【インド/バラナシ】川沿いに張り付くように広がった土色の街

どこか異なっている熱

不思議な世界観の夢から覚めるとぼくはバラナシ行きの三等寝台列車に乗っていた。夢では、辞めた会社の同僚や、南極、ラーメン、小中学校時代親しかった友人のヒトシ、弟、THE YELLOW MONKEYの1stアルバムなどあらゆる情報がごった煮で登場した。レイモンド・チャンドラーを読み、目覚めのチャイを一杯飲んで、買い込んでいたフランスパンをかじる。はっきりと目が覚めてきてしばらくするとガンジス川が見えてきた。

ぼくはそれを車窓からではなく、車間連結部のドアから見た。この鉄道のドアは走っている間もずっと開けっぱなしだった。バラナシが近づいていることを地図アプリの位置情報で確認したぼくは、外の景色をよく見ようと寝台から飛び降りてきたのだ。背後で人の往来はあったが、ぼくが風景を眺め、ドアからわずかに顔を出して風を浴びるのを邪魔する人はいなかった。あれが、ガンジス川。ぼくはいまガンジス川にかかる橋を渡っている。そして川沿いに張り付くように広がる土色の街。あれがヒンドゥー教のHoly City──バラナシだった。

植民地時代の旧名はベナレス。深夜特急にもベナレスとして登場し、ガンジス川沿いで死体を火葬しているシーンがやはり印象に残っている。だが、あくまで深夜特急に忠実な知識しか持っていなかったぼくは、同じインドの街であればバラナシよりもコルカタやブッタガヤ、デリーの方が重要だと考えていた。どうやら世間一般ではそうではないらしい。ということを理解したのは旅に出てしばらく経ってからだった。世間一般、とりわけ日本人にとっては。

ガンジス川を渡る列車から土色のバラナシを撮った動画をインスタグラムに投稿すると旅で出会った何人かの日本人から反応があった。「いよいよだね」「懐かしいなあ」「行ってみたかったところです」そんな風にコメントが集まったのははじめてだ。皆バラナシには一家言あるらしい。どうしてだろう? たしかにここはガンジス川沿いにありヒンドゥー教の聖地ではあるがガンジスの街は他にもある。宗教的な土地であればお隣のブッタガヤやイスラエルエルサレムサウジアラビアのメッカなども同様に関心を集めるはずだが、日本人旅行者がバラナシを語るときの様子にはそれらとはどこか異なっている熱があるようにも感じた。ぼくはそれも確かめたくてここまで来た。

 

頭抜けて汚く迷路のような街

バックパックを背負った状態で半身を外に乗り出し、列車がホームに入線しスピードを緩めるのを見届けた。まだ列車が止まる前から、ホームにいるおじさんがぼくに「ジャンプ、ジャンプ」と声をかける。飛び降りちゃえよ、ってなわけだ。コルカタよりは小さめの駅を歩きはじめると早速日本語で「コンニチハ」と声をかけてくるインド人のおじさんがいた。徹底的に無視をする。広いホームに大荷物を下ろす男たちは商売関係だろう。彼らの肌色は浅黒くほとんどが髭をはやしている。
駅前は広い。タクシーだかリキシャが石の裏のてんとう虫みたいに平べったく乾いた土に張り付いて駅から降り立った国内外の旅行者たちの顔を見ている。振り返ると、シンメトリーとなっている白とオレンジの駅舎の上に大きな時計がかかっている。晴れている空に薄く白い雲、午前十時過ぎだった。日本なら春先の気候で、男たちは薄手のジャンパーを羽織り、老婆たちはカーペットのように分厚いサリー姿だ。

街の中心部である川沿いに向かって歩く。ちょうど太陽の方角。バラナシの道は狭く、迷路のように無秩序で、舗装されていなく、そこをスクーターが走り抜けるからなお狭い。建物は高く、洗濯物にも陽が当たっていない(後で知ったがこの街の人々は屋上というリソースを有効に活用している)。どうして川沿いの決して広くない一角にこうして異常なほど人々が密着して暮らしているのかわからないが、その佇まいはどこかRPGの世界のようで冒険心はかきたてられる。
すれ違った牛が突然吠えてびっくりする。牛は普通にそこら中にいる。普通にあたりを歩いており、特に人々が牛を意識している感じはない。牛の方も特に人を意識している感じはない。ちなみに牛の糞もそこら中にある。特に人々が牛の糞を意識している感じはない(牛の糞の方も特に人を意識している感じはない)。犬が自転車に轢かれてキャンと鳴く。機織りのような音が断続的に聞こえると思ったらそれは商店のシャッターが開く音だった。一日はこれから始まるのだ。男が路肩に座り込んで小便をしていた。枝豆の皮のようなものを袋に入れて老婆が歩いている。あれはなんだろうと思っていると、老婆は突然道半ばで袋をひっくり返して、すべてを路上に捨てて去っていった。ホステルについた頃には昼だった。まだガンジス川は見ていない。この街で、道に迷わないわけがなかったのだ。ドミトリーにチェックインして一階のカフェでミルクコーヒーを飲んだ。コルカタで買ったSIMカードがバラナシに入ってから安定しない。なんとかしておかなければならない。
たしかにここは頭抜けて汚くユニークな構造の街だが、多くの国を旅したうえでバラナシこそが特別だと感じたりは今のところしていない。ここはコルカタよりはずっとコンパクトだが、とりあえず、スタバはあるのだろうか?

(たいchillout)

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【日本/東京/文京区】旅にでるまで (5)東京ドーム

ひかrewriteが振られて、まずはじめにやったことは東京ドームで行われる THE YELLOW MONKEYのライブに行くことだ。2017年の年末だった。彼氏のためにとっていたチケットだったが、持て余していたようだったのでぼくはそれに立候補した。それは振られたその週の週末だった。イエローモンキーの音楽はいつかちゃんと聴かなければと思っていながら手をつけていなかったので、ちょうどいい機会だと思った。ぼくはライブ前に駆け足でベストアルバムだけをTSUTAYAでレンタルしたが、やがてドーム公演の後に全オリジナルアルバムをコンプリートするほど、そのバンドはフェイバリットとなることになる。
公演当日はお茶の水で一人で「カロリー焼き」を食べて後楽園で待ち合わせた。スタバに寄った後に、同じくチケットをとっていた、ひかrewriteの弟、さらにその友人の女性と合流した。東京ドームで音楽を聴くのは初めてだったが(野球は見たことがある)、思った以上に音響は良くない。東京ドームは音楽を聴く場所ではない、今度はライブハウスでイエモンを聴きたいと思った。しかし、「体験」としては、あの日はやはり特別なものであり、得難いものであり、不思議なものであり、どこか象徴的なイベントだった。

何日も続いたキーンと晴れた朝が印象に残っている冬だった。会社でひかrewriteが付き合っていたことはぼくだけが知っているはずだったが、振られた後、ひかrewriteはそれを立て続けに何人か、そのとき近しかった人々に話してしまった。もちろんその是非はぼくが判断することではない。だがそのときは「なんで話してしまうのだろう」とぼくは思っていた。
それを打ち明けられた人々は異口同音に彼氏のことを罵った。そんな男は別れて当然だと言った。ぼくはその断定を安易にすぎると思ったが、ひかrewriteはその言葉をそのとき必要としていた。一番近くにいたぼくはその言葉を決して言わなかったからだ。
ぼくは最初から「一番近くにいた」が、それをさらに押し進めたのが席替えだ。絶妙なタイミングでひかrewriteの部署の変更があり(それにもいろいろあった)、当初フロアが違っていたはずがぼくと同じフロアの、それもほとんど背中合わせの位置に来てしまった。それらが全て十二月の上旬に起こった。彼氏は全く別の事情でときを同じくして退社していた。ぼくは社員、ひかrewriteはアルバイトだったが(つまり労働条件が異なっておりそれも後に問題となった)、昼休みの後などは一緒に公園のスタバに行って、散歩をしてコーヒーをテイクアウトした。常連だったので店員さんはぼくたちの顔を覚え、ぼくたちも店員さんの顔を覚えていた。スタバの紙カップを持ちながらいろいろな話をした。運命について、あり得たかもしれない世界線について、シュタインズゲートについて。
ちなみにひかrewriteは、この時点で28歳だったぼくよりも歳上である。それもあったかもしれない、ぼくが決して上から断定的なアドバイスをしたりせず、そして親身になったのは。若者の恋愛より、それは何もかもが少し重かったのだ。

ぼくはありきたりな慰めの言葉をかけなかった。ぼくは彼氏のことをよく知っており、彼氏にとても愛着を持っていた。もちろん完璧な人間だと言う気はないが、魅力的な人だった。振られた理由はわからない。少なくとも、ある時期二人はとてもとても親密だった。穏やかな親密さではない、激しい親密さだ。
周囲の人はありきたりな慰めの言葉をかけた(とぼくは思っている)。社内の人も、社外の友だちも、この時期からひかrewriteが深く関わりはじめたネットで出会った人たちも。
別れて当然の男などない。別れて当然の女もいない。逆に、別れなくて絶対に正解という男も、女もいない。すべては個別の関係性なのだ。中途半端なりにやっていくしかない(そして確信が持てないまま別れるしかない)のに、まるで普遍的な正解と不正解があるように言う人々をぼくは信用しない。むろん、彼らが不誠実だったと言いたいわけではない。ある意味では彼らは、痛みを訴えている人によく効く痛み止めを処方することのできる人間だった。ひかrewriteは物販で買ったイエモンのタオルをデスクの目につく位置に飾って、大人しめにしていたメイクを好き勝手にするようになった。

忘年会がやってきた。場所は東京ドームホテル。年々規模が大きくなり、こんなところまできてしまった。社長はさぞかしご満悦だろう。普段は着ないスーツを着て、ぼくはひかrewriteともう一人の社員と三人で、仕事を切り上げてそこへ向かった。冷たい空気に東京ドームシティのイルミネーションが凛と浮かび上がる。今年もたくさんの社員が退社した。いろいろなことがあった。その極め付けはここにあるのかもしれないし、ないのかもしれない。しかしぼくらはそこに一種のクライマックスが来ているように、確かにそのときは思っていた。2017年の年末にすべての運命は凝縮され、そこに大きな転換があるのだと。とある有名私大から隔週で来社してシステムチームと一緒にAIの研究を進めていた教授と、ぼくと社長と一緒にアメリカに行き海外進出プロジェクトに関わっている通訳の女性がぼくと同じテーブルについた。忘年会には社外の人も招くのだ。そして、彼らと最も関わりがある社員がそのホスト役を務める。ぼくはそのお二方のテーブルに必要だった人間がぼくであることにも、この一年の充実感を静かに噛み締めていたはずだ。

忘年会の三日前に社内でカニ鍋パーティーがあり、忘年会の五日後にクリスマスがやってきて、その次の週末には仕事納め、そして納会があった。ひかrewriteは全く関係のない業務委託の男性に惚れられ、クリスマスプレゼントと共に実質的に愛の告白を受けていた。もちろん歯牙にもかけなかった。依然としてひかrewriteは深い傷心の只中にあり、それゆえにハイテンションだった。業務委託の彼もひかrewriteの傷心ゆえのハイテンションに「勘違い」を起こしてしまっていた。ぼくはひかrewriteから吉井和哉のDVDを借りていた。無限に話すことがあった。上場を目指しはじめた会社は社内統制を推し進めて、それ以前の社風と全面的にかち合っていた。派閥が生まれ、上下関係が生まれ、評価が生まれ、嫉妬が生まれ、死角が生まれ、秘密が生まれた。口は出すが手を動かせない取締役が外からやってきた。そして売り上げは下降していた。ひかrewriteの部署異動も彼氏の退社も、そして二人の関係の破綻も(それどころか二人の関係の発生すらも)、上述のように組織がゆさゆさ揺れている時期であることが、多大に影響していた。会社が実力以上のスケールを遂げようとし、どこかに歪みが発生するとき、個人がそのとばっちりをくらっているのをぼくは何度も見た。しかし依然としてぼくは社内の多くの人を友だちだと感じて、大切に思っていた(古い社員たちとともに、良かった時代や去った人々を懐かしむことも多くなったが)。納会から抜け出すときに業務委託の彼をなんとかかわして、ぼくとひかrewriteは新宿のスタバでコーヒーを飲んでその一年を終えた。
その一ヶ月の間に、ひかrewriteお茶の水でサックスを買った。元彼と付き合っていたとき、あるいはその前の彼と長く付き合っていたとき、本当の自分を抑圧していた。自分が好きなことややりたいことについて考えないで、縮こまって、顔色をうかがって、相手に合わせていた。もやもやしていた。こうなってしまったのは、そうやって自分に嘘をついていたからだ。だから今の自分に必要なのは、そんな自分を変えること。そして、新しい彼氏を探すこと。その二つは矛盾なく結びつき、サックスや絵や外国やハンバーガーや……なんでもいいからそのとっかかりとなるものを探し求めていた。そして2018年がやってくる。

(たいchillout)

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【インド/アムリトサルメール】コルカタ発バラナシ行

ホグワーツに行くとき

大混雑のハウラ・ジャンクション駅内の食堂でハッカ・ヌードルを立食いし、ミネラルウォーターを買い込んで、19時10分の「AMRITSAR MAIL(アムリトサルメール)」という名を持つ寝台列車に乗り込んだ。ここはコルカタ。目指すはバラナシ。途中幾つもの駅に停車し、バラナシから先もまだ線路は続いている。朝の9時過ぎに到着予定だ。列車の待ち時間、そこが目的のホームであることを確認するために、知的な印象のある男性を風貌から選んで声をかけた。どうやら男性は平時はポルトガルに住んでいるらしく、英語に堪能で、インドの列車での諸注意を教えてもらった。ケータイを充電しながら寝ているとまず盗まれるからやめとけとのこと。
寝場所はコンパートメントにはなっていなく寝台は通路に剥き出し。出発前も出発してからも絶え間なく人々が通路を行き交い(指定席を持たない人々がちゃっかり座れる場所を探しているようだった)、定期的にチャイ売りが「チャイ、チャイ、チャイー」と言ってやってくる。ぼくは三段ベッドの一番上。ハシゴはついてないので登るのも骨だ。天井が近く、寝台に「座る」ための高さはない。外国人枠はまとめられるのか、下段には西洋人のカップルがいる。だが視界の九割を埋めるのはインド人の男たちだ。彼らの旅の目的はぼくには不明瞭である。観光客には見えないので商売のための移動なのだろうか。AC3クラスなのでかろうじてブランケットがある(Sleeperクラスはそれもない)。せっかくのACチケットだが北部の一月なので今のところエアコンはOFFになっている。車内販売のチャイは作り置きなので街の露店より味は落ちるが、ぼくはこれから先のインド鉄道旅で何度もそのチャイのお世話になることになる。
寝台はぼくの身長には短く、膝を立てなければ横になれない。置き場もないバックパックをそのまま枕として使う。靴の置き場もないので(通路に置いておくと蹴っ飛ばされる)天井の扇風機に挟み込む。寝台がどことなく煤けているように見えたので、試しにティッシュを湿らせて軽く拭いてみると、もう一瞬にして真っ黒。せめて頭部の近辺だけでも綺麗にしようと試みたがきりがないので諦めた。気休めにウィンドブレーカーを羽織ってフードを被り、デイパックを腹に抱えて横になった。目隠しカーテンの類は一切なし。話し声もさることながら当然のことイビキも混じる。オジサンの寝息が充満する車内の空気を吸い込みたくない。ぼくは開かない窓から入ってくる冷たい隙間風に頭を近づけて、少しでもそれを安心材料にして眠りについた。
散々な気分だと思う?
ノー。ぼくはワクワクした。まるでホグワーツに行くときのハリーの気分。あるいはミネソタからニューヨークに出るときのディランの気分。iPhoneのメモにはそう残されている。

(たいchillout)

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【インド/コルカタ】Obey The Traffic Blues

交通ブルースに従え!

アジアなら大体どこの国でも日本の感覚で歩行者をしていたら数日以内に轢かれる。ずいぶん先のことになるけど、モンテネグロにたどり着いた頃、まだアジアを旅していたときの感覚で車が通り過ぎるのを待っていたら、ピタッとぼくの前で車が停車して(ぼくもピタッと止まっていたのに)運転席のジェントルマンが有無を言わさずに道を譲ってくれたことに「ああ、ヨーロッパにきたんだなあ」と感じたものだ。
そんなこの旅で特に運転がひどかった印象のある街が、エジプトのカイロとインドのコルカタである。運転の荒い国民が構成する大都会のくせに信号が少なくて、無駄に西洋風のロータリーで街が作られていたりするからたちが悪い。渡りどきが見つからなくてひどいときは十五分だか二十分くらい車が途切れるのを茫然と(同時に気を張って)待っていたような覚えがある。
車に興味がないぼくでも、そうすると必然的に車のことをよく見るようになる。コルカタの車を見て目を疑ったのが、半数以上の車体にデカデカと標語のようなものが書かれていることだ。なんと書かれているか。それが、

 

Safe Drive Safe Life

 

である。どの口が言えたことかとぼくは呆れを通り越して気味の悪い薄笑いを浮かべていたはずだ。安全運転(Safe Drive)の対極とはまさにこのこと、という運転をしている車のバンパーに「Safe Drive Safe Life」である。そのフォントがまたポップでカラーリングも原色だったりするわけだ。ファニーである。ファニーを通り越してそれがクールだと感じるかどうかは、受け取る側のユーモアの度量によってくるだろう。
それでだ。
車の前部には「Safe Drive Safe Life」があるわけだが、また異なる標語が後部にもついていることにもぼくは気がついた。それが、

 

Obey The Traffic Blues

 

え?
Obeyは「従う」、trafficは「トラフィック」つまり「交通」なので、つなげると「交通ブルースに従え」という意味になる。意味が不明だがしかし、なんかかっこいい…。

この話にはオチがある。コルカタを去る最終日。ぼくは混雑した街バスで、バラナシ行きの夜行列車に乗るためにハウラ・ジャンクション駅へ向かっていた。バックパックという荷物を抱えて頼りなげによろめいていたからか、運転席の真横である助手席の位置にある、恐らく女性が優先のはずの席に案内され、横並びになったサリー姿の肝っ玉おばちゃんたちに圧迫されていた。その優先席の中でも最前列だったのでフロントガラスから前の景色がよく見渡せた。そのとき前を走る車の背面に書かれた「Obey The Traffic Blues」が目に入った。あ、まただ、とぼく思った。しかし初めてのこの機会に間近でそれを見ると、それは「Obey The Traffic Blues」ではなかった。「Obey The Traffic Rules」だった……。

その標語はどの車においてもなぜかペンキ風のイタリック体で荒っぽく書かれているのが多く、ぼくはRulesをBluesに空目した(見間違えた)のだ。「Obey The Traffic Rules」ということはつまり「交通ルールに従え」である。おかしいところなどなにもない。なんだ、そういうことなのか。コルカタを去る前に奇妙な標語の謎を解くチャンスに恵まれ、ぼくはおおいにすっきりとした気持ちになったが、しかし心のどこかでそれを残念がっている自分がいることに気がついた。「交通ルールに従え」なんて、普通すぎる。第一、誰も従ってない。

翻って「Obey The Traffic Blues」のなんと粋なことか。まさにこの街のトラフィックはブルースなのだ。
こんな運転していて事故を起こさないのかなあとぼくは訝しんでいたが、実際に事故は起きていた。あるとき信号のない車道を渡ろうと待っているとどこからか「バギ」という生々しい破壊音と「バーン」という衝突音が同時に鳴った。目を向けてわかったのが、それが、とある車がとある車のサイドミラーをぶっ飛ばした音だということだった。「なるほどインドではこういうこともよくあるのだな。きっとお互いそんなに気にしちゃいないのだろう」と思っているとなんのこっちゃない怒鳴り合いが始まった。おいおい、こんな運転してたらサイドミラーの一つや二つ日常茶飯事だろうに。カッカする以前にやることがあるだろう? ぼくはそう思うが、当人たちにとってはやはりこれはお互いの不注意と怠慢と不誠実だけが悪の源かつ全てであり、決してあってはならないことであるようだった。

ぼくは、永遠に途切れなそうな車通りを見極め、瞬間にダッシュをして対岸に辿り着いて「なんとか生きて渡れた…」と息をつくたびに、この街の「ブルース」を空気として吸い込んでいた。まさにそれはトラフィック・ブルースとしか言いようがない、不思議と生きた心地のするものだった。「Obey The Traffic Blues」とは、なんと甘美な響きを持つ、美しい言葉だろう。
その誤解が正されても、ぼくにとってのコルカタは今でも「Obey The Traffic Blues」の街、猛々しい車たちが生きたブルースを歌う街なのだ。

(たいchillout)

コルカタ編おわり

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【インド/コルカタ】アポールさんへのビデオレター

帰りたいと言える季節

ペイは前日にバラナシへ旅立っていた。SIMを手に入れたと連絡したセンから朝起きると返事が届いていて、バラナシの環境は「not good」だから覚悟しとけというメッセージが添えられていた。「bad」じゃなくて「not good」とオブラートに包むところがあの人らしい。カート・コバーンに似た西洋人男性は、ベルギー人で名をミカエルというようだ。金髪を肩まで伸ばし、自然な無精髭にもなんとも言えない色気がある。背丈も肩幅もぼくよりもひとまわり大きいが、動作も語り口も森の湖のように落ち着いている。その中に旅への静かな情熱と、人への静かな誠実さを燃やしている。まさにミカエル(天使)という名に恥じない、果てしなくいい男だった。イェジィはこの日、当日券でゴア行きの鉄道に乗るつもりでいる。ぼくは宿をここから市の中心に移すつもりでいた。Booking.comで探す限り、中心部には衛生やサービスの質が見込める好条件の安宿がなかったが、「好条件」を捨てても中心部に滞在してみたいと思った。
昨日の疲労もあるのでごろっとした午前を過ごしていると、荷物支度のイェジィが思わぬことを言った。
「タイに帰ろうかな……」
あまりにぼくが耳を疑った反応をしたので、イェジィは困ったように笑い「バカなことだと思う…?」と聞いてきた。よくよく話を聞くと、この人混みのコルカタ・混沌のインドであらゆる物事がスムーズに進行せず(空港のぼったくりタクシー値引き失敗City Centerチケット買えずじまいのたらい回し…)、意外にも参っているらしい。ストレスを表に出さない人なのだろう、ぼくはイェジィのそんな精神状態を全く関知できていなかった。「インドこわい」と言った。
三ヶ月過ごしたタイの離島でのボランティア生活が素晴らしかったということは以前から話の節々でうかがえた。海に自然。子どもと動物。伸び伸びとしている素朴なものが好きで、それらに取り囲まれて自分も素朴に伸び伸びとなりたい、この数日でぼくなりに把握したイェジィの「性(さが)」はそうしたものへあくなき追求心だった。産業社会に背を向け、野と一体になる。同じ志を持った仲間と共に。まさに古き良きヒッピードリームの求道者がこの人だった。
そしてタイにはそれがあったのだろう。肝が座っているように見えてもイェジィの旅はまだ二カ国目だ。そのギャップに苦しんでいてもおかしくない。いや苦しむ方が自然だ。ぼくだって身に覚えの一つや二つある。それでも、帰りたいと言える季節があることは素晴らしいことではないだろうか。今よりも過去が輝いて見えるというのは、とても柔らかな感情の在り方だとぼくは思う。「今の自分」の正しさを肩肘張って自分に信じ込ませようとしていては、そうは思えないだろうから。

それは一種の弱音だったのだろう。ぼくが楽器を両手に持って見送りに行ったバス乗り場でのお別れのときは、イェジィは「ゴアに行く」と言っていた。ぼくは宿を変えることを伝え「チケット買えなかったらこっちに来なよ」と言ってその宿の名を口頭で教えた。イェジィを乗せて去ったバスのナンバーがいつまでもはっきり見えるので、自分が出国前にレーシック手術で裸眼の視力を完全に回復させていたことをぼくはとても久しぶりに意識した。あれから遠くへ来たものだ、と。

 

アポールさんへのビデオレター

実はイェジィを送る前にちょっとしたイベントがあった。ホステルの宿泊客の一人が、遠方で誕生日を迎えた友人(アポールさん)にビデオレターを送りたいとその場にいるぼくたちに参加を呼びかけ、みんなで『Happy birthday to you』を歌ったのだ。イェジィが真ん中、ぼくがギターで伴奏をつけたそのアポールさんへのビデオレターは、後でデータを送ってもらってぼくの手元に残っている。

 

ALL WE BEST

イェジィはゴア行きの切符を買えずに、新しく移った宿のぼく以外誰もいなかったドミトリーでその日の晩に再会した。こうなることが分かっていたような気もするし、分かっていなかったような気もする。
今朝までのドミトリーも六人部屋にイェジィと二人だったが、場所を変えてまたそうなるかと成り行きというものの不思議を感じながら眠りについたところ、真夜中遅くに荒々しいノックと共に一人の得体の知れない男性が入ってきたのでこの日は三人となった。シャワーが冷たすぎたせいかぼくは布団の中で頭痛に耐えていた。

朝起きると頭痛は無くなっており我々は街に出た。試行錯誤の末に、インドの鉄道事情についていろいろと分かってきた。長距離の寝台列車にはいくつかの等級があるが大別してエアコンつきとエアコンなしがある。エアコンつきのチケットは「AC○○」と頭にAC(Air Conditioner)がつく。ACの中にも一等・二等・三等がある。ACなしはSleeperクラスと呼ばれる。ほとんどどこに行く列車でも予約チケットはかなり前からはけてしまっている。需要に対する供給が追いついていない上に、キャンセルができるのでインド人は思いついたそばからバンバン予約していくらしい。その対策のためか、多くの鉄道で若干の当日券が用意されているが、当てにするのはハイリスクだ。さらにぼくたち外国人旅行者専用の切符が意外にも一定枚数用意されておりこちらは予約が可能だが、専門の窓口に行かなければ手に入らない。我々は二日前にシールダ駅とハウラ・ジャンクション駅に行ってあらゆる窓口を尋ね廻っていたが、コルカタの外国人旅行者専門窓口はなんと両駅の中に存在しておらず、街中の別の建物に入っているらしい。分かりにくさを限界まで押し広げたようなインドの鉄道事情だった。我々はその窓口に一緒に行くことにした。ぼくは数日後にバラナシへ向かうことを決めたのでそのチケットも予約してしまう心算だ。
ちなみにチケットはインターネットやアプリでも予約できることになっていたが煩雑だったので諦めた。アプリ予約にトライしてぼくは、前日とこの日かなりの時間を無駄にしていた。実のところぼくは三回クレカ決済したが三回ともチケットが確保できず、その理由もわからなかった。後で返金があればいいが無かったらなんとかしなければいけなかった(ムンバイ編に書くと思うが返金は無かったのでなんとかした)。
そういうわけで我々は再び連れ立って、今度は徒歩で City Centerまで繰り出し、十分に街歩きを堪能し外国人旅行者専門窓口でついに切符を手に入れた。ぼくは二日後の夜発のバラナシ行きAC三等、イェジィは今日の夜のゴア行きSleeperクラスだ。ぼくがAC3を選んだのはセンの「インドの鉄道は最低でもAC3以上にしといた方がいい」というアドバイスに従ったからだ。イェジィがSleeperにしたのには距離の問題もある。AC3とSleeperの価格差は大きいので遠方のゴアだとかなり高くついてしまうのだ。イェジィは窓口の担当者に「Sleeperは女でも安全か?」ということを念入りに訊ねており、担当のおじさんも「ああ、そりゃもちろんさ」みたいな感じで頷くので、ぼくはセンの話をイェジィに伝えずに本人の判断に任せた。
この日、我々はコルカタ唯一?のスタバにも行ったが、チャイ屋には五、六回立ち止まってその度にどっちかが奢って一服した。比較的モダンなエリアにある英国風の本屋でぼくはマリーゴールドが香るオーガニック石鹸を買い、露店で三足セットの靴下を買った。イェジィはこの日も甘いお菓子を買っては分けてくれ、道では噛みタバコをつくっているのを立ち止まって見物した。帰りははじめての地下鉄にトライした。

その夜、本当のサヨナラをして、ぼくはイェジィから、破ったメモ用紙に書かれた簡単なメッセージをもらった。すべて大文字のアルファベットが使われたその文章はシンプルな英語で書かれていたが、いかにも達者な人が書いた風格のようなものがあった。最後の一文に粋があった。SEE YOU AND TAKE CARE ! HAVE LOTS OF FUN AND ALL WE BEST !!!!!!
All you best ではなく、All we best。このyouとweの違いにぼくは、離れ離れになってもそれぞれがそれぞれの旅を続けていくことへのポジティブで誇り高いイメージを読み取った。
もうひとつ印象的だったのは、諸々に付き合ってくれたことのぼくへの感謝とともに「もうインドは怖くない」と言い添えてあったことだ。実際にそれから先、イェジィはぼくよりもはるかに長い間インド各地を旅することになった。イェジィのインド旅はぼくがヨーロッパに入っても続いていた。それだけインドが好きになったのだ。ある人にとってのある国が、怖い国から特別な国になるその転換点にぼくは立ち会うことができ、その転換に少しでも貢献できていたのだとすると、それは誇り以外のなにものでもない。
「この国にこの人あり」そういう旅をできた国というのは本当に思い出深い。キルギスのソンジェ、カンボジアのカズキたち。モンゴル、新疆、カザフスタンウズベキスタン。異国の景色とその人の影が二枚重ねになってクリップで留めらた状態だから、それらにはすべからく重みがある。イェジィのいたコルカタはその中でも一等特別なものであるのは旅を終えた今でも変わらない。

(たいchillout)

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【インド/コルカタ】シールダ駅とハウラ駅

シールダ駅まで・パーソナルスペース

街中まで六キロを歩く過程でぼくはマフィンを、イェジィは餅のようなものを買い食いして、それを昼食とした。ぼくはマフィンを食べ切ってしまったが、イェジィは餅を分けてくれた。この人はなんでも分けてくれる。世の中には食べ物を手に入れたときにどんなものでも必ず分けてくれる人がときどきいるけど、イェジィはそういう人だ(食いしん坊ほどそういう傾向にある気がするけど、なんでだろう? やっぱり食べ物への愛かな?)。
二人はぺちゃくちゃ喋りながら歩いているわけではない。初めての道だし、なにぶん景色がカオスなのでどちらかと言えば見る方に忙しい。見たものに反応してどちらかがボソッと声をかけることが多い。
例えば小学校低学年くらいの女の子がハイヒールを履いているのを見たイェジィが「ねえあれ」と言った感じでぼくにそちらを見るように促す。ぼくは「ほう。ハイヒールやんけ」といった顔をする。するとイェジィは「いいねー」と目で追ってから最後にボソッと「I like India.」と言う。ぼくは一言「うん」と言う。そしてまた歩き出す。

曇り空が暗くなる頃にシールダという鉄道駅に到着した。大都市を繋ぎ、田舎へと葉脈を広げる、いわゆるターミナル駅。どこかからきてどこかへ向かう人がこれほどいることにインドという国のスケールを体感する。駅舎へのいくつかある出入口はどれも迷路のような露店街へと繋がっているようであるため商人が多い。長距離を移動するのであろう大荷物を引きずったインド人家族も頻繁に見かけるが、彼らは構内のあらゆる壁際で夜行にそなえて寝ている。だが、ぼくらのように切符を買いに来たはいいが不案内なため手当たり次第に窓口をあたって彷徨っている人がいちばん多そうだ。しかしそんな彼らも皆インド人。バックパッカーはほとんど見ない。
総じてカオスっぷりは新宿駅以上だとぼくは思った。その原因は、日本の通勤ラッシュと違って、コルカタでは駅にいる人々の駅にいる目的や忙しさがみんなバラバラで往来に秩序がないことにある。あと全体的に視界が茶色い。
しかもインド人は他人と接触することに抵抗がないのでどんどんぶつかるし、どんどん押しのける。気が立ったときの日本人みたいにいかにも身体を緊張させてドカンと押しのけるのではなく、ヨイショという感じて牛を誘導するみたいに人間をどかす。なぜだか知らないけどぴったり横とか後ろに立っていたりすることもよくある。もちろんスリとかではない(ぼくはこの旅で一度もスリにあわなかった)。言うまでもなく、「ソーシャルディスタンス」なんてギャグにしかならない。ぼくはいっぱしの東京都民であり、その中でも特にパーソナルスペースに過敏な人間だったと思うけど、こういう場に身を置くとやはり考え方もときとして柔軟になる。「パーソナルスペースに過敏である自分を守り抜いて、それがいったい何になるんだろう」と冷静になれたり、さらに一皮向けて「パーソナルスペース云々とか言ってるのってなんてダセえんだろう」とひとまわり器が大きくなっていく場合だってないことはない。同じように新宿駅で揉まれてもこうはならないだろうから、やっぱり旅は人を成長させるってのは本当なんじゃないかな。ぼくが思うに、こうした「考え直す」っていう行為を日常的なルーティンの中で推し進めていくにはやっぱり限度がある。

イェジィはあらゆる窓口に明日のゴア行きの切符を尋ねてまわったが、ものの見事にたらい回しにされ、最後には駅舎という名のダンジョンのずいぶんと奥の方の事務室で船乗りのような体躯の駅員に「この駅では買えない。向こうのハウラ・ジャンクション駅に行ってくれ」と言われる。シールダが新宿駅ならハウラは東京駅だろうか。コルカタは大都市なので巨大ターミナル駅がいくつかあるのだ。
船乗りはぼくらに出身を訊く。「コリア」「ジャパン」とそれぞれ答えると船乗りは「コリアとジャパンか。ふむ。グッドウェディング」とひどく満足そうに言ってぼくらを見送った。時によってはぼくらも笑って「いいかい、船長。うちらはカップルじゃないんだ」と訂正しただろうし、元気が余ってれば二人の間に気まずい空気が漂ったかもしれないが、幸か不幸か我々にそんな余裕はなかった。この人なんか言ったような気がする。くらいの曖昧なテンションでぼくらは踵を返して駅を後にした。もちろん、イェジィはぼくが東京に彼女を置いてきていること知っている。

 

ハウラ駅まで・SIMとカレー

もう日が暮れていたが、ハウラ・ジャンクション駅に行くことにする。イェジィはなるべく早く切符を確保したいし、ぼくはそれに付き合う。それとSIMカードも欲しいので、ハウラまで歩きがてらSIMを探し夕食をとることに方針を定める。イェジィはまたココナッツを買って異国風のメロディを鼻歌でハミングしながら、ぼくの前を歩く。この街では横並びで歩くことは不可能だ。
夕飯はカレー屋に行った。ここにきてぼくはインド初のカレーを食べたことになる。チキンカレーとベジタブルカレーの二つのルーを選び、日本では「ナン」と呼ばれている「チャパティ」をいくつもおかわりする。それで二人で150ルピーだった。250円に満たない。チップで30ルピーを追加し、店を出た。
実はそのすぐ側でぼくらはSIMカードの購入に成功していた。インドのSIMカード事情には諸説あって、最も有力だったのが購入してから本人確認をし実際に使用可能になるまでに(いわゆるアクティベート完了までに)一週間かそこらかかってしまうという説だった。ドミトリーメイトのペイもそう言っており、ほとんどぼくと入れ違いにデリーでインド旅を終えようとしていた広州のセンからの事前情報もそれを裏付けた(だからセンはデリーのゲストハウスに使い終わったSIMを預けて引き渡そうかと提案してくれた)。
だがぼくとイェジィはその瞬間から使えるSIMカードをあっさりと買うことができた。推測だが、法的にはインドでアクティベート無しの(あるいはアクティベート済の)SIMを販売することはNGなのだと思う。センはガッツリと一ヶ月くらいの旅をする人だが、考えなしにその国に行ってしまうぼくやイェジィと違ってとても上手に勉強していくタイプだ。ペイもおそらくそうだろう。だから彼らはSIMの買い方を「知っていた」。知っていたからこそ手筈の違いなくSIMを手に入れることができたが、ぼくらは知らなかったからこそ(ある種の)手筈をスキップすることができた。
ぼくらの買ったSIMに値段はあってないようなもので、価格交渉は「完勝」とは言えない形で決着したが、それでも今回のように通説を突き破って「なんとかなってしまう」ダイナミックな躍動が現地でのアドリブにはあるから、ぼくたちはぼくたちの旅のスタイルを変えないのだろう。

時間は押しに押していたので結局ハウラまでタクシーに乗った。イェジィが懲りずに値引きをした今回のタクシーは正しくハウラに到着したが、規模感ではシールダを上回るその駅でも明日のゴア行きのチケットは買えなかった。明日になれば買えるかもしれないと駅員は言った。要するに当日券だ。
イェジィはやむ終えずそうすることに腹を括り、疲労困憊の我々は駅前にプリペイドタクシーの乗り場を見つけて、棒のような足でその行列に並んだ。タクシーの待ち時間にぼくはこの日のことを簡単にメモにとった。

タクシーがホステルのあるニュータウンに差し掛かって、イェジィにゆすり起こされたとき、ぼくは自分がどこで何をしているのか一瞬わからなかった。寝てしまったのだ。ぼくは慌てて地図アプリを起動し、「二つ目のブロックを右折して…」とドライバーに語りかけた。一日の記憶と、旅の最中であるという記憶が、自動で組み上がるパズルみたいに脳内で蘇った。

(たいchillout)

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【インド/コルカタ】商談の失敗

インドと内需

「Sorry, very hungry」と言って泣きそうな顔でぼくに手を差し出す女性。手押しのリキシャの男は呼び鈴がわりに手で鈴を持ってそれを打ち鳴らす。ポットを持ってチャイを売り歩く男。駆け回る子どもたちの中に長い髪がウェーブしているひときわ美しい少年がいて見惚れていると、目があった途端あっという間に標的にされて子どもたちに取り囲まれる。ボウルを差し出して金を入れろとねだるだけでなく、隙あらばリュックやポケットに手を突っ込もうとベタベタ触ってくる。なんとかあしらうとすかさず中年のおじさんが近寄ってきて言う。「あーいうやつらは強引に振り払わなきゃだめだ。ところでハシシいるか?」

昼過ぎから暮れるまでひとりでコルカタの中心部を歩き回って夜にS12番のバスでホステルまで戻ったときには、イェジィは電気のついたドミトリーで爆睡していた。バスの運賃は11ルピーだと言われたが小銭が1ルピー足りず、大きいお金を出そうとすると10ルピーでいいと言われた。ぼくの泊まっていた地域は市街から離れた、いわゆるニュータウンだった。そこに帰れるバスの発着場所を大型ロータリーの近辺で訊ねて歩くのには時間がかかった。なぜだか冷たい人が多かったのだ。とはいえ何人目かでやっと出会えた親切な男性は、ぼくのために正しい行先のバスを一緒に待ってバスを呼び停めてくれるところまで付き合ってくれた。

コルカタの活気に飛び込んで感じたのはインドに内需の力があるということだ。莫大な人口を抱える国は国内だけで多くの産業が成り立つ。つまり内需が存在する。日本の商品開発やサービス開発が戦後から急速に国際競争力を獲得したのも国内に圧倒的な市場が存在したからに他ならない。自国民から吸い上げたマネーで企業は成長し、自国企業と切磋琢磨して自国民の要求に応えて企業は成長する。内需のある国は、母語だけで商売ができるので多言語化の必要がなく、英語が通じないのですぐにわかる。中国や日本がそうだ。そして内需の強い国は、旅先として純粋にぼくの好みだった。自国民だけにセグメントされた商品なりサービスは、多くの場合、外国人にとっては奇妙でユニークな発展を遂げている場合が多い。グローバル化の暴力から無傷であり、国際標準からの逸脱を平気な顔して受け入れている。インドではチャイ文化がまさにその代表だろう。内需の強い国は見応えがあるのだ。

ホステルに着いたときはぼくもあまりに疲れていたので、一度ベッドに横たわると二日もシャワーを浴びていないのにそのまま寝てしまう。電気がついたままだ。消したい。しかし意識が半覚醒状態であっても身体がついていかず起き上がることができなかった。夜中になって、ベランダでタバコを吸いにきたカート・コバーン似の西洋人男性が電気を消してくれたのが霞んだ視界の端に映った(彼は別の部屋だったらしい)。

 

商談の失敗

翌朝、イェジィとペイと部屋で話す。韓国でも中国でも、インドはやっぱりちょっと変わったやつが行くところという位置づけのようだ。日本もそうだよ、みんな同じだねという話をする。やがて三人で連れ立って近くのショッピングモールを徒歩でハシゴし、ぼくの希望でカフェで朝食をとる。サンドイッチとラテで404ルピー。イェジィがケーキを分けてくれる。韓国人のイェジィと中国人のペイと日本人のぼくの三人で歩いていると、やっぱり極東の三民族であるぼくらは仲間だなあと自然に思えてくる。少なくとも、三人は旅という同じ思いを抱いてはるばるインドまで来ている。彼らはぼくにとって、同じ思いを抱いていない大勢の日本人(なんてつまらない問題にあの人たちは日々一生懸命になっているのだろう?)よりも、共通点があり話題にしたい関心事も重なっている身近な存在なのだ。
ホステルに戻り、ペイとは別行動となった。ぼくは洗濯物をスタッフに預け、久しぶりのシャワーを浴びる。すっきりとした気分になり、鼻歌を歌っているイェジィからクラシックギターを貸りてリビングルームでポロポロと爪弾く。スピッツの『ロビンソン』のイントロを弾くとイェジィがぽつりと「ビューティフル」と言った。

二人で外出。金額次第ではタクシーで街中に行ってみようという話になる。大通りを歩いているときに擦り寄ってきた一台とさっそく料金交渉に入るが、City Center(街の中心)に行きたいと言うとまさかの350ルピーだと言われる。バスなら15ルピーにもならないはずなので「じゃあいいや」と窓から首を引っ込めると、ドライバーはおい待てと譲歩の姿勢を見せる。意見を求めようと斜め後ろのイェジィを振り向くと強気に「200ルピー」と言う。ドライバーは呆れかえる。やってられんと言う顔をして今にも車を発進させるアクションをとる。しかし発進しない。実際は呆れたのでも怒ったのでもなく、これも「商談」の一部である。あとはどこを着地点とするか。セオリーではお互いに多少の妥協が望まれるが、ぼくらはダメで元々、半分は相場感を探るつもりで商談の席についていた。そのうえバックパッカーには限りない時間がある(その点、見所を廻り切るために常に時間効率を意識している短期旅行者とぼくらは全く別の生き物なのだ)。イェジィが提示した200ルピーでも高いくらいだったのでぼくは落とし所が「交渉決裂」であっても納得の気構えで、200を主張し続けた。「この度はご縁がなかったということで」というわけだ。だが、それが意外にも可決されてしまった。
ひょっとして適正価格を下回っているのでは? 立場の違いにつけ込んで、不当な値付けをすることまではしたくない。複雑な気分が駆け巡ったが、それでいいと言うのだから今さら断るわけにもいかなかった。気が向いたらチップでも渡そう。そう考えて後部座席に乗り込んだ。イェジィはあらためて「City Center」と言い、ぼくは念のため地図を広げて大雑把に街の中心を指差した。

しかしこれが失敗だった。ドライバーは見るからに機嫌を損ねており、運転も荒く、接近してはギリギリのところでお互いをかわしていく他の車への罵詈雑言が途絶えない。
悪い予感は的中した。「到着したぞ」と言って下された場所は、コルカタの中心からは程遠いCity Centerという名の駅の前だった。
「CityのCenterじゃない場所でなんでこんな駅名つけるの? やる気あるの?」と行政だか鉄道会社へ怒りを向けるべき選択もあるが、まずはぼくらは「ここじゃないんだ。こっちに行ってくれないか」と穏便に間違いを指摘した。しかしドライバーはつっぱねた。
「は? City Centerって言ったじゃねえか。見ろ。あれがCity Centerだ」
そう言って駅を指差す。「ほれ、200ルピーだしな」
やはり、強引な値引き交渉が良くなかったんだ……。ぼくはまずそう思った。おそらくドライバーはぼくらの真意を本当は理解していたはずだ。だが、一度は受け入れたものの百戦錬磨のドライバーである自分が、奇妙な平べったい顔をしている極東の若く軟弱そうな観光客に完璧なディスカウントを決められたことへの腹の虫は治らなかった。それで敢えてはじめから誤解していたフリをしてこっちのCity Centerにハンドルを向けたに違いない。
ぼくには後ろめたさがあり、彼の心理をそのように分析した。厄介な問題になったと思ったが、イェジィの気持ちをまず優先したい。イェジィがあっさり諦めるならぼくは闘わないし、イェジィが折れないならぼくは参戦しよう。
イェジィはキレた。
ドライバーは、近くにいたがっしりしているが穏やかそうなインテリ風のインド人男性を引っ張ってきて彼にヒンドゥー語で状況を説明し加勢してもらおうとするが、イェジィもその彼とドライバーに自分たちに非がないことを英語でまくし立てる。この凄さは実際に目の当たりにしないとわからないかもしれないが、「英語でキレる」ってのは相当すごいことだ。マシンガンのように言葉を放ち言葉の物量で(※論理を保ったまま)相手を圧倒するというのは母語であってもなかなかできることではない。それを異国の地で異国人を相手に第二言語でやってのけるイェジィを見てぼくは、部活の先輩が圧倒的なテクニックを披露するのを見ているような気分になった。尊敬、ってやつだ。
インテリ風男性はあくまで中立の立場から仲裁を試みようとしていたが、やはり次第にドライバーのペースにのまれつつあった。論点は「満額の200ルピー払うべきか」というところに絞り込まれ、ぼくはインテリ風男性に値引き交渉の経緯とドライバーがわざと間違えたらしいことを伝えた。イェジィのスピーチはその点には触れずに「間違った場所に連れてこられた」ことをあくまで主眼としていたからだ。インテリ風男性はドライバーの言い分を否定しないが、ぼくらが悪意を持って安く街中まで行こうとしているわけではないことも痛いほど理解している。優しい性格が災いしてほとほと困り果てている彼がしまいには一番気の毒だった。ドライバーの激昂もおさまらない。ついにはイェジィが幾ばくかの紙幣をドライバーに渡すのをぼくは見届けた。

まだ怒鳴っているドライバーを背にぼくらは「こんなのは屁でもないぜ」という顔をしてその場を離れた。十分に距離をとってからぼくは財布を取り出しイェジィにタクシー代の半額の100ルピー札を渡す。イェジィは言った。
「え? なんで?」
「だって200ルピーだろ?」
「違うよ。わたしあいつに100しか渡してない」
「Really!?」
ドライバーがまだ怒り続けていたのはそういうことだったのか。
それにしても肝のすわったレディである。そして大人だなあと思う。ぼくが見ている前であれだけキレたのに(その間ぼくはほとんどボケっとしていたのに)、その直後でもぎこちないところは何もない。自然でフレンドリーでマイペースだ。日本人だとなかなかこうはいかないのではなかろうか。
その100ルピーをぼくに返そうとするので、ぼくは「いらんいらん」と受け取らなかった。するとイェジィは「じゃあこれは夕飯の分ね」と言って自分の財布に仕舞い込んだ。
地図アプリを開くと街中まで六キロと出ている。このくらいの距離ならイェジィは歩くと言うだろう。ぼくらはそうやってすでにお互いのことを理解しはじめていた。このインドという大国の入り口に居て、お互いが唯一の同士であることに、もう疑いはなかった。

この後、我々は街中で二つのミッションにかけずることになる。一つ目はインドのSIMカードを買うこと。これが諸々の事情によりなかなかの難関であるとの噂だ。
もう一つはイェジィのためのゴア行きの鉄道チケットを手に入れること。イェジィは次の目的地として、当初のバラナシを取りやめ、コルカタからはほとんどインドの裏側にあると言っていい南西のアラビア海沿いにあるゴアを選んだ。海洋国家としてのポルトガルが世界を股にかけた時代、東洋覇権の拠点として栄えたあのゴアだ。今はインド有数のビーチリゾートになっているらしい。
そこまでは車中で二泊以上、三十数時間に及ぶ鉄道の旅になるという。

(たいchillout)

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