【キルギス/ビシュケク】アナザープラネットと同じ月

オッシュ・バザー

翌日にソンジェと飲む約束をかわしたあとの午前中はカフェで江戸川乱歩の『パノラマ島奇談』を読み進めた。昼前からバスに乗り、とりあえずビシュケクの名物らしい、オッシュ・バザーに行くことにした。

バザーの前で降りたら、すでに人で大賑わいだった。とりあえず昼食を食べようと見渡し、安そうでかつ人の入りも多かったお店に入った。レジ横のケース内に大皿に入った調理済みの料理が並んでおり、そのなかからぼくは「焼きうどん」のような物を指さした。すると店員は焼きうどんを一人用のお皿に移し変えて、そのまま電子レンジに突っ込んだ。なるほど、チンするのか。100ソム、160円を払って席を探した。美味しかった。

バザーに入場した。肉を串焼きで売っている店の店頭で、店員となぞの男が腕相撲をしていた。ムスリムの女性が多かった。ヒジャブ姿の女性は誰が誰だか分からないと最初は思っていたがそれは違った。だんだんとぼくは、ヒジャブが美しい人の美しさを更に引き立てるものであることが分かってきた。新疆でもそうだったが、バザーにはたくさんの香辛料が売られていた。誰が買っていくのだろう。やはり業務用なのだろうか。どのように調理で使うのだろう。野菜や果物、ナンが山積みになっていた。トイレはバザー内にいくつかあったがどれもクリーンとはいえず、5ソムか10ソム払う必要があった。狭い通路にアコーディオンを弾いている人がいた。ぼくら観光客とはちがう明らかに地元の人と思われる人々が、アコーディオン弾きにためらわずチップを払っていた。いつもどおりぼくは特に買い物をしなかった。バスで引き上げる帰りにスーパーでビールを買った。

 

韓国のお盆

翌日のソンジェとのビール会は、韓国料理店でのランチに変わった。問題はなかった。丁度その日は韓国のお盆(Thanks Giving Day)であり、お盆らしく韓国の伝統料理を食べれる行きつけのお店に連れていってくれたのだ。ぼくたちは昼間からマッコリで乾杯した。店内にはハングルが縦書きで書かれている掛け軸や畳の座敷があった。それらを見渡してぼくは言った。
「いくつかの国を旅して思うのですが、韓国と日本はとても似ていると感じました。文化も人も」
ソンジェは頷いたが、ぼくが予測できなかった答えが返ってきた。
「そうだね。なぜなら、私たちは中国文化を共有しているから」
We share Chinese culture。ソンジェはそう言った。あまりにシンプルな事実だったが、ぼくにとってそれはとても大きな気付きだった。韓国と日本が隣同士だからお互いに影響を与えあっているのだと、あるいは民族性が似ているのだとぼくは考えていたが、そもそもぼくたちの文化の多くが中国から渡来したものなのだ。似ていて当然だ。韓国文化と日本文化は、ある意味、中国文化という親のもとに生まれた兄弟なのだった。

 

WWⅡ

ぼくたちはいろいろな話をしたが、主にぼくが質問し、ソンジェが答えた。たとえば次のように。
カザフスタンにもキルギスにも韓国人が多く住んでいます。なぜですか」
ソンジェは答えた。
「韓国が日本に占領されたとき、シベリアに逃げた韓国人がいた」
「戦争のときですか」
「うん。その後シベリアに逃げた韓国人たちが、スターリンによって中央アジアに移住させられた。中央アジアに住んでいる韓国人は彼らの子孫だ」
まさか、日本が関係してくるとは思わなかった。この時期、ぼくはアルマトイにいた頃に観た映画や読んでいた本の影響もあって、戦史についてインターネットで調べることが多かった。第二次世界大戦、WorldWarⅡは日本人にとっては悲惨な敗戦というイメージが強いが、敗戦直前まではばかみたいに周辺国を植民地にしていた。多くの周辺国にとって、日本(枢軸国)の敗戦は解放を意味していた。それらについてぼくはまともに考えたことがなかったが、おそらくほとんどの日本人がそうだろう。

 

本物のフィールドワーカー

ソンジェは情報を小出しにする男だった。彼はフリーで翻訳の仕事もしており、中央アジアの歴史の中でも特に、ウイグル文化のエキスパートとして歩んでいた。新疆大学で学んだ経験もあり、ウイグル語を最も得意とした。おまけに彼の研究の拠点はここビシュケクではなかった。南部のオシ、パミール高原、そしてウズベキスタンタシュケントだった。ビシュケクにいた理由は、落馬して怪我したために病院に行く必要があるからだった。このランチの後は通院の予定が入っていた。近々ドクターのOKが出る予定で、そうすればオシを経由し、パミール高原に帰るようだった。ひとつ疑問があった。
パミール高原タジキスタンじゃないんですか」
パミール高原タジキスタンの観光地として有名だった。ソンジェは首を振った。
パミール高原タジキスタンキルギスの国境にまたがっている。どちらからでも行くことが出来る」
目からウロコだった。
もっと驚いたのはチベットについての認識だ。
中国のチベット自治区は、外国人はビザとは別の許可証「パーミット」というものを持たないと入れないエリアだった。その上自由旅行を禁止されており、ガイド同伴のツアーを組む必要があった。そしてツアーは高額だった。ぼくは今回の旅で行くことを諦めていた。
ソンジェは「チベットにもたくさんのチベットがある」と言った。
チベットのセンター(中央)はパーミットが必要だが、その周りのチベットはパーミットがなくても行ける」
こんなことを言った人はいなかった。
どの旅人と会っても、チベットと言えば100%パーミットだった。彼らだってあらゆるネットワークでそれを確かめたはずだったが、彼らにとってのチベットのすべては「チベットのセンター」のことであり、その認識の範疇からは出られなかったのだ。本物のフィールドワーカーであるソンジェを前にしてぼくは、百戦錬磨のバックパッカーたちがただの物見遊山の無知な観光客にしか見えなくなってしまった。そのくらいソンジェの認識は柔軟であり、知識は深かった。もちろんソンジェは「パーミット不要」のチベットに行っていた。決して気軽に行けはしないだろう。そのルートをぼくは訊かなかった。
すべては陸続きであり、チベットに線は引けない。パミールにも線は引けない。そこに暮らしている人々や受け継がれてきている文化に明確な境界なんてなく、すべては溶け合いながら緩やかに繋がっている。中央アジア歴史研究家に、ぼくは学んだ。

 

アナザープラネット

ソンジェは、もっとも素晴らしい陸路の国境越えルートはカシュガルからパキスタンのルートだと教えてくれた。
カシュガルからパキスタンまで行けるんですね」
「うん。それは地球じゃないみたいだった」
「地球じゃない?」
「景色が。他の惑星のようだった」
このランチタイムのあいだ中、ぼくの目はずっと輝いていただろう。Another Planetのような景色。それは一体どんなものだろう。これからぼくが行こうとしている東南アジアやインドやヨーロッパ、日本もアメリカもほぼすべて行ったことがあると言ったソンジェが、「most interesting」と言ったAnother Planetのような、しかし現に地球上に存在した景色。残念ながらそのルートはいま鉄道の開発が進み、失われつつあるようだった。しかしそれもそのときのぼくにとってはあまり関係がなかった。ぼくはソンジェの知識によって、想像力が刺激され、旅の夢が刺激されていた。それが大事だった。

 

同じ月を見ている

ぼくがお手洗いに行っている間にソンジェはお会計を済ませていた。彼は「今日は韓国のお祝いの日だから」と言った。ぼくは全額ご馳走されてしまった。二時間は経っただろうか。ここに書いたこと以外にもたくさんの話をした。ウイグル中国共産党北朝鮮、資本主義、アメリカ、民主主義…。病院に行くソンジェを「また後で」と見送って、ぼくは一人で街中まで歩き始めた。二人はずっと英語で話していた。母国語に比べて遥かに語彙に乏しいはずなのに、そのときのぼくは日本人の誰と話したときよりも深い話ができた気がしていた。ぼくがこの旅で抱いて、溜め込んできた疑問が次々に氷解されていく様はあまりに心地良かった。雨が降りはじめたが、ぼくの頭はしばらく火照ったままだった。

その夜は中秋の名月のようだった。日本はもちろんのこと、世界のいくつかの街にできた友人たちの何人かがSNSに月の写真や動画を投稿していた。あの人も、あの人も、あの人も、同じ月を見ている。違う時間に夜がきて、違う時間にのぼる月を。
ビシュケクの月は雨雲に隠れていたが、それはたいして問題ではないような気がしていた。

(たいchillout)

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