【マレーシア/クアラ・ルンプール】シェリーとロン毛

都市生活者

ホステルのトイレに入ると注意書きがあった。
「トイレにものを流さないでください。ただしトイレットペーパーを除いて」
こういうことひとつひとつに感動した。これまでの国に、トイレットペーパーを流せるトイレはほとんど無かった。
雨が降っていた。洗濯物は、昼時も電気のつけられた薄暗い廊下に干されていた。

 昼食時に街を歩くと、なんと、社員証を首からぶら下げたサラリーマン、オフィスレディが財布とケータイを片手に、ビルとビルの連絡通路を行き来して、雑多な飲食店街をいっぱいにした。

 チャイナタウンは観光客で溢れていた。くだらないマーケットの店員の男どもはぼくを見ると「チョットマッテ」「マスター」「シャチョー」と声をかけてくる。そんなときぼくは彼らに向かって「ニーハオ」とか「アニョハセヨ」とか挨拶してやる。相手が困惑顔、あるいは「チッ外したか」という表情を見せた瞬間、ぼくは「こんにちはー!」と大きな声でいじわるに言い捨てて立ち去った。

 夜はKLセントラルの駅ビルの上層階でマクドナルドに行った。そこでコーヒーを飲みながら本を読んだ。駅ビルのマックでコーヒー。こういう、都市生活者みたいなことをやってみたかったのだ。

 無印良品に入ると、店員が「いらっしゃいムジー」と挨拶してきた。近くによって耳を澄ませても、やっぱり「いらっしゃいムジー」と言っていた。いや、まさかそんなことあってはならないと思うのだが。

 KLセントラルの駅構内には、エリック・クラプトンの弾き語りをしているおじさんがいた。このおじさんをぼくは知っていた。五年前、彼はオアシスの弾き語りをしていたからだ。

 「ブキッビンタン」というKL最大の繁華街を歩いていたとき、渋谷のような喧騒のなかで突然女性の笑い声が耳にすっと入りこんできた。目を向けると、女性が二人。次の瞬間二人は日本語で会話をはじめた。雑踏にあっても、日本人の笑い声に、ぼくの耳は鋭敏に反応したのだ。

 ドリルのようなツンツン頭の青少年たちが商業ビルの裏にたむろしていた。KLのハードコアキッズだ。手のない物売りを囲むようにして、少女たちが風船で遊んでいた。ここではホームレスも凍えない。

 朝から晩までTシャツで過ごした。歩道橋を渡っているとき、いつかの懐かしい東京の夏のようだと思ったが、どうだろう、それは気の所為かもしれない。

 深夜ゼロ時にホステルのキッチンで話し続ける若者たちがうるさく、ぼくは人差し指を口の前に当てて注意した。翌朝、額の真ん中で切り揃えられた前髪が印象的な小柄な女性、シェリーに、うるさくしていたことを謝られた。彼らはインドネシアジャカルタからきた学生たちだった。シェリーは名乗るときに、両手のひらを合わせ、それをコンクリートの床と水平にして、開いたり閉じたりした。「貝(シェル)のシェリーね」。そう言った。

 

パージ政策

四泊して別のホステルに移った。新しいホステルはチャイナタウンにあり、もっとバックパッカーバックパッカーしていた。共有スペースでロン毛のマレーシア人男性と陽気なロシア人男性が話していた。ロン毛は「プーチンは素晴らしい」と、ロシア人男性に力説していた。ロン毛はしばらくして、ぼくに「アベは好きか?」と聞いてきた。ぼくは「I don't like, but I don't dislike. 好きでもないが嫌いもしない」と答えた。これが正しい英語なのかはわからなかったが、まったくもって正直な感想だった。ぼくに政治談義を持ちかけたかったのであろう、ロン毛はそれっきり黙ってしまった。

 今日の寝床と飯、そして安全と健康。それを守り切るだけでも精一杯の毎日で、どうして他人のことを考えている余裕があろうか。ましてやアベである。いや、都市に長めの滞在しているときならそのくらいの余裕はあったが、その余裕の多くはこれまでの旅路とそこで出会った人たちや、音楽や本など、ぼくにとって重要なものについて考えることに使わなければならなかった。相当な余裕がなければ、アベについて考えたりはしないだろう。そして、相当な余裕なんてのを持ち合わせた経験は、いまのところの人生では一度もない。

 ホステルにあった柳田邦男の『この国の失敗の本質』という一昔前の本をパラパラと読んだ。日本が太平洋戦争の敗戦から再生できた一つの要因は、パージ(戦中日本の腐敗した権力者たちの追放)政策だと述べていた。なるほど、そのとおりかもしれないと思った。

 勝ったときのための準備ができていない革命軍がいる。仮に彼らがアベをパージしたとき、はたして結果を出すことはできるだろうか。ぼくは彼らとは違って、アベのことを想って眠れない夜を過ごしたりはしない。アベをパージする前に、ぼくの中にある「腐敗した権力」が、ぼくの人生の舵取りを誤らせてしまわないだろうかと心配してしまう。ぼくには、そいつらはアベよりもはるかに怖ろしい化け物で、大きな影響力を持っているように見えている。だからロン毛よ、やつらをパージするための一生分の時間を、今はぼくにくれないだろうか。

 (たいchillout@インド)

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