【中国/新疆ウイグル自治区/吐魯番】ブドウの楽園

クラウラのおすすめ

実は、ウルムチに到着して一段落したタイミングでクラウラに連絡をとっていた。大学の夏季休暇で一ヶ月に渡る旅を続けていたクラウラはその時点でイタリアにいた。新疆ウイグル自治区で、クラウラにお薦めされた場所のひとつが吐魯番(トルファン)だった。クラウラ曰く、吐魯番は中国で最も暑い街であり、最もブドウが美味しい街らしかった。ぼくは暑さにもブドウにも特別関心があった訳ではない。しかしクラウラにお薦めされたというだけで行ってみようと思った。
天山天池ツアーで利用した旅行会社には、吐魯番へのワンデイツアーもあったが、英語を話すウイグル男性スタッフに聞けば、吐魯番には自力(yourself)でも行けるらしい。吐魯番までは鉄道が走っていて、外国人が泊まれるホテルもあるらしかった(ウルムチには外国人禁止のホテルがたくさんある)。ウルムチの街歩きを堪能した頃、ぼくはウルムチ南駅で吐魯番行きのチケットを買い、ホステルのドミトリーベッドを2泊分予約した。

 

百度地図

吐魯番北駅についたときには小雨が降っていた。暑くはなかった。空には虹がかかっていたが、吐魯番があまりに田舎であることに動揺してしまっていたぼくはそれどころではなかった。例によって外国人は別室に案内された。警察に顔写真とパスポートの写真を撮られ、職業、目的、中国での電話番号などを教えた。このプロセスを何度も繰り返してわかったが、どうやらITエンジニアは中国でとても信頼性の高い職業らしかった。ここのトイレを貸せと言ったら外のトイレを使えと言われた。ホステルまではバスと徒歩で行けそうだった。ぼくはそれを百度地図(バイドゥマップ)で調べた。GoogleMapが使えない中国ではもっぱら中国製の百度地図を使った。これがまた便利だった。アプリの動作が軽く、バスや鉄道の案内が充実している上に、オフラインでも位置情報を把握してくれて地図機能が使えるのだ。

 

大きな声で叫んだ

バスは満員だった。巨大な駅の周囲にはこれまた巨大ないくつかの酒店(中国語でホテルの意味)しかなかったが、15分もすれば、そこには確かに町が現れてきた。ぼくは降りるべきバス停を見逃さないように百度地図とにらめっこしていた。雨は上がっていた。窓からの風が気持ちよかった。土地はウルムチよりもさらに乾燥していたが、通りにはウルムチよりもさらに多くの木が植えられていた。ウルムチ同様、シャワーカーが走っていた。シャワーカーは車道の両サイドに植えられている木に水を撒きながら走る車のことだ。ぼくが名付けた。町中に入っても高い建物は存在しなかったが、人の数とスクーターの数が増えてきた。
不思議なことにバス停に止まっても、出口のドアが開かないときがあった。入口のみが開いて新しい客が乗った。出口は開くときも開かないときもあった。これは困った。ぼくの降りるバス停で開かなかったらどうしよう。日本でよくあるようなボタンは無かった。
不安にかられていると、バス内でやたら乗客が怒鳴っていることに気がついた。何と言っているかはわからない。しかしその怒鳴り声はいつも同じトーンで同じタイミングで聞こえてきた。
バスには運転手とは別に乗客案内の女性が乗っていた。バスが発車してしばらくすると、まずその女性が怒鳴るのだ。
「***********!!」
そしてそれに呼応するようにして乗客たちが怒鳴る。
「ヨー!!」
女性は必ず意味不明の単語を怒鳴った。その単語は毎回異なった。そして乗客は「ヨー!!」と返事した。複数人が返事するときもあれば、だれも返事をしないときもあった。
やがてぼくは勘付いた。わかったぞ、女性は次のバス停の名前を叫んでいるのだ。そして、そこで降りたい乗客は「ヨー!!」と言わなければならないのだ。誰も「ヨー!!」と言わないバス停では出口のドアは開かなかった。みんなが「ヨー!!」と言ったバス停ではどっさりと人が降りた。
ぼくのバス停が近づくにつれ緊張が高まってきた。聞こえなかったらどうしよう。発音が悪かったら理解してもらえないかもしれない。ぼくはバスの奥の方に押し込まれていた。一個手前のバス停を出発した。次だ。女性が何かを怒鳴った。今だ。ぼくは大きな声で叫んだ。
「ヨー!!」
心配は無用だった。ぼくの「ヨー!!」がかき消されるくらい、同時にたくさんの「ヨー!!」が聞こえていた。

 

楽園

バス停から25分は歩いただろうか。雨はすっかり上がって、ぼくは砂埃にまみれてホステルに到着した。土が盛り上がっただけのような色合いの建物ばかりの一角で、鉄の門をくぐったらそこには楽園があった。

門の向こうは庭だった。ベンチやテーブルがそこかしこに置かれ、欧米人らしき男女たちが話していた。フロントも庭にあった。ブランコがあった。地面から一段高い場所に横になれるデッキがあった。デッキの上のテーブルを囲むようにしてクッションが置かれ、クッションの上には猫が寝ていた。人懐っこいゴールデンレトリバーが歩いていた。緑が溢れていた。驚くべきは頭上だった。あくまで庭なので屋根はないのだが、天井一面にブドウがなっているのだ。ブドウたちとその葉っぱは日差しを見事に遮りながらも、ちょうど完璧な分量の木漏れ日を庭に差し込ませていた。久しぶりに同胞の旅人たちをみた安心感も相まってか、この場所は天国のように美しいと感じた。おまけに英語を話すスタッフが迎えてくれた。一発で気に入った。英語を話すスタッフはプロゴルファーの宮里藍に似ていたのでミヤザトと呼ぶことにする。

久しぶりのドミトリーに荷物を紐解き、中庭と地続きのシャワーやトイレをチェックした。トイレットペーパーの有無、シャンプーの有無、コンセントとベッドの距離、洗濯物を干す場所、ビールやコーヒーのサービスの有無、周辺地域の案内、共用スリッパでの行動範囲。それらが無意識にインプットされる。あれがないときはあれをああする。これがこうなときはこれをこうする。この宿での生活パターンが自動で組み上がる。間をおかず中庭に戻り、テーブルを囲む旅人たちに加わる。ポルトガル人、スペイン人、南アフリカ人、アルゼンチン人。そこに日本人のぼくが加わる。如才ない、とまで言うと言い過ぎかもしれないが、たいして頭を使わずに英語を話せている自分に、もうひとりの自分がどこかで拍手を送っていた。

 

そっと声をかけた

旅人たちとの雑談に興じている途中、ミヤザトがぼくに目配せをした。見ると近くにアジア系の女性がいる。その女性はこちらを見ていないが、ポットでお茶かコーヒーを淹れようとしていることは分かった。了解。ぼくはミヤザトに頷いた。日本人だ。チェックインしたときに、ぼく以外にも日本人がいることをミヤザトが教えてくれていた。その女性に違いない。丁寧な所作やオーガニックな服装など、いかにも日本人な気がしてくる。ためらわずぼくは離席して、その女性の側まで行ってそっと声をかけた。

女性は短期のひとり旅だった。中央アジアや中国の内陸の雰囲気が好きらしく、ぼくがこれから行こうとしている国への訪問歴もあった。コーヒーを譲ってもらい二人がけの席に移動して中庭が暗くなるまで話をした。バスのドアを開ける「ヨー!!」という呪文の話をすると、それは「有」という漢字からきてるかもしれないね、と推理してくれた。女性はマリンバを弾くらしい。音楽と旅が好きなヒトはちょっとアレですよね、とぼくが言うとよく笑ってくれた。年上だろう。ぼくの中での、ひとり旅好きな日本人女性像を、良い意味で体現している素敵な女性だった。

(たいchillout)

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