【ウズベキスタン/タシュケント】ラストスパートはVIP

SAMURAI

朝食の席につくと、スタッフのおばちゃんが順番に目玉焼きとソーセージを焼いてくれる。パンとクッキーは置いてあるものを自由に食べる。チャイはおかわりできる。

フェンシング少年団の大群が去った頃、隣の席に座ってよいかと英語で声をかけられた。それがアライくんだった。埼玉県在住の大学生。部活動でテニスに真剣に打ち込んでいる、見るからに好青年だった。部活は休めないが授業は休める、とのことで「大会」が終わったこの時期の一人旅だった。人を惹きつける力があった。気がつけば同じテーブルにいた香港人女性、上海人男性、オーストラリア人のおばあちゃん、イスラエル人女性みんなが会話に参加していた。

食堂を囲む四方の真っ白い壁のひとつが、自由に書き込めるスペースになっていた。ホステルやゲストハウスではよくあるやつだ。日付や名前とともに、ホステルへの感謝や、ウズベキスタンへの熱い想いが世界の言葉で綴られていた。SNSのアカウントや、誰かのシルクロード旅の計画も書かれていた。日本語もたくさんあった。そのうちのひとつを指さしてイスラエル人の女性が「あれはサムライと読むの?」とぼくたちに訊ねた。目を向けるとそこには「侍 SAMURAI」と書かれている。なるほど、「侍」という漢字の話をしているのだ。ぼくは「そうだよ。これ(侍)がSAMURAIを意味するんだ」と言った。するとアライくんが、自分もサムライを着ていると言い上着を脱いでTシャツの背をぼくたちに見せてくれた。そこには「祭」のような漢字がいくつかつらなる(正確には忘れてしまった)、要するにかなり和風なデザインだった。しかしサムライではないだろとぼくは突っ込むのを我慢できず、「サムライの一種だね(kind of SAMURAI)」とお茶をにごした(ほんとはちっともサムライじゃない)。このエピソードでぼくが言いたかったことは、上着を脱いでそうやってみんなの前に立つような彼のそういうところが、ぼくにはとても輝いて見えた、ということだ。そしてちょっとだけ、旅初めの頃のぼくを見ているようだった。

 

二度目のバザー

それぞれが部屋に引き上げたが、ぼくにその日の予定は無かった。いつものことだ。お天気は怪しかった。大きなテレビにプレイステーション4が繋がれているリビングルームには、いくつかのソファやクッションと共に安っぽいキーボードがあった。ぼくはそれを弾いた。スピッツを何曲か、オアシス、Stand By Me、千と千尋の神隠しの曲、それに自分で作った曲。左手はコードをアルペジオにするだけの、いつもと同じレパートリー。気がつけば香港人女性が近くのソファに座っていた。アライくんも出てきた。アライくんはもう今日の夜行列車で西部のヒヴァという街にいくらしかった。ぼくは自分がいつチェックアウトするのかわからなかった。どちらからともなく、ぼくたちは連絡先を交換した。

もう一度、ぼくたちはそれぞれが部屋に引き上げた。そしてもう一度、アライくんがチェックアウトするときにぼくも偶然そこを通りがかった。これから上海人の男性と一緒にバザーに行くという。上海人男性とはヒヴァへ行く夜行列車も偶然、一緒らしい。ぼくも一緒にバザーに行かないかと誘われた。そのバザーには三日前に行っていた。だが、ぼくは行くことにした。

それから半日、三人で過ごした。アライくんはコミュニケーションに積極的で、バザーのお店の人ともすぐに仲良くなった。ぼくは乾燥プルーンの値引き交渉にトライした。ぼちぼちの成果だったが、アライくんは尊敬の目で見てくれた。そう、最近一人旅に目覚めた彼からしたら、ぼくはその大先輩だった。続けてぼくは、使い切れずに残していたキルギス・ソムの両替を試みた。通貨には強弱がある。キルギス・ソムはあまりに弱く、隣国のウズベキスタンであっても両替場所が見つからなかった。しかしここは闇両替商が闊歩するバザーだ。ぼくはそのうちの一人を捕まえて(捕まって)交渉を開始した。どうやら両替は可能。問題はそのレート。しばらくファイトが続いたが、これは決裂してしまった。彼のレートには無理があった。結局ここで手放せなかったキルギス・ソムはその後も貰い手が見つからず、今でも旅の同伴者だ。

 

ラストスパートはVIP

二人の見送りを兼ねて、ぼくは鉄道駅までついていくことにした。そろそろ次の行き先を決める必要があった。タシュケントに六日も滞在したことでさすがに情報は集まり、候補は絞られていた。朝はまだ霞の向こうにあった、決断のための整理された考えが、この半日で急速に姿を現しつつあった。考えが進むときは一気に進む。良い切符があれば買ってしまうかもしれない。

首都のタシュケント。古都のサマルカンド。オアシス都市だった世界遺産のブハラ、ヒヴァ。多くの旅行者がこの四箇所を巡った。サマルカンドの名は周辺国でも良く聞いていた。ブハラとヒヴァはウズベキスタンに入って、ぼくは初めて認識した。タシュケントからヒヴァまではそれなりに距離があった。それらに挟まれてサマルカンドとブハラが点在した。ひたすら首都に長居するクセのあったぼくだが、今回は動こうかという方向に気持ちが傾いていた。中央アジアは最後だから、旅の第一幕のラストスパートだから、あるいはアライくんの影響、だろうか。

地下鉄でタシュケント駅まで行くと、二人はチケット売り場まできてくれた。まだ迷っていた。サマルカンドは必須だった。他の都市はどうするか。順路はどうするか。シェアタクシーという選択もあった。結論から言えば、ぼくは二人と同じヒヴァ行きの夜行列車のチケットを買った。二人はこれから出発だが、ぼくは翌日だ。この旅三度目となる寝台列車。翌日のチケットはVIPシートしか空いてなかった。低価格の二等三等シートが良ければ出発を遅らせるしかない。なぜだか、一刻も早く移動しないといけない気がした。窓口から脇にずれて五分考えて、ぼくはVIPシートを買った。

ヒヴァ行きのチケットを買うことは、ヒヴァ、ブハラ、サマルカンド、そしてタシュケント、と西から東へ戻ってくるルートが確定することを意味していた。クアラ・ルンプール行きのフライトはタシュケント発だったのでそれも頭にあった。二人と同じルートを歩むことになったが、各地で合流する約束はしなかった。ぼくにそのつもりはなかった。彼らはぼくよりも一日早く到着するのだし、アライくんの帰国日もぼくのフライトより一日早かった。それぞれ、残された時間は少なかった。それに別々に行動したとしても、ぼくらならそれぞれ有意義で安全な旅ができただろう。

もう会えないかもしれないつもりで二人を見送った後、歩いて"グランド・ミラ"まで帰った。歩くには距離のあるはじめての道だったので、途中何人かに方角を尋ねた。もちろん地図アプリはあった。でもぼくは人から道をききたかった。

その夜、とあるメッセージを受信した。送られてきたのは、パミール高原でぼくが馬に乗ってバンザイしている写真だった。ソンジェからだった。タシュケントにいるらしい。近いうちにタシュケントに行くとは聞いていた。会えるのは明日しかない。最終日の予定がひとつできた。

 (たいchillout@タイ)f:id:taichillout:20190121094048j:image