【モンゴル/ウランバートル】広州GIRLS

2018年夏。平成がどうとかはもってのほかで、ぼくは二十代最後の夏であることすら忘れていた。

 

トム

午前中、北京発ウランバートル行きの鉄道で出会ったモンゴル人女性、ドックの勤める会社で日本語ネイティヴ講師としてゲスト登壇をした。オフィスビルの屋上レストランでランチをご馳走になり、ドックの車でゲストハウスまで送ってもらった。自主的にドミトリーのお掃除をしていると、カリフォルニア人のトムに声をかけられ、一緒にナラントール・ザハに行こうと言われた。ナラントール・ザハ。通称ブラックマーケット。かつての闇市だ。ウランバートルでも有数の治安の悪さで有名だった。急遽カリフォルニアに帰ることになったトムは家族へのお土産をここで揃えるつもりらしかった。乗り込んだタクシーの運転手が助手席のトムと話す。
「Where are you from?」
トムは、カリフォルニアだと答えると (アメリカ人は国ではなくいきなり州で答える傾向にある) 、後部座席のぼくに目をやり「コイツはジャパン」、ぼくの隣のヌーンを指差し「そっちはイスラエル」、最後に運転手を小突き、「そしてあんたはUB (ウランバートル) だな!Haha!」とただそれだけのことを愉快に言う。
ドライバーはトムに職業を訊く。そんなのあるわけがない。この男は二年も旅をしているのだ。しかしトムは打って変わって静かな口調で応じた。
「poet」
詩人、トム。ウランバートル市民よりも華麗に、素早く、堂々と、強引に、荒い運転の車たちをかき分け車道を渡る男。流れ去りゆくモンゴルの雄大な雲よりも早く歩く男。ぼくとシャオロンをこのゲストハウスで最初に迎えた男。ついにその彼がカリフォルニアに帰ろうとしている。そんなトムと入れ替わるようにしてぼくはこの街に定着しはじめていた。この時点でやっと一週間が経過しようとしていたぼくのUBでの日常は、ここまででも既にこの旅で一番の活況の様相を呈してたのに、ここにきてまだこれから加速度的にアレコレがアレコレしてゆく、ほんの最初の地点にあった。その日の夜だった。スズと会ったのは。ウランバートル物語、シークレット・チャプター。広州ガールズ編。

 

スズ

トムは公園で酒を飲むと言い、ヌーンもそれについて行った。ぼくは断った。UBに来てかれこれ一週間、一度も途切れることがなく誰かしらと夕食を同席していた。そろそろひとりで店に入ってみたかった。エレベーターのない四階のゲストハウスまで駆け上がる。ドアを開ければそこはテレビとテーブルとソファの置かれたリビングだ。一人がけのソファがひとつ、三人がけのソファがひとつ。壁にはツアー案内の写真。草原の中のゲル。ゴビ砂漠を歩くラクダ。チンギス・ハン。三人がけのソファーの方に、膝を揃えて浅く腰掛け、姿勢良くツアーパンフレットを読んでいたのがスズだった。「ハローどこからきたんだい? 」その頃のぼくはほとんどゲストハウスの全員に話しかけ、全員とコミュニケーションをとっていた。新入りがいればすぐにそれと気づき、そして自分から声をかけた。自信もあれば好奇心もあった。
スズは座ったまま、ぼくは立ったまま、形式的なコミュニケーションをとった。出身。名前。学生? どのくらいここにいるの? どんな旅を? 英語がとても上手い、中国人学生だった。出身は広州。友だちと来ているようで、スズは友だちがシャワーを浴び終わるのを順番待ちしていた。ぼくはアドバイスをした。「そこよりも、あっちのシャワーの方がお湯でるよ」と。するとタイミング良く友だちがシャワールームから出てきた。頭をバスタオルでゴシゴシしつつ、スズと中国語で話し、そこにいるぼくをちらっと見たか、見なかったかは分からなかった。ぼくもその顔まで見えなかった。
それから彼女たちは比較的長く滞在した。5泊くらいだと思う。途中カントリーサイドへのツアーで1、2泊くらい空けていたかもしれない。ドミトリー部屋がぼくと違ったので、会話の機会は無かった。彼女たちは真面目に観光していたので、ぼくとは生活サイクルも違っていた。その間スズとは、ゲストハウス内でときたま顔を合わせると「ハーイ♫」と手を振り合う、ただそれだけの関係が続いていた。スズはいつでも愛想が良く、「ハーイ♫」の「♫」の部分を欠かさないでできる人だった。ほんのついでに付け加えれば、文句のつけようのない美人であった。

 

キッカケ

友人の方とは交流がなかった。二人はいつも一緒にいたが、背の高いスズの後ろからちらっとぼくを見たのか、見ていないのか、わからない。ぼくに「ハロー」と言ったのかもしれないし、言っていないのかもしれない。ぼくはぼくで「ハロー」と言ったのか言っていないのかわからないくらいの小声で「ハロー」と言ってしまう。面と向かって自己紹介するタイミングを逃してしまったからか、あるいは社交上手で大人びたスズと比べると、シャイな風にも見えたし、もしかしたら、ぼくは嫌われているのかもしれない、とも考えた。ろくにお互いを知りもしないで「♫」(こんなこと) をやっているのはある意味ではとても安易で軽薄だからだ。
とはいえ、スズと話したのも最初の日だけだった。雰囲気の柔らかい二人とはきっかけさえあれば親しくなれるだろうと思った。しかし、何事もなく数日が過ぎたことで、今回はそうはならないで終わるのだろうと次第に捉えるようになっていった。こういうことは良くあった。きっかけさえあれば。しかしきっかけはない。それでいいのだ。「あ、まだいるんだ」と二人を見かけるたびに思った。「いつの間にか二人はいなくなっていた」ってなにも変じゃないからそう思ったのだ。ゲストハウス内での距離感とは概ねそういうもので、ぼくらの関係も「概ね」の範疇にあった。

 

セン

そのときはわからなかったが、その朝は彼女たちの最後の朝だった。はじめて、友人の方と朝食の時間が一緒になった。まだ寝ているのか、スズはいなかったし、他のゲストもいなかった。静かな朝にぽつんと二人だけだった。ぼくは自分のお皿に視線を固定して黙々と朝食を食べ始めた。安易で軽薄にならないようにと考えた結果、お皿を睨んで黙り込むことになってしまった。
「Are you Japanese?」
シンプルな問いだ。ぼくははじめて顔を上げた。こちらからいかない限り、会話になることはないと思っていた。ぼくが日本人だとスズから聞いたのだろうか。とても小柄で華奢である。その大きな目を見てイエス、とぼくが言うと、おずおずと、といった様子で、英語で次のように切り出してきた。
「わたし、大学の第二外国語で、日本語を専攻している」
……。センは、話す意思があるようだった。嫌われていない。それがわかって安心した。
センの話しぶりはしっかりしていた。英語も上手い。聞けばセンとスズは大学の学部の同期であり、二人とも広く「English」が専攻だった。スズはまさに英語そのものに力点を置いている一方で、センは文学、文化、そして日本語と手広くやっている。古今東西の文学、映画、音楽に詳しかった。日本びいきという点では、全作品制覇するほどのジブリ好きでiPhoneの壁紙とSNSのアイコンは「カオナシ」。千尋でもハクでもなく、単体でカオナシ。日本の小説にも造詣が深い。村上春樹東野圭吾伊坂幸太郎宮部みゆき湊かなえ、など中国語に翻訳されている現代文学を幅広く読んでおり、太宰治芥川龍之介などの純文学にまで手を出している。かといって日本オタクだというわけでもなく、守備範囲はUKロックからインド映画まで及び、日本に来たことはないがアジア各地への旅の経験があった。若干にして大学二年生。
朝食を終え、紅茶をお代わりして話し続けた。今日が旅の最終日らしい。夕方の便で北京に飛び、一泊してから広州へ帰るという。すでに予算は使い切っており、スズとそれぞれ4,000トゥグルグ (200円以下) ずつしか財布に残っていないために、今日は一日ゲストハウスで過ごすということだった。そうしているうちにスズが起きてきた。
「あら? あんたたち話してんじゃないの」
そんなアンニュイな一瞥をくれて、特になにも言わず、スズは一人分の間隔を空けてぼくと同じソファに座った (センは一人がけのソファに座りぼくと向き合っていた) 。それから夕方まで、ぼくたちはそこで一日を過ごしたのだった。

 

ナツ

ぼくたちはずっと膝を突き合わせて話し続けたわけではない。彼女たちは荷造りでときどき部屋にひっこんだし、ぼくはぼくでダラダラとブログを書いていた。ただ、その日だけはなぜか他のゲストをほとんど見かけることがなく、まるで三人で貸し切ったかのようなゆったりとした時間が流れていた。開け放った窓から向こうの部屋の窓へと夏の風が通り抜けた。夏の風に混じって、あるとき、いつものあのメロディが流れてきた。あのメロディ。毎日午前中に街のどこからか聴こえてくる懐かしいメロディだ。音数の少ないインストゥルメンタルだったが、鐘の音色のようでもあり、簡素な編曲故に主旋律が際立っていた。知らない曲だった。しかしとても気に入っていた。開始五秒を待たずして遥かな郷愁へとぼくをいざなうそのメロディは、ぼくの毎朝の密かな楽しみであり、どこか現実感のなかったウランバートル生活をますます夢幻的な感覚で包んでいた日常のBGMだった。ぼくは二人に「この曲知ってる?」と訊いた。二人は言われてはじめて音楽を認識したようだった。「外からだよ」と言うと、二人はもっとよく聴くために奥の部屋の窓際まで行った。曲が鳴り止み、戻ってきたスズは「待って、知っているかも。中国の歌でこんなメロディがあった」と言った。思い出そうと何度もそれを口ずさんでいた。
結局スズは曲名を思い出さなかったが、ぼくは別の曲を二人に聴かせることにした。自分のMacを開いて『Logic Pro X』(音楽制作アプリケーション) を起動する。『北京地下鉄』というプロジェクトを読み込んだ。二人は耳を澄ませる。
ここでぼくが聴かせたのは、北京のいくつかの地下鉄の地上出入口近辺で流れていた音楽だった。これもまた美しく哀愁のあるメロディで、北京にいた頃は耳にする度に思わず立ち止まってしまったものだった。調べても曲名がわからなかったので、耳コピしたものを『Logic』に打ち込んでいた。
中国人なら分かるかもと思ったが、この曲も二人は知らなかった。音楽の雰囲気から連想したのか、センが『菊次郎の夏』は観たかとぼくに訊く。見ていなかったが、ある二点においてそれは有名な映画だった。ひとつは監督が北野武であること。もうひとつは久石譲によるインストゥルメンタル『summer』だ。
センは「この曲が好き」と言って、iPhone で音楽を再生した。やはり『summer』だった。聴きすぎて当初の新鮮さを失ってしまったくらい、ぼくもこの曲が好きだった。ぼくが夏という季節を好きなのは、そして夏の旅が好きなのは、この曲によるところがとても大きかった。この曲には夏を夢想させる力と、旅を夢想させる力があった。この曲を聴くだけでぼくは、自宅のパソコンの前に座っていたとしても、ここではないどこかを旅することができた。どの季節にいたとしてもむっとする夏の匂いを吸い込むことができた。空想するのは簡単だ。思い描かれるのは現実にはあり得ない美化された夏とフィクションとしての夏の旅。しかし、センが「この曲が好き」と言って『summer』が流れていたあの時あの場所には、フィクションにしか存在しないはずの夏があった。

 

ユキサキ

この日の時点でぼくは、新疆ウイグル自治区 (ホブド経由) 、ロシア (シベリア鉄道) 、西安 (飛行機) 、ベトナム (飛行機) を次の行き先候補にしていた。新疆ウイグル自治区を選べばその次はカザフスタンが近いかなあと思っていたが、二人に訊くところによると、想像以上に中国国内の鉄道網は発達しており、ウルムチからなら中国国内どこへでも行けそうだった。
東南アジア旅のスタート地点としてベトナムという国を強く意識していたぼくにとって、国境を接する中国の広西チワン族自治区からハノイ寝台列車が出ているというセンの情報はヒントになった (センはそれに乗った経験があった) 。そうか、中国からベトナムに入れるのかと。なにかが繋がっていくような気がした。広大な国土を持つ中国は、陸路の旅にとって大きな障壁でもあったが、アプローチの仕方によっては面白い使い方ができるかもしれない。二人からぼくは、中国国内外の旅情報をいろいろと教えてもらうことができた。
お昼、予算4,000トゥグルグの二人に3,500トゥグルグケバブ屋さんを紹介した (ぼくはトムに教えてもらっていた) 。三人でテイクアウトしてゲストハウスに戻った。施錠されていたので (スタッフも留守) ぼくがポケットから鍵を取り出すと、二人は「どうして鍵なんて持っているの!?」と驚いた。理由はない。人数分の鍵がないので、鍵を預かれるゲストと預かれないゲストがいるだけだった。二人は、鍵を貸し出していることも知らされていなかったのだろう。そんな込み入った話はせずにぼくは癖のあるドアノブを回すときの手加減に注意を払いながら、 Because I'm manager と言った。
この日は、バカ笑いすることもなければ、シリアスに話し込むこともない、丁寧で素朴なコミュニケーションがとれた一日だった。ケバブを食べ終えたぼくが歯を磨いていると「あなたは毎食後に歯磨きするの?」とそれがまるでユニークな文化であるかのようにセンは笑った。持参の水筒にお湯を足しているセンにぼくが「中国人はみんな水筒にお湯を入れて持ってるよね」と言うと二人に笑われた。彼女たちにとっては妙な着眼点だったのだろう。スズは中国からはアクセスできない InstagramFacebook のアカウントを持っていた。「あなたたちはどのくらいVPN (アクセスブロックを回避する技術) を使うの?」と訊くと、二人はぱちくりと目を見合わせた。センはひかえめに「ときどき…」と、そしてそれを受けたスズはすぅっと黙りこんでから、いたずらっぽく、「エブリデイ」と笑った。二人とも実に英語力が高く、特にスズは頭がキレた。センと話しているぼくが理解に躓くとすぐに、iPadから顔を上げたスズがより明快で簡潔な英語にパラフレーズ (言い換え) した。
中国人と話すのは好きだ。お互いの国にある共通点と相違点を突き止めていくのはお互いにとって興味深く、刺激的で、そして話題の尽きることがない。ぼくたちは仲間だ。それと同時にぼくたちは他者だ。相手と同じことを共に喜べ、相手と違うことを共に面白がれる。人付き合いの理想的な形を、ぼくは他でもない中国人たちと滑らかに紡ぐことができる。
それに、中国人女性はきれいだ。ぼくたちと同じ顔をしているのに、ちがう目をしている。その目に同じ景色が映っていても、それはちがう色鉛筆セットで描かれている。日本列島では採掘できない、名前のない色が混じっている。
二人を見送るときぼくはソファに座ったままだった。「中国に来たら連絡してね」。別れ際にそう言ってくれたのは、この朝はじめて言葉を交わしたセンだった。
次の行き先すら決まっていない。そんなぼくにとって広州は遠い場所だった。いま考えることじゃない。そこにいくかどうかはまだずっと先に決めれば良いことだった。ただ、今日の今日まで意識したことのなかったひとつの街がこの夜から特別な輝きを放ちはじめた。要するに、これはそういう話だった。

(たいchillout@イスラエル)

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