【ウズベキスタン/アンディジャン】中央アジアは好きか?って

ルート変更からはじまる物語

中央アジアの旅では最後の一カ国となったウズベキスタンタシュケントにいたとき、突然ぼくは二週間後のマレーシア行きの航空券と、そのさらに四週間後のシンガポール発香港行きの航空券を同時に購入した。それに伴い、想定していたルートが大きく変更された。

 

Before ※すべて陸路
ウズベキスタンタジキスタン→ 中国(新疆ウイグル自治区〜中国横断)→ 香港→ 中国南部→ 東南アジア

After ※空路解禁
ウズベキスタン→ マレーシア&シンガポール(周遊)→ 香港→ 中国南部→ 東南アジア

 

ルート変更のきっかけは新疆ウイグル自治区の情勢不安定だった。中国共産党によるウイグル民族への弾圧がよりひどくなり、その影響が広がっていた。曰く、国境が封鎖された、新疆へ出入りする国内外の鉄道切符のオンライン販売が突然「ボタンごと無くなっている」、など。あぶない橋はすでに幾度か渡ってきたと思う。しかし、いや、だからこそ、つぎあたりそろそろジョーカーを引きそうな予感もしていた。

以上を踏まえてぼくはタシュケントの高級ホテル、"グランド・ミラ"のロビーでソファーに踏ん反りかえって、次の一手になりそうな航空券をリサーチしていた。発端はネガティブな要因だったが、そうしてみつけたウズベキスタン航空によるクアラ・ルンプールへの直行便(水曜日だけ運行される)には胸をときめかせるなにかがあった。ぼくは南にあって北にはないなにかに飢えていたのかもしれない。あるいはなにかしらの不満足をすべて解消してくれるなにかが南にはあるはずだと無根拠に幻想していたのかもしれない。

当初、東南アジアを巡るときはマレー半島は南下せず、タイ、あるいはラオスからミャンマーに真っ直ぐ行こうと考えていた。マレーシアには行ったことがあったからだ。しかしわからないものである。航空券を眺めているだけで、さして興味のなかったマレー半島が急に素敵な場所に思えてきたし、行ったことのある国をあえて再訪するという経験も、いかにも真新しく、むしろ斬新な、オリジナルな旅に繋がりそうな気がしてきた。さらには、韓国から地道に西進を続けたこれまでの旅路を「第一幕」として、綺麗に鮮やかにすっぱり「閉幕」してしまえそうなところも良かった。

新しい思いつきに勢いづき、未訪問の中央アジア諸国と中国横断への未練はすっかりなくなっていた。その日はタシュケントでの四日目の朝だった。閉幕まで残された二週間。そこでぼくはなにができるだろうか。

その翌日、ひとりの日本人男性に会うことになる。彼の名はアライくん。二度目の一人旅にウズベキスタンを選んだ二十歳の短期旅行者だった。やがてアライくんは、そこから先のウズベキスタン旅の多くを共有するキーパーソンとなる。それがウズベキスタン編のハイライトになる。が、しかし。そのまえに、ぼくが航空券を買うまでの出来事を部分的にかいつまんでみたい。ときは四日前、場所は国境まで遡る。

 

無国籍トイレからはじまる物語

キルギスを出国し、ウズベキスタンに入国する前。そこにどちらの国に属するのかわからないトイレがあった。ぼくがそのトイレから出てくるとトイレ番からウズベキスタンの通貨で利用料金を請求された。トイレ番はぼくにコリアか?と聞き、ぼくはヤポンだと答えた。トイレ番は「よっしゃそれは良いぜ」といった感じのことを言い、ぼくたちは握手をした。一部始終を笑顔で見ていたウズベキスタン男性がいる。後に知る彼の名はショーハ。その日の行き先を決めていなかったぼくは、ショーハの案内に従って国境最寄りの(そしてショーハが住んでいる)アンディジャンという街までシェアタクシーに乗せてもらい、駅でその日のうちにタシュケントに行く電車のチケットを買った。国境からアンディジャンまでの道路は幅広く、白線が引かれていなかったために、対向車線という概念が存在しなかった。すべての車が好きな場所を走っていた。ぼくはタクシーからひまわり畑を見た。ショーハは優しかった。ぼくの知らないうちに、より英語の達者な友人であるラグマドンを呼び出し、その二人はぼくの電車が出発するまでの間、アンディジャンの街を案内してくれた。二人は現役大学生であり、ラグマドンは国際ビジネスを学んでいた。英語はパーソナルトレーニングで身につけたと言っていた。ショーハは大学の学生全体のリーダーらしかった。キルギスと比較するとアンディジャンは発展していた。発展ということばを言い換えると、人々の距離感や、目つきに、土着的な要素が薄れていた。それは洗練と言い換えても良かった。顔つきはキルギスより、よりくっきりはっきり、ぼくたち日本人から見て「エキゾチック」だと形容したくなる顔つきだった。ショッピングモールでは制服姿の学生たちが放課後を楽しんでいた。ラグマドンは「日本の大学院進学を考えている。ドイツと日本(とどこか忘れた)で迷っている。どう思うか」とぼくに言った。理由を訊ねると「日本人は外国人に優しいし日本は世界で最も発展している」と言う。そう言われることはうれしいがぼくは正直に「日本人は優しいが一方でとても閉鎖的だ。日本経済は頭打ちだし、日本語は日本でしか通じない。きみは英語ができるのだから国際ビジネスを学ぶならアメリカが良いよ。給料も良い」と言った。ラグマドンはアメリカを好まないようだった。「アメリカは確かにナンバーワンだがぼくたちに優しくない。差別的だ」と言った。きけば日本にもアメリカにも行ったことがないという。ぼくは日本は差別的な国だと思う。アメリカは少なくとも、差別はダメという「理念/建前」は広く共有されている。仮に差別の実態があっても、差別が悪いことで、恥ずかしく、前近代的なことだという価値観は広く共有されている。日本には建前すらない。日本には、差別について考えてきた歴史がないからだ。

などなど、を話をしつつ最後にぼくらは記念にビデオをとった。ウズベキスタン語を教えてもらってカメラに向けてちょっとしたスピーチまがいのことをぼくがしたのだ。乾いた日差しの照りつけるがらんとしたアンディジャン駅の前でぼくたちはハグして別れた。水とリンゴとポテチを買って、ぼくは電車に乗り込んだ。

 

ソーリーソーリーからはじまる物語

電車は快適だった。座席にUSBの差込口がついていてケータイを充電できるのが最強だった。乗っているうちに日が暮れた。谷崎潤一郎の長編を読み続けた。タシュケントの宿を予約していなかった。朝の時点では、タシュケントまで行くかどうか決めていなかったからだ。ほんとうにありがたいことにショーハにSIMカードを譲り受けていたが(これでカザフ:ジンさん/キルギス:クロイ/ウズベク:ショーハの三カ国すべてでSIMカードを貰ってしまったことになる)、データをチャージしていなかったので、まだインターネットは使えなかった。トイレにたった後、車内は空いていたのでぼくは別の座席に移動してみた(ホントは帰ってきたときにはぼくの席におばちゃんが座っていた)。そこで音楽を聴いていると男性に声をかけられた。ウズベク語かもしくはロシア語だったが、そこは俺の席だと言っているのがわかった。ぼくは慌ててソーリーソーリーと言ってどこうとしてはじめて、ぼくが外国人だと気づいたらしく、男性の言葉は英語に切り替わり、態度も優しく切り替わった。日本人だと言うと、ちょっとそっちの二人がけの席に移動して話さないかと言う。背の高い良いオトコだった。男性の名はアミル。建設会社で働く二十三歳だった。現場ではなんと日本の企業とチームを組んでいるらしく、片言の日本語を話した。そしてアミルもラグマドン同様に、日本の大学(同志社)の修士課程への進学を試みたことがあるようだった。ぼくは旅の話をした。今後の話になると、ぼくは例によってほとんどノープランであり、何もかも曖昧に伝えざるを得なかった。するとアミルは「日本人は全部計画するじゃないか。さてはお前は日本人じゃないな!?」と笑った。アミルは日系企業の仕事の仕方を知っているのだ。ぼくはケータイを渡してこれまで行った国の写真を見せた。アミルはすぐとなりのキルギスにも行ったことがなかった。キルギスのところになって「なるほど。これがキルギスガールね」などとつぶやいていた。

二十一時過ぎに電車が到着し駅を降りると、アミルは駅前のタクシーの客引きをかき分けて、道路に出て流しのタクシーをひろった。タシュケントでできたばっかりのカプセルホテルまで連れて行ってくれるのだ。タクシーは「きっと広いはず」のまだ見ぬ首都タシュケント(それにしてもかっこいい響きだ)の街のどこかを走っていた。タクシーの中で運転手がぼくになにかを話しかけた。助手席のアミルがそれを通訳した。後部座席のぼくからみると、二人はただのシルエットだった。
「運転手はあなたに訊ねている。中央アジアは好きか?って」

(たいchillout@ラオス)

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