【番外編】地獄探しの旅

私の地獄

ウルムチで会ってノリでWeChatを交換した中国人のGという十八歳の美女がいて(なんというヒドイ書き出しだろうか)、いまさら連絡もとらないのだけれど、昨年末、そのGさんがWeChatモーメンツに中国語で次のようなひとことを投稿していた。

あなたはあなたの神を信じて、私は私の地獄を守る
(WeChatの翻訳機能で日訳)

 これが日本人の十八歳の美女による日本語の投稿だとしたらそれほどは印象には残らなかったと思う。しかしそれが、新疆ウイグル自治区で生まれ育ち今もそこで暮らす女性の中国語の投稿であるゆえにバイアスがかかり、いかにも深く、美しく芸術的な言葉に思えたのか、頭にこびりついて離れなくなってしまった。 

この一文はとてもシンプルだ。あなたと私が対比され、神と地獄が対比される。神をあなたが、地獄を私が、引き受ける構図になっている。これがもしありきたりな言葉選びによるものなら、「あなたはあなたの神、私は私の神」ということになると思う。しかしそうはならない。私は地獄を守るのだ。私の中にある地獄を。

 

僕の地獄

地獄という言葉で思い出すのが、『創聖のアクエリオン』というアニメの同名主題歌である。このアニメをぼくは見ていないが曲は好きだった。そのサビの歌詞は次のようなものだ。

一万年と二千年前から愛してる
八千年過ぎた頃からもっと恋しくなった
一億と二千年あとも愛してる
君を知ったその日から僕の地獄に音楽は絶えない

SFアニメらしいスケール感でポップに愛して恋していたら最後に、そう、地獄という言葉が出てくるのである。君を知ったその日から僕の地獄に音楽は絶えない。素敵な詩だ。それを素敵だと感じさせる肝はやっぱり、地獄という言葉の、場違いで、意外性のある使われ方にあるのではないだろうか。確かに、「君を知っ」て「音楽が絶えない」場所は「僕の地獄」なのだ。天国ではなく。そのほうが美しい。天国には喜びしかないが、どうやら地獄には苦しみしかないわけではないようだ。この歌詞を読めば不思議なことに、哀しみや苦しみだけでなく、その裏にはりついた喜びの残骸や喜びの種のようなものも地獄という世界が包括しているように感じさせてくれる。喜びと哀しみを包括する表現こそ、音楽と詩の本懐である。

 

罪の数だけ

モンゴルのウランバートルで市内の仏教寺院に行ったときに印象に残ったことの一つがやはり、地獄だった。たくさんの絵があるのだが、天国についてはほとんど描かれていない一方で、地獄はたくさんのバリエーションで緻密に描かれていた。確かチベット系の仏教寺院だったと思う。ぼくは何一つ知らなかったのだが連れて行ってくれた人に訊けば、チベット仏教では天国一つに対して地獄は、罪に応じた数だけたくさんある、と教えてくれた。

 

HIGHWAY TO HELL

十年前、2009年に渋谷タワーレコード地下で開催された"ロックTシャツ展"で買った、AC/DCの薄緑色のTシャツをぼくはこの旅に持ってきている。その胸にはでかでかとこう書かれている。HIGHWAY TO HELL地獄へのハイウェイ。ぼくのこの旅が自分探しの旅でないことは確かだが、それはもしかしたら地獄探しの旅なのかもしれない。

 

From Youth to Death

深夜特急』のイラン編では、テヘラン行きの乗り合いバスを指さして、あるヒッピーの青年が言ったのだ。From Youth to Deathそれを沢木耕太郎は「青春発墓場行」と訳した。ヒッピーの言ったDeathは、HEAVENではなくHELLであるはずだ。少なくともぼくにとって、そしてそのヒッピーや沢木耕太郎にとっての旅もそういうものなのだとぼくは思っている。それぞれの罪に応じた、喜びと哀しみを同時に語る音楽の絶えない、ぼくたちの大切な地獄 = 内面の世界。

そうなのだ。Gさんとアクエリオンの言う地獄とはシンプルに「自己の内面の世界」のメタファーなのだと思う。ただし、ある種の覚醒状態にあるときの内面の世界だ。このときのこの感覚でずっといられたら。だれだってそう思ったことはあると思う。アクエリオンでいえばそれは恋の覚醒であり、Gさんはわからない。わかるのはGさんもやはりそれを守りたいと思った、ということだ。

ぼくはWeChatを閉じた。Gさんのその投稿に「いいね」を押さなかったことに気がついたのは何日も後になってからだった。


(たいchillout)

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