【モンゴル/ウランバートル11】もう一つの人生編

戦争

男はぼくひとりをベッドに座らせた。ホースワインの回し飲みが再開した。ぼくだけがそれを免除された。居心地は悪かった。しかし、ただの正義感や自己満足でそこに割って入ってはいけないのではないか、今立ち会っているのは極めて繊細な問題なのではないか、という迷いがぼくを動けなくさせた。
男の語りには熱が入っていた。「チャイナ、モンゴリア」と言って、自分の拳と掌をぶつけ合う。やがて男は告白する。
「自分は戦争に行っていた」
男はソルジャーだったのだ。そして肩や、足、お腹をクラウラとシャオロンに見せた。ぼくには死角だった。しかし2人の反応でそれが銃弾の傷跡だと分かった。
イラクスーダンアフガニスタン
男はそう繰り返して、何度も自分の傷跡を指さした。それらの国で男は戦争をしたのだ。そして傷を負って帰ってきた。
アフガニスタンはまだ良かった。でもイラクスーダンはひどかった」
男はジャスチャーと英単語だけで訴え続けた。2人は男の話を受け止めていた。確かに、中国とモンゴルには支配と被支配を繰り返した長い歴史がある。男の敵対感情はそこからきているのか。それとも男が赴いた戦争に中国は関わっているのだろうか。わからなかった。ぼくは蚊帳の外だった。ホースワインが空になるまでそれは続いた。2人は辛そうだった。しかしもう断ることはしなかった。

 

後になって、クラウラとシャオロンは自嘲的に言った。
「チャイニーズは世界中から嫌われているんだ」
ぼくは曖昧に笑うことしかできなかった。さらにクラウラは笑って付け加えた。
「わたしはそのとき自分は日本人だと言っておくべきだったかもしれないね」
ぼくは中国が好きだし中国人が好きだ。その確信はこの旅でさらに強まった。クラウラ、あなたは中国人だ。日本の女の子よりよっぽどセンスが良い。優しくて、賢くて、強い。よっぽど世界に受け入れられるべき人間だ。あなたは決して日本人であってはいけないのだ。

 

もう一つの人生

男が去った。ぼくは立ち上がって忍び足でドアから外を確認した。男の背中が遠ざかっていくのを見てドアを締めた。
振り返って2人を見た。2人は笑っていた。散々な目にあったわけだが、やっと男が去ったことの安堵感のほうが強いようだった。ベッドに座ってぼくも一緒に笑った。
朝食の時間だった。ぐずぐずしていたら男がまた戻ってくるかもわからない。
言葉に出来ない感情の共有を終えて一呼吸、ぼくは外に親指を向けた。
2人を見て一瞬の間を置いた。2人はぼくの一言を待っていた。
「Let's go to Restaurant」
「そうだ!レッツゴートゥーレストランだ!」
クラウラはぼくの言葉を繰り返してから、律儀に中国語に訳してシャオロンに伝えた。

クラウラがドアを開ける。
それこそまるでソルジャーのように仰々しくゲル内から左右を確認する。
敵影なし。いまがタイミングだ!レストランへ出撃!
そんな様子でクラウラは走ってゲルを飛び出す。元気そうじゃん。ぼくは隊列を崩さずにそれに続く。
視界一杯に山と草原と空が広がる。朝の空気は澄んでいた。段差に足を取られないようにしてその空気の中を走る。
緊張感から解き放たれ、開放感に包まれて、ぼくたちは声を上げて笑いながら走った。
走りながら思った。これはもう一つの人生だ。
ぼくはこの旅で、もうひとつの人生を生きている。
日本で過ごした29年の人生とは別の人生をいま最初から始めている。
昨日の夜が頭をよぎる。一昨日の夕方が頭をよぎる。この一ヶ月が、シベリア鉄道が、北京が、万里の長城が、青島が、ソウルが、釜山が、海雲台が頭をよぎる。
まったく別の物語がここにはあった。他でもない自分がその渦中にいた。
そして同時にわかっていた。いまこの瞬間こそ、その物語のひとつのハイライトなのだ。

 

恐怖心

レストランについた。暖炉に火が灯っていた。インスタントコーヒーを淹れた。
「コーヒーが好きなんだ」
そう言ってぼくがコーヒーの粉を自分のカップに入れると、クラウラはそれ覗き込んで同じ分量だけ自分のカップに入れた。数分後、ナイスガイも合流した。すでにナイスガイは、モンゴル人の男から直接話を聞いていた。モンゴル人の男はクラウラの予想通り、スタッフではなくただの客だった。
「Are you OK?」
ぼくはOKだったがシャオロンは固まっていた。彼はショックを受けている、クラウラはそう言った。クラウラも、OKとは言いがたい、といった感じだった。あるいは、ナイスガイが自分のせいではないと思っている様子が気にかかったのかもしれない。クラウラは言った。
「私たちはみんなとても怖かった」
その言葉にダメージを受けたのはナイスガイではなく、ぼくだった。ナイスガイが来る前、ぼくはクラウラに聞かれたのだ。怖かった?と。そのときぼくはYesと答えた。しかし本心を言うと全く怖くなかった。日本人だと明かし、ぼくへの態度が軟化する前から、怖くなかった。クラウラの言葉を聞いたときにぼくは気付かされてしまった。
クラウラが心から恐怖を感じていたことに。そしてそれが欠落しているかもしれない自分の危うさに。

中国への敵意を男が剥き出しにしてからは、クラウラもシャオロンも、男のすすめるホースワインを断らなくなった。ぼくは2人のそれを、諦め、責任、プライドの類の感情からくる態度だと考えていた。
「中国人が嫌われるなら仕方がない。過去に中国がやったことにこれほどに腹を立てている人がいるのなら、自分たちはそれを引き受ける」
ホースワインを飲み続けることを決めた2人に、ぼくはそんな勇ましさを見ていた。
しかし、実情は違ったのかもしれない。逆らったら、何されるかわからない。きっと、ただ、ただ、怖かったのだ。
そのことに気づけていたら、ぼくは彼らの恐怖を傍観しないですんだのかもしれなかった。

「ひとりで怖くないの?」「無計画で怖くないの?」
この旅ですでに何度も言われた言葉だ。怖くなかった。ぼくはひとりと無計画が好きだった。
「この国はひとりでいくのは危険だよ」「この地域は言葉がわからない人が行くのは危険だよ」「空気が悪いよ」「食事が衛生的じゃないよ」
そう言われても聞く耳を持たなかった。
治安の悪そうな地域に足を踏み入れたらドキドキした。緊張感で頭と身体が冴えていく感覚に痺れるような快感があった。
しかしながら、恐れを知らないということは、危機意識の薄さと同義だった。武器だと思っていた度胸は、本当の危険に晒されたときにただの浅はかさに変わってしまうのではないか。クラウラやシャオロンの受けたショックに思いを馳せながら、ぼくはそんな恐怖心の無さが命取りになる未来を少しだけ夢想していた。

(たいchillout)

 

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