは言った。「don't touch me」
非情だ。しかし本当に的確で簡潔な表現だった。
南に向かうにつれ、心なしか暖かくなり、植物の相が変わってきているように思う。通りすぎた駅のホームで下半身がすっぽんぽんの子どもが倒れて泣いている。日差しが強くなってきた。植物は若葉の色をしている。
位置情報を確認するとムンバイまであと50キロとある。見渡すかぎり野ざらしの自然の中を突き進んできたが、だんだんと都市型のマンションが現れるようになってきた。郊外。という言葉が自然と浮かんだ。
この日ぼくは朝からケータイのメモ帳を開き、せっせとラップを書いていた。なぜか。この時期、インドでとある映画が公開され、大ヒットしていた。『GULLY BOY』という映画だ。ぼくはデリーでそれを見ようとして映画館のチケットカウンターまで出向いたが、英語の字幕版がラインナップになかったので迷った末に断念していた。だが『GULLY BOY』の舞台はムンバイだった。ムンバイのスラム出身の一人の男がラップで成り上がっていくというあらすじだった。この映画はムンバイで見るのがふさわしいのかもしれない。ぼくはそう思ったのだ。そしてその映画のことを考えながらこの鉄道で暇を持て余していたぼくは、なんの気紛れか自分でもラップを書いてみようと思った。言っておくがぼくはラップには詳しくない。どっちかというとロックが好きだ。だけどそんなこと関係ないだろう。そんな気持ちになった。歌を作るのは好きだ。だからたまに自分の曲の作詞をすることもある。たいチルラップというタイトルだ。ここにその全文を掲載する。

 

たいチルラップ

おれは日本からきたたいチルアウト
いろんな国を見てきたんだ
いろんなヤツを見てきたんだ
だけど何にもわかっちゃいねえ
だけど何にも知っちゃいねえ
オマエがオレを知らねえように

おれは日本からきたたいチルアウト
自分ひとりでココまできたんだ
だからオマエとココにいるんだ
10ルピーのチャイを飲んだら
200ルピーのスタバに行くぜ
完全無欠の自己完結だぜ

おれは日本からきたたいチルアウト
いろんなコトがあったわりには
いいトコだけを記憶している
大都会のメトロに揺られて
メコンの果てまで探しにゆこう
誰も知らない旅の理由を

おれは日本からきたたいチルアウト
スクールバスの扉が開き
初めての街がヴェールを脱ぐ
カトマンドゥのマーケットも
ジョージタウンの潮風も
この寝台に乗せてゆく

(たいchillout)

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【インド/デリー】チャイ屋の開店を並んで待つ

パンツがない

街のクリーニング屋にただ洗濯をしてほしくて服を預けたのだが、翌日に取りに来いと言われていざきてみると店が閉まっていた。困ったなあと思ってさらに次の日に行くと、開店時間の十一時になってもシャッターが開かない。そこは路地裏にある小さい店で、目の前で子どもたちが遊んでいたので「ここいつ開くの?」と聞くと「十二時だよ」と教えてくれた。子供たちは厚紙を丸めたものにガムテープを巻きつけて、それをボールにしてぶつけ合っている。そのぶつけ合いをしばらく眺めていたがルールらしいルールはなさそうだ。ボールを拾った誰かが別の誰かにぶつけるだけ。鬼もへったくれもありゃしない。クリーニング屋が十二時に本当に開店するのかも疑わしかったので、ぼくは一旦その場を離れて少し歩いてカレーを食べた。さて、満を持して戻ってくると店は営業を開始しており、義眼の男性がひとりで服を畳んでいた。ちなみに店にドアはない。ぼくは「洗濯物をとりにきました」と言えばそれで終わるものかと思ったが、男性はぼくの洗濯物のありかを知らなかった。ぼくは事情を最初から説明した。男性が、店内で山積みになっている服たちを一枚ずつひっくり返していくと、一枚、また一枚とぼくの服たちが現れたが、パンツが一枚足りない。「パンツがないのだが」と言うと、男性は「ここにはない。妻が知っているだろう」と言った。ぼくが洗濯物を預けたのは奥さんだった。だが奥さんは今日は出勤日ではなかった。男性は「明日、妻がくる。明日もう一度来てくれ」と言った。ぼくは食い下がった。そもそも本当は昨日回収できるはずなのに、店が開いてなかったから仕方なく今日来たのだ。それをさらに明日にしてくれなんていいかげんすぎる。そうした文句をぼくが垂れていると、別の顧客のインド人男性が現れ、通訳をかってでてくれた。通訳はぼくに彼の個人的意見を述べた。「俺もここの洗濯屋を何度も利用しているが、ときどき彼らはミスをするよ。でも洗濯物をLostしたらお金を払ってくれる」。通訳を信用するなら、ミスをしてすっとぼけたりはしないということだ。すっとぼけないことはなによりも大事だ。ぼくは明日もう一度来ることに決めたが、ぼくが真剣だということを伝えるために、自分の電話番号を教えて「パンツがあったらここに電話してくれ」と言った。そして「いや、パンツがなくても電話してくれ」と付け加えた。だが、ここまでやっていろいろなことに面倒になったのか、翌日になってぼくはもうパンツのことなんかどうでも良くなっており、結局洗濯屋に行かなかった。電話もかかってこなかった。

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出会いのすべてはタイミング

話は前後するが、デリー三日目にぼくははじめてニュー・デリーではなく、オールド・デリーに行った。オールド・デリーは簡単に言うと旧市街、いわゆる下町だ。オールド・デリーはニュー・デリーよりもはるかに混沌としておりインドらしい猥雑さに満ちていた。バックパッカーも多く見かけた。古くからの安宿の多くはこの辺りにあるようだ。ムンバイ行きまで日数があったのでデリー最後の二泊をぼくはオールド・デリーで過ごすことに決め、宿を変えた。以前の宿を後にするときにダーがいて、手を差し出してきたので握手した。ダーはぼくに「どこに行くの?」ときいて、本当の出発は二日後だったがぼくは「ムンバイ」と答えた。日本の漫画や化粧品が好きなタイ人女性のダーとは、タイミングが合えば仲良くなれたと思う。中学や高校で、入学式の日の出席番号順で近かったというだけで三年間の付き合いが誕生するように、出会いのすべてはタイミングだ。ダーは英語が上手く、おそらくは留学経験があるか帰国子女に違いない。なにを話すときにも、(テンションが高い場合はかなりの確率で)語頭に「fuckin'」とつける癖がある。あまりきれいな言葉ではないが、ネイティブでない限りそういう表現には慎重になるはずなので、英語が体に染みついている故だろう。口癖といえば、ネパールで会ったゲイルも極めて英語が達者だが、意外にも「oh my god!」という日本人にとっては陳腐だと感じる表現を多用する。広州のスズにもよく使う言葉があって、ぼくはこれがなかなか好きだ。スズはゲイルが「oh my god!」と言うような状況に遭遇すると、サラッと一言こう表現する。「crazy」。

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広島と長崎では野菜は育つか

安くて美味かったのでデリーではとにかくカレーを食べ続けたが、混ぜそば風のハッカヌードルも美味しかった。といっても、味も食感もほとんどインスタントラーメンなのであるが。ぼくは子どもの頃から麺好きなので、麺があると嬉しい。麺はほとんど世界のどこにでもある。ベースはチャイニーズだが各地で独自の進化を遂げている。たとえば、インドにもあるがネパールでは特にチョウメンという焼きそばのような麺が主流でよく食べた。
オールド・デリーでチェックインしたホステルは、狭く清潔感に欠けていたが、二泊だけということもあるし、よしとする。ドミトリーメイトにはインド人のタリーとマレーシア人のディンがいて、二人ともたくましくヤンチャな感じがする男だ。二人とも顔つきがちょっと日本人に似ている。タリーは同じインドと言ってもミャンマーとの国境近くのナガランド出身だった。ぼくはナガランドを通過していない。紅茶で有名なアッサムの近くだ。タリーいわく、ナガランドとデリーでは言葉も顔もまるきし違うらしい。この広いインドでは本当に多くの民族が異なる言葉を使って暮らしているために、同じインド人同士でもときには英語でコミュニケーションをとると噂にはきいていたが「それは本当だ」とタリーは言った。タリーかディンのどちらか忘れたが、「広島と長崎では野菜は育つのか」と突然聞かれた。考えたことがなかったがぼくは「育つと思う」と答えた。二人は「ホンダ」「トヨタ」「トーシバ」と日本について知っている言葉を並べ立てたが、そのなかに「ヒロシマ」「ナガサキ」が含まれるのだなというのが印象に残った。

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オールド・デリー

オールド・デリーにいた頃は気温が下がっており、近所に気に入ったチャイ屋を見つけたのでぼくは二日続けてそこに開店前から並んだ。朝は一杯のチャイからはじめないと気が済まない体質になっていた。チャイ屋の開店を並んで待つ人なんてぼく以外にひとりもいない。チャイ屋のオヤジの熟練した一手間一手間をぼくはずっと見ていた。朝の早い国が好きだ。思い出すのは中国、香港。朝早くから動き出す人たちで暖まっていく街の雰囲気が好きだ。
映画館の隣のバーに行くと、そこはバーというよりかはクラブだった。身体にぴったりした服をきたオネエちゃんたちと革ジャンのオニイちゃんたちがくっついたり離れたりしながら踊っている。器用なステップを刻んでるやつも、ラフに踊っているやつもいる。ぼくはビールとフレンチフライをオーダーしてそれを見ていた。青年たちはあくまで自分たちが楽しむことしか考えていないようで、かなり崩れた、ふざけた動きをしているやつもいるのに、それがちゃんと見るに耐えるものになっているのは、彼らにダンスの素養があるからなのだろう。酔いも手伝ってか、ぼくはだんだんと、店に入った瞬間は失敗だと思った爆音のクラブミュージックが気持ち良くなってきた。 ソウルのホンデで見たストリートダンスを思い出した。パーティも悪くない。いい男と、いい女、酒と音楽。バラナシのガートとはえらい違いだ。ぼくはデリーのリアルを目に焼き付けた。

オールド・デリーに二泊して、翌昼過ぎにムンバイ行きの寝台列車に乗った。ここからは二十時間を超える長旅だ。事前に、水はもちろん、リンゴやクロワッサンを買い込んでデイパックに詰めた。このインド亜大陸をダイナミックに南下する鉄道の中でぼくはひとつ、面白いことをした。三月は近い。

(たいchillout)

デリー編(2019.2.19 〜 2.25)終わり

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