【カザフスタン/アルマトイ】凪いでいる海

ネデルカを襲うどんぐりの銃声

アルマトイは秋だった。アルマトイのどんぐりは日本のどんぐりよりもかなり大きく、木から落ちる時に銃声のような鋭い音を立てた。硬さも日本のどんぐりよりも硬いように思えた。なぜなら、アスファルトに落下したアルマトイのどんぐりは大きく跳ね返るのだ。カフェ『ネデルカ』には毎日通った。どんぐりたちは一日に何度かは必ず、『ネデルカ』のテラス席を襲撃した。どんぐりは座っているぼくたちの顔の高さまでバウンドした。はじめぼくはバウンドしたどんぐりがアメリカーノカップにホールインするんじゃないかと戦々恐々としていたが、3、4日通っても鉄仮面のごとく無愛想だったロシア系の美しい店員さんがついに微笑んでくれるようになった頃には、テラス席の誰よりもどんぐりの襲撃に泰然と立ち向かえるようになっていた。要するに馴染んだのだ。この街に。街並みも人々も美しいアルマトイに秋が訪れ、ぼくの旅にも、秋のような、これまでになかった落ち着きが訪れていた。

ホステルで朝食をとったらパソコンを持って『ネデルカ』にいく。アメリカーノをオーダーする。WiFiとコンセントを繋く。やることはたくさんあった。ブログ、プログラミング、旅のメモの書き起こし、読書、映画、撮りためた写真の整理、友人の増えたSNSの整理。日本の友だちの宅飲みにスカイプで参加したりもした。

 


凪いでいる海

旅をしたい。人がそれを願うとき、その人にとって切実なことは意外と旅そのものではなかったりする。忙しかったり、やりたくないことをやらなければならなかったり。そんな現状への反発で「なににも縛られず自由になりたい」「毎日好きなことをやって過ごしたい」と夢想し、やがて現実逃避としての旅の構想がはじまるケースだ。ぼくは働いていた頃から比較的自由で、「ストレスは無く張り合いのある」生活を送っていたので直近二、三年においては必ずしもそのケースに当てはまらないが、それでもその生活が社会への「適合」の域を出ていなかったのも事実で、気の合う仲間と気分良く仕事をし週末の飲み会で終電帰りをし土日は吉祥寺なんかに出かけつつ趣味の時間を満喫するという、東京の若手サラリーマンのある種の正しい生き方ではなく、退屈な放課後の図書館で本を読んでいたときの全能感のようなものをいまでも一番に信頼していた、というのが本当のところだろう。今思えば。

不自由すらも楽しんだエキサイティングな旅の熱はアルマトイではひと段落していた。その熱は、ぼく自身が冷ましたのか、ただ旅の海がこれまでになく凪いでいただけなのかはわからない。大きな波が来なかったのか、来ていて乗らなかったのか、乗ろうとしてずっこけたのかはわからない。ちゃんと準備運動を済ませて海で波を待っていたのか、パラソルの下で怠けていたのかもわからない。あるいは決して怠けていたのではなく、「今回は」パラソルの下で楽しむことを選んだのかもしれない。「今回は」凪いでいるビーチを選んだのかもしれない。「旅の実績」なるものを積んだことから、意識的に無意識的に余裕をかまし、一丁前に、波を選り好みしていたのかもしれない。ウランバートルの波はウランバートルにしか来ない。言葉で認めても、それに心根が追いつくまでのリードタイムは容易には短縮されないのであった。旅の序盤にして覚えてしまった多幸感の味との「ベストな」折り合いのつけ方はなかなか見つからなかったけれど、それでもアルマトイに見つけた凪いでいる海では「毎日ひとりで好きなだけ好きなことする」という基本中の基本に立ち返る真の意味で自由でリラックスした日々を多く過ごすことで、ある意味では長年の夢を実現していたと言えよう。その夢の舞台装置として、アルマトイの秋の街並みや、カザフ民族やロシア民族の美しい人々、『ネデルカ』のコーヒーは申し分なかった。

 


野菜

昼食はそのまま『ネデルカ』で食べるときもあれば、場所を変えるときもあった。アルマトイは街角の一部を切り取れば、ニューヨークだと言われても納得してしまうくらいモダンだった。ニューヨークスタイルなのは見た目だけじゃなく、食事もだった。割安なものを食べようとするとハンバーガー、ケバブなどのストリートフードに偏ってしまった。『ネデルカ』には大きなサラダがあったのでときどきそれを頼んだ。なんでも食べられるが、味にはうるさく、結果的に偏食気味な自分が、生野菜の山盛りで一食を済ませるなどというダイエットのようなことをすることになるとは思わなかった。しかしサラダは美味しかった。

食事は気候に左右される。そんな当たり前のことをこの旅では意識させられる。肉とパンはどこにでも豊富にあった。米もあった。麺もあった。しかし、同じワンプレートでも、付け合わせの野菜のバリエーションや、味、量、鮮度は土地によって大きな差があった(なぜかキュウリとトマトが多い)。『ネデルカ』の野菜がどこから来ているのか分からない。食事は気候にも左右されるが物流にも左右される。気候は如何ともしがたいが、物は金の力で動かせる。それが物流だ。モダンな街並みや清潔感のあるトイレなどを見るにつけても、カザフスタンはこの一帯では経済力のある国なのかもしれない。

新鮮な野菜の食感に感動したぼくは、世界の気候と農作と物流の全体像を理解したいなどと殊勝に思いを巡らせながら、ただ舌鼓をうっていた。また、内陸国を巡る日々で長いこと遠ざかっている「シーフード」とやらを、海辺の街にたどり着いたらふんだんに食べてやるのだという、強い決意を次第に固めつつあった。海を見たい。キラキラとした暖かい海を見たい。シーフードを食べたい。そんなささやかな無い物ねだりがささやかな次の目標になり、長い旅を続けさせてくれるのかもしれない。

(たいchillout)

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