【マレーシア/ペナン】東洋の真珠

シーフードチャーハン

マレーシアにやってきてとにかく助かったのは食事だ。内陸国では蜃気楼の彼方に遠ざかったシーフードが、マレーシアではどこのレストランでも当たり前のように提供されていた。食事に関して、マレーシアには豊かな自然資源という地の利があったが、それに輪をかけたのが華僑たちの存在だ。マレーシアは不思議な国で、マレー系民族と同じくらいかそれ以上に中華系の民族が暮らしている。公用語はマレー語だが、華人による華人のための私立の学校が古くからあり、そこでは中国語の標準語である通称「マンダリン」の教育が絶やされずに行われていた。それではマレー人と華人のコミュニケーションができないからと、もうひとつの公用語として訛りのある英語が日常的に使われている。
そして、当然といえば当然なのだが、マレー人はマレー料理のレストランを開き、華人は中華料理店を開いた。これが美味かった。普通のちっさい中華食堂の普通のシーフードチャーハンがチャーハンとしてこれ以上無い完成を極めていた。クアラ・ルンプールも良かったが、庶民のチャーハンの味にさらなる磨きがかかっていたのが、ペナンだった。
ペナンは島だ。縦長のマレー半島の北西に位置し、本土からはフェリーもあるが、橋を渡ってバスでも行ける。かつてはイギリスが植民地とし、貿易港として栄えた。その「英国風」の面影は街ごと世界遺産に登録されているペナンの中心街、ジョージタウンに残っている。一方で、クアラ・ルンプールよりも中華文明の存在感も強く、中華料理店が充実していたのだ。

 

ビーチサンダル

ぼくはペナンでビーチサンダルを買った。韓国の海雲台ビーチでもクロックスもどきを買っていたが、そいつはウランバートルのゲストハウスでスリッパとして使っていたら、そのまま置いてきてしまっていた。幸か不幸かそれ以降は、ビーチサンダルの似合わない土地ばかりを旅してきた。
ビーチサンダルを買った理由は、それほどに十月最終週のペナンは暑かったことにある。ぼくは半袖、海パン、ビーサンのスタイルで過ごした。意外なことにビーチそのものは無かった。島の南端にはあるという噂もあったが、ジョージタウンからは遠く、この街でのリゾートライフは海水浴ではなく、堤防からの海風を浴びるのがあるべき姿なのだろうとぼくは結論づけた。

 

攻略

ビーチサンダルは、コンビニみたいに何でも売ってる個人商店で買った。表に並んでいたものから気に入った色形のやつを店主に見せて、これを履いてみてよいか訊ねた。レジ台の周りには、店主の友だちなのか、男たちが狭い空間に詰めかけて話している。よし買おう!と、レジに持っていき、財布からマレーシア・リンギット札を出して支払った。すると、男たちのひとりがぼくに言った。
「人の前で財布を出さないほうが良いよ」
「え?」
「ペナンははじめてか? マレーシアは安全な国だし、多くは良い人だ。だけど中にはきみが財布を取り出すとき、それを狙っているやつもいる」
ああ…。
「財布はカバンから出さないほうが良い。事前に、使う分だけのお金をポケットに入れて、それでホテルから出るんだ。そうすれば心配ない。ごめんなこんなお節介なことを言って。でもきみのためにそうした方が良いと思うんだ。ごめんよこんなことを言って」
男は何度もアイムソーリーと言いながら、ぼくに優しく、しかし念入りな忠告をしてくれていた。
クアラ・ルンプールでまさに財布を狙われてしまったぼくは、自分の浅はかさを度々悔やむと同時に、マレーシアという国にたいする複雑な感情を抱くことになった。
マレーシア人とはコミュニケーションがうまく取れないこともあった。その理由は、ぼくの半端な英語力と、彼らの訛りのある英語が噛み合わないことにあった。英語が公用語のマレーシアなので、彼らには自分は英語を使っているという自負がある。しかしぼくは彼らの英語をなかなか上手に聞き取れなかった。こういうとき、お互いが英語に不自由な関係にあると、むしろコミュニケーションは取りやすい。最小の単語と、ジェスチャーと、笑顔で、お互いが均等に歩み寄ろうとするのだ。そこには思いを伝える喜びがある。ぼくが中国の旅を好きなのは、皮肉にも、彼らが英語を解さない故に、まず笑顔を交わし合うことから始められるからだった、と分析できる。
英語話者の自覚があるマレーシア人とは、伝わる喜びよりも、伝わらない苛立ちがお互いに先行してしまっていた。
そういったことが重なって、自分がマレーシアという国を「攻略」できていない思いがぼくにはあった。無論、すべての攻略は本当の攻略ではなく、自己満足、あるいは自分の中でその国をどんな形で愛するかというイメージを固めるだけの行為にすぎなかったが、それがまだできていなかった。
ビーチサンダルを買ったときに忠告してくれたアイムソーリー男の優しさに触れたとき、ぼくとマレーシアの関係がついに、一歩前に進んだような気がした。

 

アンパンマン

これはマレーシアのせいではないのだが、ペナンの最初のホステルはハズレだった。西洋人ばかりなのは良いが、ホステル側に、西洋系バックパッカーへの「媚び」があった。まるで、西洋的であればバックパッカー宿の経営は間違いないと思い込んでいるかのようだった。夜はクラブのように音楽が鳴り続け、ホステル主催のパブクロール(みんなで飲みにいく)ツアーが毎日あり、ヨガ教室があり、こっちはチェックインするだけなのにスタッフはハリウッド映画のようなノリだった。平たく言えば、いわゆるパリピ系(パーティーピーポー/Party Peopleの略)なのだ。彼らにとっての生の喜びは、テンションを高くし、出会ったばかりの仲間と騒ぎ、エアコンを強く効かせたまま夜遅く寝て、朝遅く起きることにある。音楽とビールを好むのはぼくも彼らも同類だったが、逆に言うとぼくは音楽とビールだけが友だちで、それについて回る他のことは求めていなかった。アンパンマンだ。愛と勇気以外には、ただひとりの友だちもいなかったと言われているアンパンマンもぼくと同じで、連帯感とか一体感とか、苦手だったのだと思う。でもごめん、アンパンマン。音楽とビールだけが友だちだと言ったのはやっぱり嘘だ。ぼくには旅で出会った忘れられない友だちが少しいる。日本にも少しいる。だけどね、やっぱりもう一度訂正しよう、アンパンマン。彼らの面影は、ぼくがひとりで手に取るビールグラスや、ひとりで聴く音楽の中にこそ蘇るんだ。だからやっぱりぼくは、音楽とビールだけが友だちなのかもしれない。

 

東洋の真珠

ペナンはその美しさから「東洋の真珠」という異名を持つ。ちなみに「東洋の真珠」はデヴィ夫人の異名としても使われたらしいが、この際デヴィ夫人のことは忘れよう。
東洋の真珠としてのペナンをもっとも感じたのは、E&Oホテルだ。Eastern & Oriental Hotelイースタンアンドオリエンタルホテル。ジョージタウンの北、海沿いに建つ歴史あるホテルだ。かつてはヘルマン・ヘッセチャップリンも訪れたというここに、ぼくは毎日歩いて通った。お目当ては静かな裏庭を歩くことだった。折り重なる飛行機雲があり、控えめにヤシの木が並び、碧い風が吹いていた。ホテルの外壁は白く輝いていた。
(たいchillout@インド)

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