【カザフスタン/アルマトイ】度胸と愛嬌

情報はSMSで送ってほしい

結局、駅からホテルまで早朝のアルマトイを歩いた。Kさんとシドニーからきたマダムと一緒だ。ぼくは自分のバックパックを背負いながらマダムのキャリーバッグを40分は転がし続けた。Booking.comで予約したホステルの地図が間違っており、一人になってからまた20分は歩いた。道を聞いたり、電話したり(全く英語が通じず会話にならなかった)、間違って民家に立ち入ったりなどして、やっと着いたホステルで迎えてくれた女性はリザと言った。英語の話せない中年女性だった。陽当たりの良くないドミトリーに案内してもらうと、ぼくの選んだベッドのシーツを変えてくれた。隣の部屋のカザフ人男性に挨拶したがあまり愛想が良くなかった(英語も通じなさそうだった)。2日シャワーを浴びていなかったので、シャワーを浴びた。浴槽があったが温かいとは言い難いシャワーだった。あまり清潔感もなかった。シャワーを浴びたら朝食を作ってくれた。それほどキレイではないテーブルに直接置かれたパンや、器に盛って何日経っているのかわからないジャムが気になった。すべてはこのホステルに限ったことではない。一つ一つに関しては、もっとひどいのは何度も経験してきた。しかし、それらが重なって珍しくこのときのぼくの気は滅入っていたと言えよう。長い列車旅の後だったこともあり、ホステルに癒やしを期待しすぎていたこともある。なにより朝のアルマトイは寒かった。
リザの朝食を食べ終わる頃別の女性がきた。こちらはリスと言う。可愛らしい名前だがおばちゃんだ。リザ同様リスも親切で、ぼくのコンディションを気にしてくれていたが、Google翻訳を通してもうまくコミュニケーションが取れなかった。Google翻訳の使いこなしにもセンスがあることをこの時点でぼくは身にしみてわかっていたが、リスのそれは極めて下手だったと言えよう。それでもなにかぼくの世話を焼きたいらしく、英語を話すオーナーらしき男性に電話してくれたが、こちらもうまくコミュニケーションが取れなかった。彼の英語が下手だったのではない。ぼくのほうが下手だった。表情もボディーランゲージもない受話器から聞こえる英語をヒアリングするのは対面でのそれよりも数倍難しいのだ。埒が明かないため、若干失礼な態度になってしまったが「情報はSMSで送ってほしい」と伝え電話を切った。

 

初日の街歩き

一人になりたかったが、外は寒かったので朝食の席で太陽が高く登るのを待っていた。すると突然英語を話す壮年男性が入ってきた。朝食の時間だ、とぼくを呼ぶ。まさにこの場所でリザの朝食をすでに食べていたぼくだったが、次第に体力が回復してきたのか、まだ食欲があることに気がついた。キッチンではリスが調理をしていた。今度の朝食は火の通った料理を食べれそうだ。男性に応じてぼくは外のテラスに出た。
気温は上昇していた。リスの卵料理を食べた。美味しかった。男性の名前はアインと言った。エストニアからの旅行者だった。アインが自分の泊まっている方のドミトリーに移りなよと言うから部屋を見せてもらうと、こちらは陽当たりが良い。ぼくは喜んで荷物を移動した。中央アジアはロシア語でコミュニケーションできると聞いたが本当か、と訊くとアインは頷いた。ロシア語の簡単な挨拶をいくつか教えてもらった。
体力が回復したので街に出ることにした。アインがイブニングにシャンパンを開けるから飲まないかと言う。それは良いとぼくは応じた。ホステルを出てもなぜかリスがついてきた。目印になる場所まで案内してくれるようだった。コミュニケーションが取れないなりになんとかぼくの助けになりたいのだろう。話が通じないとまたオーナーに電話した。リスにはぼくが頼りなく、幼く、助けを必要としているように見えるのだろう。ぼくの髪にホコリがついていたのか、リスはそれを払った。悪い人ではないのはわかってる。でもぼくは子どもじゃない。釈然としなかった。
日が昇り、街を歩けば元気が出た。アルマトイの街は美しく、カフェはおしゃれで、物価は安かった。広場や噴水がたくさんあった。二軒のカフェをはしごした。朝食を二回食べたので、昼食は二軒目のカフェのチーズケーキで済ませた。「夏いちばん」と書かれたぼくのTシャツ(沖縄の北谷で買った)を見て「Are you Japanese!?」と店員の女性に声をかけられた。KPOPやJPOPが好きらしいが日本人に会ったのはじめてらしい。アメリカのバージニア州に住んでたらしく英語が上手かった。街の中心地で、北京を発って以来一ヶ月以上ぶりのスターバックスを見かけた。明日行こうと決めた。シーシャ(水タバコ)の店がたくさあった。高円寺で友人たちと行ったことを思い出した。あれは楽しかった。
アルマトイには地下鉄があると聞いていたので試そうと思った(地下鉄も北京以来だ)。2GISというオフラインマップを使い、宿へのルートを検索した。駅についたは良いが、当然きっぷの値段も買い方も分からない。目が合った人から順番に片っ端から話しかける。こういうときの躊躇いや恥じらいみたいなものは旅するうちに消えていた。きっぷはどこに行くにも80テンゲ、日本円にして24円だった‥。

 

Do you have wife?

アインが何時にシャンパンを開けるのかわからなかったので19時には宿に戻った。アインはパソコン仕事をしていた。一時間待ってくれと言う。ぼくはベッドでケータイをいじりながら待っていた。一時間半後、ぼくがお腹をすかせてクッキーをかじっていると、アインがカップラーメンを開けた。これを食べてからシャンパンを飲もうと言った。あまり期待していなかったがやはりカップラーメンはふやけていた(ぼくはバリカタ至上主義者)。そしてなんとアインはカップラーメンにヨーグルトを入れた。訳が分からなかったが仕方ないと諦めた(旅をするにつれぼくは諦めの良い男になっていた)。後でわかったことだがヌードルやスープにヨーグルトを入れるのは、この辺りでは良くあることだった。
そしてアインは冷蔵庫からシャンパンを取り出した。これを待っていたのだ。二段ベッドが4つある部屋だったが今日の宿泊客は二人だけらしかった。酒のグラスには拘りたかったが、シャンパングラスどころかガラスのコップが無かった。アインは気にしないらしく味噌汁茶碗みたいなものにシャンパンを注いだ。一杯目はこうするんだと言うアインに促され、腕を酌み交わして飲みはじめた。一口で飲めという。それは無理だった。酒はスポーツじゃない。100%自分のペースで飲んではじめて楽しめるのだ。「ぼくは酒に弱いからそれはできない」。嘘をついて、一気飲みから逃れた。アインは一口で飲んだが腕は震えていた。なぜ無理をするんだ。理解できなかった。
「Do you have wife?」アインは50代後半か、60代前半に見えた。アインの年齢のひとり旅行者は珍しかったのでぼくは尋ねた。時と場合によっては失礼な質問にあたるがこの場では許されると思った。しかしアインは答えなかった。聞こえなかったのだろうか。いないのだろうか。その質問はその場で流れた。
やがてそれぞれの旅行の話になる。アインは世界のあらゆる国を旅行していた。職業はエストニアのポリスと言っていた。「なんであなたは旅行をするのですか?」ぼくが訊ねると、そこに友だちがいるから、と答えた。アインはパソコンを起動した。こっちに来いとぼくを呼んだ。パソコンには写真が映し出されていた。アインはそれをスクロールした。各国で撮影されたアインのポートレートたちだった。これはジョージア、これは上海、これはパリ、これはジャカルタ、これはメルボルン、これは京都、これはロサンゼルス、これはリオデジャネイロ…。すごい。ぼくはそれを正直に伝えた。人生を通して世界中を旅行してきたのだ。しかしひとつだけ気になったことがあった。すべての写真でアインは一人で写っていたのだ。
「Do you have wife?」奥さんはいるの?ぼくはもう一度訊いた。失礼だっただろうか。でもぼくは知りたかった。少し経ってアインは答えた。「娘がいる」。娘がいる。つまり奥さんはいたということになる。しかし今はいないのだろうか。別れたのか。それとも。さすがにそれ以上は訊かなかった。
それぞれ二杯飲んで場はお開きになった。電気を消すよ、そう声をかけてぼくはベッドに入った。するとアインは言った。ぼくは耳を疑った。

「come to my bed」

は?どういう意味だ?「Sorry?」とぼくは聞き返した。

「come to my bed」

「What do you mean?」

「go to my bed」

間違いなかった。アインは俺のベッドに来いと言っているのだ。信じられなかった。怖かった。ぼくははっきりと答えた。

「No!」

アインは黙っていた。ぼくはもう一度「No!」と言った。「No?」アインは聞き返す。「No!」ぼくは強く言った。やがて諦めたようだった。「Good Night」アインがそう言ってやりとりは終わった。直後、部屋のドアがノックされた。リザだった。ドアを開けようとしているのだ。しかし鍵が閉まっていて開けられないようだった。鍵 が 閉 ま っ て い る だ と ?????!!!!!!!
ぼくは飛び起きて鍵を開けてリザを招き入れた。リザは何かの物を取りに来ただけだった。リザが出ていくときアインは自分のベッドに横になりながら鍵を締めてくれと言った。当然ぼくはそれを無視して鍵を開けたままにして頭まで布団を被って眠りについた。

アインの奥さんがどうなったのかは知る由もない。しかしその結末がこういうことならそれはなんとも残念なことだった。実は以前にも、今回の旅とは別の旅行のときに、とある国で男性に誘われたことがあった(そいつはベッドじゃなく給水塔の影にぼくを誘い込もうとした)。ゲイであること自体はもちろん良いと思う。しかし人を怖がらせるのはどんな理由であれ良くない。アインも女性相手だったらこんな誘い方はしないはずだ。それが同性同士なら許されると考えているとしたら、ぼくはその甘い考えを真っ向から否定したい。この日からぼくは「男性に」気をつけるようになった。とくに大柄で異人種の男性に。「気をつけようと感じる男性」と接する機会が生じたら、ときどき右手の薬指のペアリングをこっそり左手に移動させた。それに効果があったのかはわからないが、これ以降はいまのところ、このような事態には巡り合っていない。

すでに予約してしまっていた3泊だけして、ぼくはホステルを変えた。翌日はアインと街をまわる約束をしていたが、ぼくは彼に黙ってそれをすっぽかした。それから数日、アインと、それ以降も過剰にぼくの世話を焼き続けたリスについて考え続けた。アインは確かに非常識だ。そしてリスも、悪人ではないが、人の立場で物を考えられない人間だった。では、それらを差し引いて、ぼくに改善すべき余地はあっただろうか。ひとつ思い当たる節があった。

 

度胸と愛嬌

男は度胸、女は愛嬌」なんて言われるが、旅人の条件こそその二つを同時に備えていることだと思う。特に同世代の男性の旅人に比べて、ぼくが武器として自覚していたのが愛嬌だった。例えば街の食堂に入ったは良いが言葉も通じず注文の勝手もわからないとする。そんなときぼくだったら、敢えて目立つ場所に立ちすくんだまま不安な表情を隠さない。ぼくの後ろから入ってきた客がぼくを抜かしていっても困った顔をしておどおどと突っ立っている。これが普通はなかなかできないと自負している。なにせ非常にかっこ悪い。店が繁盛しているほど店員も客もぼくのことを無視する。いかにも情けないが、それでもしばらくするとなんだアイツとなってくる。もしかして外国人かという雰囲気になってくる。無関心がやがて訝しげな視線に、そして興味に切り替わる瞬間だ。そこではじめてぼくはホッとした表情で笑いかけ「何か食べたいんだけどな…」と伝えるのだ。興味を持たせ、警戒心を解き、良心を引き出す。それも、人の心の動きに最も自然に沿う形で。無知をさらけ出し、可愛気に首を傾げる。ぼくはこの類の、無防備さや鈍感さからくる愛嬌を自覚的に/無自覚に駆使することで、これまで多くの逆境を楽しい時間に反転させてきたと思っている(ちなみにこういった愛嬌を駆使する旅はやはり若さが最大のアドバンテージになる。こんな旅ができるのは今だけ。だから今しかないのだ)。

ぼくは愛嬌に頼りすぎたのではないか。思い当たる節はそれだった。アインとリスがぼくに迷惑な愛情を向けた原因の一端には、もはや常時全方位に向けられていると言って良いぼくの愛嬌が「too much」にすぎたのかもしれなかった。

それからしばらくぼくの愛嬌は不自然にセーブされていたと思う。その後もアルマトイでは多くの人と楽しいひとときを過ごしたが、ウランバートルや新疆にいた時ほど人との関わりに没入できずに、最後の日までカフェ「ネデルカ」に籠城し続けることになったいくつかの理由のひとつに、この初日が尾を引いていたとみて間違いないだろう。
(たいchillout)

f:id:taichillout:20181018103739j:image