银河铁道TIMES

Korea China Mongol Kazakh Kyrgyz Uzbek Malaysia Thai Singapore HK Vietnam Cambodia Laos India Nepal Maldives SriLanka Oman UAE Egypt Israel Greece Albania Montenegro Croatia Slovenia Italy France Spain Portugal UK Belgium Netherlands Germany Czech Denmark

【ネパール/ポカラ】なんといってもお気に入り

そして湖には静寂がある

ポカラはこの旅を通してのぼくのお気に入りだと言える美しい街だ。ひとことで表すと湖と山の町。自然というか地形というか、その全体。いわゆる「ランドスケープ」に魅力がある。ただ自然が豊富というのではない。佇まいがいいのだ。多くの人におすすめしたい。
多少はツーリスティックではある。なにせこれだけ自然が魅力的なので観光開発はされている。だが派手さはない。八割のバックパッカーにとって許容範囲内だろう。中心部(つまりレイクサイド)のカフェや食事処は基本的に外国人観光客向けに営業されているが、味や価格帯はわりに安定している。徒歩で町を観て廻ることができる。長旅の途上にあるバックパッカーにはあらゆる点が丁度いいと感じられる町だと思う。静かで美しく、快適さもあり、旅の疲れをここでしばらく癒すのもありかなとつゆほども思わない旅人がいたとしたら、それは極めて少数派の旅人ではないだろうか。

到着したときにバスステーションから見えた真っ白い山の頂は町の中心からも見えた。ある朝その山と湖の見えるカフェのオープンテラス席でコーヒーを飲んでいると、同じテラス席になにもオーダーせずに座っている少年と少女がいた。カフェの身内だろうかと思っていると通りの向こうからスクールバスが現れカフェの前で停車し、二人はそのバスへと駆け出していった。そのあとぼくは広くほとんどだれもいない公園に行って和歌山で買ったハーモニカを吹いた。

ぼくは湖沿いを何度も往復した。朝は幻想的に霧がかかって、昼は空が突き抜け見晴らしが良くなり、しかし夕方の空気の透明感こそ格別だった。童謡とフォークソングの中間のようなさみしげな曲を弾き語るストリートミュージシャンがいて、近づくとなんと彼は日本語で歌っていた。各地の海と川を見てきたが湖というのもいいものだとぼくは思った。川には人の生活がある。海には永遠と繋がっているような開放感と、永遠から帰ってこれなくなりそうな恐ろしさが同時につきまとう。そして湖には静寂がある。

 

バルディヤ行きのチケットを求めて

ホステルにあった英語のガイドブックを読んで次の行き先をバルディヤに決める。ポカラから西、町らしい町がなさそうであり、三つの国境に関する情報も少なかった。最終的にポカラのトラベルエージェンシーの女性から聞き出した情報とネットでのリサーチも加味しての判断だったが不安は残った。インドに入った後も未定だった。首都のデリーが視野に入るが、街が存在するなら刻んでいく方が快適だし、面白味もある。とはいえ交通網の問題もある。鉄道旅をしてみたいが例によってインドの鉄道予約は難関。バスでも考慮すべきことは多い。たとえば無計画に小さい街に入ってしまい長距離バスが立ち寄らないことを後で知ったりすると、大きな街に引き返す必要が生じたり、ひどく割高でイレギュラーな乗り継ぎを強いられることになる。そしてぼくはデリーの前に、リシケシュという、ビートルズが長期滞在したことで知られる街にも、もし可能であれば、行ければと考えていた。リシケシュはガンジスの上流で北にある。また三週間後にインド南部のコチからモルディブに飛ぶ航空券を持っていたため、コチに辿り着けないようじゃ大いに困るわけで、なによりそれまでの限られた時間、納得のいく過ごし方をしたかった。

トラベルエージェンシーの女性はバルディヤ行きのバスは当日券で乗れると言ったが、ぼくはこのときは事前にチケットを入手しておきたいと考え、カトマンズから到着したときのバスステーションまで歩いて行った。しかしバルディヤ行きのバスが発着するのは別のバスステーションだった。それを教えてくれたチケット窓口の女性が別のバスステーションに電話をしてくれ、代わりにここで買ってあげることもできると言ったが、ぼくはそれを断り別のバスステーションまで歩くことにした。いずれにせよ事前にそのバスステーションを見ておきたかったし、ここで買ってもらってもそれが正規の料金であるのか判別がつかないからだ。
そしてその別のバスステーションに来たのだが、結論から言うとこの日はチケットが買えなかった。担当者曰く「fixed bus number がまだない」。どのバスがバルディヤに行くのかまだ決まっていないので予約ができない。そういう理屈だ。明日になったらfixed bus numberがある、だから明日来てくれと言われた。ぼくは明後日の夜行バスを予約するつもりだった。余談だが、バスステーションはこちらの方が規模が大きく、地元の人ばかりで活気があった。ここにはツーリスティックな香りはない。レイクサイドのチルアウトムードもない。チケットカウンターも男たちで混雑しており、カウンターの男とはまともな英会話が成立しなかったので、久々に周囲の人々を巻き込んでてんやわんやのコミュニケーション(意志伝達)大会となった。

歩き通しの一日だったがここからさらに歩いてホステルまで帰り、夜はツナサンドイッチとビールで締めた。

(たいchillout)

f:id:taichillout:20201128195427j:plain

 

【ネパール/カトマンズ→ポカラ】埃の街から湖の街へ

埃の街

「長く半年近く旅をしてから、いろんなことの見晴らしが良くなってきている。この見晴らしを持ってすれば日本に帰ったときも、なんでもできるような気がしてくる」

肌寒いが陽当たりの良いホステルの屋上でひとりで朝食をとっているときのメモにこう残されている。ぼくはその心境をとてもよく思い出せる。なぜかというと、その感覚は「あの日あの場所」だけではなく「日々あらゆる場所」で断続的に感じ続けていたからだ。しかしそう感じたことは覚えていても、肝心な見晴らしの良さとなんでもできるような全能感そのものは、帰国して一年が過ぎた今ぼくの頭のどこの部分にも残っていない。さみしいと言えばさみしいし仕方ないと言えば仕方ない。ぼくはブログを書き続ける。

カトマンズを経つ日、七ヶ月の旅を共にしたスニーカーをホステルのゴミ箱にぶち込んだ。新しいものを買ったので古いものは捨てる。旅の持ち物すべてにおいて言えることだった。カトマンズは仏教色があり山を身近に感じる美しい街でナイスなクラフトビール屋もあったが、どこを歩いても埃っぽかった。これには出会った旅人もみな閉口しているようだった。ぼくはなんとカトマンズでマスクを買った。今流行のマスクだ。埃っぽいカトマンズに顔をしかめた同室のフランス人男性がぼくにおすすめした街がある。それが西に行った先にある「ポカラ」だ。ポカラには美しい湖があるという。内陸国のネパールにいて、ぼくも湖を見たくなった。それにポカラからさらに西に行けばインドとの国境が三つ程あった。ぼくはネパールに入国したときとは別の国境でインド入りすることにこだわっていたのでポカラはなににつけ最適な中継地点だった。カトマンズには四泊して早朝にポカラ行きのバスに乗った。

f:id:taichillout:20201122234941j:plain

 

山道

チケットの予約は不要、その場で買って乗れると人々が言うのでぼくはそうした。1,000ネパールルピー、どうやら昼食代金も含まれているらしい。ぼくは最後部座席の左の窓際に案内された。隣は西洋人のカップル。早めに乗り込んで乗客が揃っていくのを見ていたが、旅行者とネパール人が半々というところだろうか。バスの中程には中国人のおじちゃんおばちゃんのグループがいて賑やかにしている。そのノリもその厚かましさも日本人のおじちゃんおばちゃんグループに瓜二つ。そして彼らから通路を挟んで反対側に、ひとりの若い東洋人女性が静かに入ってきて静かに座った。その女性も、中国人かなとぼくは思った。同じ中国人でもこんなに違う。それにぼくは深いインプレッションを受けた。マナーのない浮かれた中年たちと、身のこなしからして丁寧なひとりの若い女性。

朝食はバスの中で買い込んでおいたパンをかじり、それから午前中はずっと車窓から景色を眺め続け、昼食は山の中の食堂だった。バスのチケットから半券を切り取りスタッフに渡すとちょっとしたバイキングにありつける。味は記憶していない。それどころではなかったのだ。ぼくは食後にトイレに入っている間にバスに置いて行かれそうになった。
インドにいた頃からお腹の調子が良くなく、ぼくは街歩きの最中も注意深くトイレの場所を把握し、トイレに困る状況を作らないようにしてきた。
長距離バスの移動でも同様で、ぼくは食べ過ぎないように飲み過ぎないように気をつけ、眠くてもだるくてもトイレ休憩はスルーしないように自分を叱咤した。旅でなによりも大切なのは実はこういう心がけの徹底だ。だが、それでもぼくのお腹は不安定な状態にあり、出発時間ギリギリまで洋式でありながら便座のない(洋式でありながら便座のない)トイレにこもっていると、なんか嫌な予感がしてきた。バスにトイレはついていないのでスッキリしないまま乗りたくはないが、なんか嫌な予感がする。嫌な予感に従ってぼくはトイレから出ることを決断し、ほとんど流れない水で手を洗ってトイレを出ると、食事場所には誰もいない。外に走り出るとぼくのバスが動き出していた。ぼくは手を振って走った。バスは止まった。間一髪。なぜかぼくが謝って無事バスに乗り込んだが、お腹の調子もアレなのであらゆる点で気が気でないままだった。あのままぼくがトイレにこもっていたらどうなっていたのだろう。ぼくのバックパックはバスのトランクに積まれたままだった。
朝早く出たバスは陽が傾く手前くらいの時間にポカラに到着した。あれからお腹は落ち着いたのでもうそれだけで御の字ではあったのだが、ポカラまでの山道は揺れが度を越してひどく、もう二度とあの道をバスで行きたいとは思わなかった。

f:id:taichillout:20201122235034j:plain

 
白い山

ポカラのバスターミナルからは白い山が見えた。すでに十分標高は高いが、さらに圧倒的に高い位置に見たこともないほど尖った山が見える。それも、とてもクリアに見えている。あれがヒマラヤだろうか。あるいはもしかしたらあれこそがエベレストなのだろうか。ぼくはひとまず売店でコーヒーを頼み、その山が見える位置に座って飲んだ。

(たいchillout) 

【ネパール/カトマンズ】アイコスの火

ヒマラヤのお膝元

カトマンズに一泊した翌午前、早速中心部のタメル地区に出かけてヤクの毛でできた手編みのフード付きセーターを買った。一張羅なのでいくつも試着し3,500ルピーから3,000ルピーまで値引交渉をして手に入れた。それをその場でウィンドブレーカーの下に着て歩き出す。見事に着膨れした。しかし最高にあたたかくなった。SIMカードを300ルピーで仕入れ、7日分4GBを900ルピーでチャージし、昼食は中華食堂で揚州チャーハンを食べた。カフェでアメリカーノを飲みながらiPhoneKindleアプリで小説を読み終え、アウトドア用品店をぶらついて靴や寝袋を物色した。キャンプをするわけではないが、ドミトリー形式のホステルは(特に南国の場合)掛け布団が一年を通してブランケット一枚だけという場合が多く、寒がりなぼくはつらい思いをすることも多かった。寝袋があればそういうときに助かる。キルギスパミール高原のゲストハウスでも暖炉付きの室内でミノムシみたいに寝袋にくるまって寝ている男がいた(彼は冬眠しているみたいだった)。出発前は新品同様だった靴もボロボロになった。旅立ちから半年が経過しており、ついに買い替え時である。靴下や下着もすでに旅先で仕入れたものを着ている。ネパールは登山の国であり、ここカトマンズはヒマラヤに挑戦する登山家たちが態勢を整えるために滞在する、一種のベースキャンプ地だ。そのため、トレッキング用のシューズなどの登山グッズがこれまでの旅先ではみたことないほどに充実していた。

f:id:taichillout:20201113233515j:plain

He doesn't like China

小さなショッピングモールで誰もいないフロアを歩いていると美容院のテナントがあり、表に「Korean Style」というラベルとともに前髪のある日本人みたいな髪型をしたモデルの写真が張り出されている。ぼくからするとそのコリアンスタイルがジャパニーズスタイルであってもまったく違和感がない。だがそうは書かれていないで問答無用で「Korean Style」と断定されていることによって、ここネパールで「韓国風」というのが一種の美的ブランドであることを理解した。
チャイナタウンを歩いていて匂いにつられると、そこは「バラ」というお好み焼きに似た料理をその場で焼いて売っている露店だった。英語を話せる男性が、ぼくがそれを買う世話してくれ、ぼくはてっきり男性が店の関係者かと思ったがただの客だった。男性の容貌は一見中国人に見える。しかし彼はれっきとしたネパール人だった。適当に世間話をしているとひとり旅風の美女が現れる。今度こそ中国人だろう、ぼくがそう思ったのは正解で、女性はモダンな上海ガールだった。世間話の中で上海ガールはネパール人男性に対して、ぼくのことを指して「He doesn't like China」と言った。ぼくが中国に対して批判的なことを言ったわけではない。確か「中国の発展はすごいねえ」という話をネパール人男性が話していたとき、ぼくがただ黙っており、なにかを勘違いして気まずいムードを感じ取った女性がそう言ったのだ。女性がそう言ったのにはまったく根拠がない。だからぼくはその発言に「ある情報」を読み取らざるを得なかった。それは「日本人は一般的に中国が嫌い」ということを中国人自身が認識しているという、とても悲しい情報だった。もちろんぼくは中国が大好きで実際に何度も中国に行っているのだと断固として主張した。

f:id:taichillout:20201113233408j:plain

アイコスの火

街のそこかしこに求人広告が貼ってある。そのいくつかを読んでみると、なるほど、その仕事の売りとして「desktop works」を強調しているものが目についた。どういうことか。desktop worksとはつまりオフィスワーク、事務仕事ということだろう。ネパールではオフィスワークに人気があるのだ。日本でも女性向けの求人媒体なんかで「定時退社! 都心の綺麗なオフィス勤務」という特集が組まれていたりする。それと「同じ感覚」がカトマンズにもある。そういう時代がきっと世界で一斉にやってきているのだ。
旅行代理店に飛び込み、長距離バス路線の価格と日時を確認する。その際カトマンズ発でヒマラヤ山脈を上空からウォッチするフライトツアーを売り込まれたが、ぼくはそれをすでにやっている。ウズベキスタンのタシュケントからマレーシアのクアラルンプールに飛ぶときにヒマラヤを上空から望んだのだ。飛行機には何度も乗ったが、あれは空からの景色の中でも格別のものだった。
夕飯はパン屋でクロワッサンとバナナケーキを買って屋上テラス席の焚火に当たりながら食べた。カトマンズは寒かった。旅の最大の敵は寒さだ。夏に旅をはじめることができてとても良かったし、夏に寒い国に行って、冬に南に下るというプランニングも本当に正解だったと思う。そして来る次の夏はヨーロッパを北上するのだ。火は偉大だ。焚火にあたってそう思った。ぼくはタバコを吸わないが、タバコも火そのものにまず人を惹きつける魅力があるのではないだろうか。そういった意味では東京ではもはや主流となっているアイコスからはタバコの本質が失われているのかも知れない。オフィスの喫煙所でアイコスを吸っていた元同僚たちをチラッと思い出した。

(たいchillout)

f:id:taichillout:20201113233211j:plain

 

【ネパール/カトマンズ】ウランバートルに似て

三種のカレーとモモ

ネパールのイミグレでアライバルビザ用紙を記入するのだが、用意されているペンが詰めかけている人数に足りず、ぼくはそばにいたポルトガル人男性にボールペンを借りた。日本に行ったことのある彼は東京よりも大阪が好きだと言った。夜が明けはじめたが太陽は出ていない。今日も雨天、もしくは曇天である。インドからの国境を抜けたその場所からいくつかの商店がありこんな時間からSIMカードなどをちゃんと売っているが、一旦ぼくは買わない道を選ぶ。ネパール人には二種類の顔があることにぼくは気づく。ひとつはインド人と見分けがつかない顔だが(鼻が高く目が鋭い)、もう片方はぼくたち日本人に似ているどこか懐かしい顔だ。頬骨がむっちりと張っており、冷えるのか少し赤い。目が細い。ヒマラヤを越えて、チベット民族との混血が進んでいるのかもしれない。一同はバラナシから乗ってきたバスに再び乗り込む。途端にポツポツと雨が窓に当たり出す。ぬかるんだ道を走り出す。
ネパールの景色を車窓から見ておおと思ったのはビールの広告看板がどどんと田んぼや畑の中に立っていることだ。インドでは酒はアンダーグラウンドなものだった。それがネパールでは簡単に手に入るかもしれない。高まる期待。農村地帯の平地を抜けて街を通過し、やがてバスは山間を走り続けた。昼食はぼくらのような山越え客だけをあてにしているだろう山中の大きめの食堂で乗客一斉にとらされる。空いているテーブル席に座ると少年が現れさっとプレートをぼくの前に置いていく。三種類のカレールーとポテトが乗っており、チャパティが配られる。ルーがなくなると勝手に注ぎ足してくれる。ホールスタッフは五人くらいで、全員が十歳から十五歳くらいの少年だった。
バスにはコンセントがあったのでぼくは地図アプリで都度現在地を確認していた。二十二時に出発し、国境到着が真夜中、確か三時くらい。その時点ですでにバスはバラナシからカトマンズまでの三分の二地点まできていたので、案外早くつくかもなと思ったのが甘かった。ネパールに入ってから山道が続きバスのスピードが全然出ていない。結局残り三分の一を進むために二倍以上の時間を使った。ここまで旅を続けてきて「キロメートル」の感覚が身についていたが、その常識が覆る山道だった。到着間際になって近くのインド人の若い男たちと少し会話をした。ムンバイの携帯電話の会社で働いている同僚たちでバラナシ経由のネパール旅行にきたらしい。ぼくはこれから先再びインド入りしてムンバイにも寄りたいと思っていた。ムンバイはインドで一番安全で綺麗だぜ、と若者はぼくに言った。
カトマンズ到着。国境越えバスの発着するバスターミナルなんだから街中にあるだろう。ぼくはそうタカを括っていたが案の定バスターミナルは街外れにあった。ホステルまでの行き方はむろん調べていない。ひとまずバスターミナルにある食堂だかバーのようなとこに入り、そこでモモとミルクコーヒーを斜視の男性店員にオーダーした。モモは桃ではなく、ネパール名物である、蒸し餃子に似た料理だ。だが、ぼくはその時点でネパール名物だと知っていたわけではなく、深く考えずに「うまそうだな」と思ってオーダーした。これが当たりだった。山椒のような味が効いており、やはり中国との近さを意識させられた。

 

ウランバートルに似て

そこから歩く。ひどく埃っぽいが、街の規模感や標高の高さ、遠くの山並みなど、ウランバートルを彷彿とさせるところがあった。ウランバートルでのような出来事がこの街でも起きないだろうか、ぼくはそう思った。大きなトラックが土埃をあげて真横を通り過ぎる環状線風の通りから少しづつ街中に入っていく。住宅街が長く続くが、基本的に道路は舗装されていなく、雨が降ったのでぬかるんでいる。そこら中ゴミだらけで家の壁も煤けている。川にも堤防がなく剥き出しの土に流れて、ゴミが溜まって中洲ができている。地表は灰色・泥色だがだんだんと空が青く澄んできているのが嬉しかった。新鮮なフルーツが香る八百屋や焼きとうもろこしの店を通り過ぎて、ホステルのある街の中心に近づくとさすがに道は舗装されバイクやバス、車が走り、店も人も増えてきた。気温は低く厚手のセーターやジャンパーを着ている人が多い。横幅の狭い青い四階建ての隣に黄色い五階建てがあったり、汚れているが色使いが明るい建物が中心部には多く、素敵だと思った。目についたのは「Study in Japan」「Study in Korea」と書かれた看板だ。その両方が街中のいたるところにある。塾か予備校か、留学サポートセンターのようなものだろうか。考えてみれば日本にネパール人は多い。日本のインドカレー屋のほとんどは実はネパール人が経営しているなんてのはよく聞く話だ。ネパールはインドよりも経済的に遅れをとっているイメージがある。だとすると、出稼ぎがよく行われるだろう。出稼ぎ先として、日本や韓国などの極東がネパールでは人気なのかもしれない。そしてこういうときにJapanと並列でKoreaがピックアップされることを、ぼくたち日本人は受け止めていかなければならない。
自力ではホステルが見つからず、結局いつもながら道を尋ねてチェックイン。早朝に山へ行き日の出を見れるツアーの紹介などを受けるが、聞き流す。ウランバートルでは初日にツアーの参加を決めてそこでクラウラとシャオロンと忘れられないときを過ごした。今回もツアーに参加すれば誰かと出会い特別な時間を過ごせるのかもしれない。今のぼくにはその能動性が必要なのかもしれない。そう考えたが、早起きはしたくないし日の出はお金を払わなくても見れる。宿泊代を考えるとツアー代金はどこも高すぎた。モンゴル以外でぼくはホステル主催のツアーにどこかで参加しただろうか。思い浮かばなかった。
ドミトリーに入ると感じのいい二人のフランス人男性がいた。インスタのストーリーズにカトマンズの写真を投稿して外に出た。寒い。季節の移り変わりに合わせて巧妙に寒さを遠ざけて旅してきたが、ここカトマンズでぼくはついに長旅ではかさばってしまうのでずっと忌避してきた分厚い防寒着を買うことになった。

(たいchillout)

f:id:taichillout:20200930230130j:plain

 

【インド・ネパール間国境】キラキラバックパッカー事件

真夜中の国境

カトマンズ行きの夜行バスを待っていると、雨が雷雨に変わりバラナシ郊外の長距離バスターミナル全体が停電した。ぼくはベンチにバックパックを置いて自分は立ってチャイを片手にスマホキンドルを読んでいた(ベンチの周囲は蚊がうるさかったので立っていた)が、停電の中で読んでいるのも落ち着かなかったのでスマホをポケットにしまった。停電はじきになおったが強雨は続く。20ルピーのパンケーキをお腹に入れて22時のバスに乗り込み窓際のコンセント付きの33番シートに座った。外気との気温差で窓が曇っていた。
国境に到着したのは真夜中だった。インディアルピーを国外に持ち出すことは禁止らしく、イミグレ直前に唯一あった商店で強制的にインディアルピーをネパールルピーに両替をさせられた。ぼくはネパールを見た後どこか別の国境からインドに再入国するつもりがあり、インディアルピーを多めに残しておいたので焦った。咄嗟に手持ちのインディアルピーを少なめに申告し、要するに嘘をついて少量を両替したが、後々振り返るとやはり最悪のレートだった。雨はほぼ止んでいるが標高が上がってきているのか肌寒い。小さなイミグレは消灯して閉まっており係員が出てくるまで外で待たされた。蚊が多くてウィンドブレーカーのフードを被る。運転手にトイレに行きたいと伝えるとその辺でしてくれと言われた。ぼくは列の最後尾に並び直した。

 

キラキラバックパッカー事件

ぼくがこの国境を訪れたのは2019年の2月だが、その少し前に日本人バックパッカーがネパール人かインド人の車に乗って出入国手続きをせずに国境を越えてしまい大使館経由で日本に強制帰国させられる出来事があった。Twitterの旅関係のアカウントの間では話題になっており、彼と同系統だとされる旅人が「キラキラバックパッカー」と揶揄され、ウェブメディアの記事が(たしか)Yahooトップニュースに取り上げられたのをピークにちょっとした炎上騒動になっていた。キラキラの定義は曖昧だが、たとえば彼ら彼女たちはSNSで輝くことを重視する。現地調査や語学の学習を怠る。現地の文化や人々への配慮ができず、ときとして非常識な行動をとりそれを武勇伝のように語る。女性であれば肌を見せてはいけない国で肌を出している。最低限の常識的な警戒を怠る。宗教に無知。同じキラキラバックパッカーと繋がることを旅の目的にしている。フリーランスノマド、やりたいことを仕事にする、という言葉をよく使う。人々に感動を与えると豪語する。謎のクラウドファウンディング。結局親の金。など色々ある。
そんな彼らの存在が、件の強制帰国事件をきっかけにピックアップされ槍玉に挙げられたわけだ。「ストーカー」や「ロリコン」と一緒で呼称が生まれると加速度的にクローズアップが進む良い例だ。槍玉にあげる側は、そんな彼らへの鬱憤を日頃からため込んでいたであろう、比較的アカデミックで堅実な旅の愛好家たちだった。アカデミック勢は語学や地理、歴史に詳しく、名門大学や語学大学の学生や院生が多く、十分な知識を持ってマニアックな地域に出かけた。そんな旅を一部の人々は自ら限界旅行と名付け、自分たちのことを限界勢だと呼んだ。鉄道オタク、共産主義オタクも多い。現地駐在員とその妻や国際結婚をした人々もこちらのチームだ。彼らはリアルな苦労を知り生活の実感がある。ブログやSNSで発信力がある人も多かった。
強制帰国事件の後、限界勢のひとりが同じ国境を越えようとしたとき、日本人だからという理由でやけに高圧的で厳しいチェックを受けたという呟きがあった、そしてそれは件の事件があったせいなのであろうと。この呟きは多くシェアされた。この呟きからアカデミック勢が引き出そうとした教訓は「キラキラバックパッカーのせいで真剣に立派な旅をしているおれたちがとばっちりを受けるんだ」「ミーハーで無知な旅をするあいつらが日本人旅行者全体の信用度を下げるんだ」というものだった。少なくともぼくにはそう見えた。
だがぼくは思うのだけれど、「真剣で立派な旅」と「ミーハーで無知な旅」の境目は非常に曖昧だ。大切なことは自分は真剣で立派ではないかもしれないと常に疑い続けることである。『深夜特急』ではその自己問答がひとつのテーマになっており、決して旅の感動だけを喧伝するものではなく、そこが他の旅本と深夜特急が今でも一線を画す決定的な要素になっている。そしてそのためには、自分と同じような考え同じような趣味の人間同士でフォローし合い、お互いの限界旅行をいいねし合い、徒党を組んでキラキラバックパッカーを揶揄しているような状況こそ危険だとぼくは思うが、どうだろう? 趣味の話は楽しいが肯定のし合いっこは自己問答の機会をどんどん奪っていく。旅は考える機会をくれる。それに異論のある人はいないだろう。考えることは疑うことだ。正しいとされていることを疑い、自然だとされていることを疑い、自分を疑う。自分が正しいと信じてきたことを疑い、これから先自分が正しいと信じたいことを疑う。
村上春樹は『遠い太鼓』というギリシャ・イタリア紀行文の序章で、この本を「安易な感動や、一般論化を排して、できるだけシンプルに、そしてリアルに」書くつもりだと言っている。貧しいアジアの国々、イギリスは飯が不味い、ウズベキスタン親日国、韓国人は整形好き、イタリア人は情熱的に口説いてくる、少数民族は弾圧されている、南国の人はスローライフ、京都人は高飛車、アメリカは歴史が浅いのがコンプレックス、東欧諸国は民族アイデンティティが分裂している、以上はすべて一般論化だ。アカデミックな旅をする人々には知性がある。しかし彼らは一般論化の分野がキラキラよりも学術的であるだけで傾向として全く同じように一般論化に向かってしまっていることが多く、ぼくはそれを残念に思う。

ぼくのパスポートチェックは一瞬で終わった。イミグレから出たらバスが行ってしまっていた。50ルピーのサイクルリキシャに乗ってネパール側国境に移動しているあいだに地平線が明るくなってくる。

(たいchillout)

f:id:taichillout:20200912202041j:plain

 

【インド/バラナシ】ラブリー

旅と言語化

ぼくがバラナシにいたのは2019年2月の第一週だったが、その三ヶ月以上後にモンテネグロで出会った日本人バックパッカーのYくんも同じ時期にバラナシにいたことが判明した。もちろんバラナシにいたときに我々は出会っていない。だが、二人とも呆けたように川沿いをフラフラと往復していたに違いないので、へたすると何度もすれ違っていた可能性もある。
どの街が良かった? お互いが長旅だから自然とそんな話になると、Yくんはバラナシが最高だったと言った。バラナシは良かったね、ぼくも調子を合わせたがぼくの中でバラナシは決してフェイバリットではない。もっとも、ひねくれ者なので、多くの日本人バックパッカーがバラナシをいかにもディープであるかのように語り、バラナシを旅することをマニアックでチャレンジングな体験であるかのように語ることへの反感がぼくの中にくすぶっていたことは確かだった。敢えて明言するが、バラナシはツーリスティックな街だった。
旅の醍醐味は、自分が言語化できていないし誰も言語化していないものに素のままに出会っていくことにある。その点バラナシは、すでに誰かによって言語化されたものを確かめに行って安心する場所のように感じた。それをぼくはツーリスティックと呼ぶ。むろん土地に罪はない。土地をそんな風にして消費してきた日本人の色彩がこびりついているのだ。
ぼくが、バラナシにこびりついた日本人の自意識のようなものとぴったり波長を合わせて感応できる人間であれば良かったが(つまりシンプルに仲間意識を抱ければ良かったが)、そうするにはぼく自身の自意識が強すぎた。良く言えば何事にも流されないが、悪く言えばしなやかさが足りない。そんな自分を自己分析するとそういうことになる。あるいは、お前は旅の期間が長すぎたんだよ、と言われればそれまでだ。「なにをもってディープとするか」というぼくなりの基準がずいぶんと複雑化し、玄人(くろうと)じみて、こんがらがっていたのは確かだったから。

 

聖地バラナシ

凧をあげる少年たち。ハローエクスキューズミーベリーナイスと言って写真を売る少女。階段に広げられた洗濯物。クリケットをする少年たち。ぼくは洗った靴を梯子で登った屋上に干す。牛を触ってその手を自分のおでこにあてる男性。近寄ってきた牛をバシバシ叩いて遠くに追いやる男性。ぼくが入室しても、ベッドに横になり向こうを向いたまま見向きもしない人。わかるよその気持ち。ぼくが風呂から出るとやっと一眠りしたのか、彼は顔をこちらに向けた。彼がトイレに入るとき電気を探した。ぼくがそれをつけてあげた。SNSを見ると中国人の友人たちが春節を祝っていた。ホステルの屋上での談笑に片足を突っ込んでいるとレモネードをまわされた。少しハシシが入っているらしい。一弦無しのギターを爪弾く男性は体調悪そうな友人に向けて「大丈夫か?」と声をかけた。住宅街のチャイ屋で老婆は小さい紙コップをぼくに出す。ぼくは10ルピーを出す。老婆は5ルピーだとジェスチャーする。「あ、5?」とぼくは思わず日本語で言う。しかしそれは通じずに、老婆は大きい紙コップを出す、これなら10ルピーだからと。汚れが付いていたのか、老婆は紙コップの内側を人差し指で払った。しかし、その老婆の手のほうがきっと汚れているように思えた。通りがかった写真屋でネパールのビザ用の写真を50ルピーで頼む。二回写真を撮る。ぼくは名前を訊かれスペルを言う。 新市街に小規模ながらショッピングモールを見つける。テナントにMINISOが入っている。ぼくは思わず「メイソウじゃーん」と口走る(MINISOと書いてメイソウと発音する)。MINISOはユニクロダイソー無印良品を合体させて、雰囲気や商品展開を真似た純粋な中国系企業だ。世界各地に点在し、ユニクロよりもダイソーよりも無印よりもグローバルに展開し、驚くことに「made in Japan」を売りにしている。そんなMINISOにはこの旅で何度もお世話になり、ある意味でもはやぼくのホームグラウンドとも言えるくらいだったので、このときも本能的習性のように入店すると男性店員に声をかけられ、日本から来たことを伝えた。Oh my god!! I must welcome! 男性はそう言った。日本人(外人)に出会っちゃったぜ!というテンションがそう言わせたのかとそのときぼくは思ったが(なぜならこのモールのあたりには観光客はなかなかこなそうだから)、もしかしたら男性はMINISOが日本のブランドだと信じ込んでいるのかもしれなかった。川沿いには物乞いの老婆がいるが、モールには小綺麗にしている若い女性も多い。それを見比べてぼくは、その国のリアルとはどこにあるのだろうかと考える。インドのリアルがあの物乞いの老婆だと記憶してしまっては、多くの大切なことを取り違えてしまう気がする。街はずれの住宅街を歩いていると学校帰りの少年たちがハローとからかってくる。ぼくは無視する。眉間にシワを寄せて険しい顔をした小学二年生くらいの少女が一人で歩いており、なんでそんな目でぼくを見るのだろうと思っていたが、何故だが視線をはずせずにいた。すると少女は突然満面の笑顔になった。ハーイ!と言って手を振ってくれた。顔立ちが立派なので怒った顔はコワイが、笑うと本当にラブリーだ。少年たちのことを無視すべきではなかったかもしれない。人に対して、このように接すれば良いという定型なんてないのだろう。ぼくは街はずれを歩くのが楽しくなった。歩きながらぼくはあらためて思う。自分は特別なことをやっている、という日本人バックパッカーたちの自意識には関わりたくないなあと。旅に出る前に特別でなかった奴が、旅に出て特別になれるわけがない。旅は人を成長させるけど、人を特別にはしないのだ。夜になる。ガンジス川を背にギターを弾く青年と、それに合わせて歌う四人の青年。彼らの多くは細身のジーンズを履きシャツやセーターやパーカーを着て靴を履いている。ギターを弾く青年は襟足を伸ばしてキャップをかぶっている。彼らの奏でる音楽は、インドの伝統音楽ではなく、インドの若者のための、青春のフォークソングだ。そこにはヒンドゥー教も物乞いもぼったくりもドラッグもない。つやつやした髪の女性三人が給水塔の前でセルフィーをとっている。翌朝、宿で朝食をとり洗濯をして出歩く。道端の牛と犬の前に餌を置いて走っていく少年。下半身丸出しで小便をしている老人。井戸から水をくむ男たち。力を合わせて、曲がった鉄の棒を真っ直ぐにしようとする男たち。サンダルを脱いで手を合わせ目を瞑り小さな祠に祈る若い男性。小学校低学年に見えるムスリムの少女が大きめのバッグを片方の肩に力強く背負い、車よ止まれ、というように一丁前に手をかざし歩く。繋がれたままのヤギがチャイのコップの上に小便をしている。最終日の昼食、日本人経営の「メグカフェ」に行ってみた。毎日のように外国の初めての店に入店し続けてきたのに、日本人経営の店に入るときになぜこんなに緊張するのだろう。店内には韓国人の若者たち、西洋人の子連れ夫婦、ひとりの西洋人女性の三グループがいた。オーナーらしき女性(メグさん?)はぼくが日本人だということに最初から疑いを持っていなかった。 唐揚げ定食とアイスカフェラテをいただく。350ルピーは大きな出費だが泣けるほど美味しかった。雨が降る。ガンジスを見ながら軒下で雨宿り。ぼくと同じ軒下には若いインド人のカップルとひとりのインド人紳士。雨で滑って転ぶオレンジの袈裟をきた男性を見て紳士が鼻で笑った。雨によって人はどこかにはけていくが、牛は同じ場所に悠然と座り続けている。やはりここは牛の街、聖地バラナシなのだ。午後八時にトゥクトゥクがホステルに迎えにくることになっている。カトマンズ行きの夜行バスが出る長距離バスステーションまで送ってくれるように頼んでおいたのだ。

(たいchillout)

バラナシ編終わり

f:id:taichillout:20200905230604j:plain

 

【インド/バラナシ】バラナシの歩き方

「なんでこわい? ボラれた?」
川沿いを歩いていて、「コンニチハ」と話しかけてくる胡散臭い男を無視すると日本語でそんな言葉をかけてくる。負け惜しみだ。バラナシには「コンニチハ」と言ってくるインド人が多かった。ここには日本人旅行者が多く、そして、騙される日本人旅行者が多いのだろう。世界各地のガイドブックを読むとだいたいどの国のガイドブックにも「日本人旅行者を狙ったスリ・ひったくりが発生しています」と書かれているが、実際にはそんなことはない。いまや日本人旅行者は母数として少なく、経済力も無い。ボるメリットがないし、狙うメリットがない。バブル期のエッセイなんかを読むと、日本人がアメリカ人に「日本は物価高いでしょう?」と問いかけていたり逆に「日本は金はあるけど文化がない」と揶揄されていたりするシーンがあって、そんな時代があったのかと、ぼくは色々と考え込まざるを得なかった。
だが、バラナシに限れば日本人旅行者が多かった。実際に見かけたし、先述の「コンニチハ」も含めて、日本人の足跡のようなものがこの街には至る所に残っていた。有名な日本人宿があり、日本人向けのヨガ教室のポスターがあり、名物となっている日本人食堂があった。ギタリストの弓木英梨乃は、自身のYouTubeチャンネルで「インドに一人旅をしてバラナシでシタールを習った」と言っていたが、それもむべなるかな。
次の目的地として、北にあるネパールの首都カトマンズをイメージしていたぼくは、旅行代理店に入ってカトマンズまでのバスの料金と時刻、予約の埋まり具合を確かめたが、そのときもぼくの後ろから、ソバージュだかドレッドをうんこみたいに束ねたいかにも日本人英語を話す日本人男性がぼくと似たようなことを尋ねにやってきてそそくさと出ていった。中に南京虫でも住んでいそうなあの髪型、旅するのに絶対向いていないと思うんだけど。

バラナシはとにかく歩きづらくておおいに困った。道が狭く、牛の糞だらけで、人、リキシャ、車も多い。バラナシを歩いて改めて理解したことは、ぼくにとって旅とは歩くことだということだ。とにかく歩く。ズンズンとスピーディーに歩く。街の繁華街から住宅街を突っ切って別の繁華街まで歩く。そしてたどり着いたところにある適当なカフェ・食堂・バーに入る。どこの街に行ってもそれを繰り返している。ぼくは歩くのが速ければ速いほど疲れにくいたちなので、バラナシのように常に一メートル先を注意しておかなければならない土地では思ったようにスピードが出せなく、すぐイライラとして、疲れてしまった。
カフェや食事にもわりに困った。コルカタのように欲しいところでチャイ屋が湧いて出てきたように立っていることもなく、その後に訪れたデリーのように安いカレー屋がそれぞれの特色を持っていたるところに出店していることもない。「ここがあればしばらくなにも考えずに過ごせるなあ」という安くて素朴な食事処があると旅はぐんと楽しくなるのだが、それがバラナシではなかなか見つからなかった。全く訳のわからない菓子とか揚げ物を売っている店は多かったが、その少し上のランクがない。観光客向けの割高なレストランはあるが、その少し下のランクがない。
酒もなくて困った。ヒンドゥー教では酒はあまり推奨されないらしく、特にバラナシはガンジスの聖地とあってなお厳しかった。実はコルカタでも酒には困っており、かろうじて見つけた、ちょっとぼくにはムーディーすぎるバーというかクラブ(ピタッとしたドレスのネーチャンを金持ちインド紳士が連れているカンジ)に駆け込んでビールを飲んだのだが、高い割にそれほどうまくなかった。バラナシでは川沿いが特にアルコール厳禁らしく、ググると川から離れた場所にいくつか飲めるところが見つかった。わざわざそこに出向くと、そこは地下の、まるで牢獄のように薄暗く狭い一部屋で、全員が男で、全員がタバコを吸っていて、ビールは強くマズかった。金を払って瓶を受け取って田舎の駅の待合所のような形のその部屋の壁際に並んでいる長椅子のうち好きな場所を陣取って飲む方式だが、さすがにまったく寛げない。条件の悪い喫煙所か、条件の良い牢獄としか思えないそこを訪れたのは昼過ぎだったのだが、飲み始めてしばらくして売主がぼくに声をかけてきて両腕を手首のところでくっつける動作をして深刻な顔で首を出口の方に向けた。「捕まるからそろそろ出て行け」ジェスチャーが意味するところはそれ以外になかった。キングフィッシャー・ストロングというインド産のビールは、どんなビールでもだいたい美味しく飲めるぼくの口にも合わなかったので、彼の案内もしくは警告に従って素直にぼくは外に出た。

バラナシでは宿を二回変えて、合計三つの宿に二泊ずつ滞在した。何日滞在するか事前に決めておらず、そういうときは往々にしてまずは二泊分予約するのでこんな形になった。まだこの街に居続けるつもりがあり尚且つ泊まっていた宿が良かったら延泊するが、気分を変えたいときは宿を変える。居場所が定まらなかったが、もうこれでいいだろうとも思わなかったバラナシでは後者だった。最初の二つは中心部のドミトリーで三つ目は少し外れたところにあるシングルルームをとった。三つ目のホステルでは部屋の冷蔵庫にビールが冷えており、家族経営で、リビングには数年前の『地球の歩き方インド編』があった。普段は読まないこのシリーズだが、このときは面白く読めて参考になった。疲れていたのかもしれない。
三つ目のホステルは観光地からは少し離れており、やっとこさ近くに贔屓にできる軽食の屋台を見つけた。十代にしか見えない青年が大きな鍋でつくってくれるハッカヌードル60ルピー。すぐ隣のチャイ屋におっさんたちが群がっており、ぼくもそこに入っていく。こういう感じでやりたかったんだよ。寝床を確保しお腹を膨らませ、夜の川沿いの散歩に出かけた。静かに点滅するガート(川岸)と人々、気持ち良い風が吹いている。

(たいchillout)

f:id:taichillout:20200902210538j:plain