【日本/東京/文京区】旅にでるまで (1)奇跡のバランス

旅がなかった人生なんて

前前前世』という曲がある。前世の前世は前前世、前前世の前世は前前前世という理屈なのだと思う。ぼくは、ひとこと「前世」だけで、前世のみなさん全般を指すものだと思っていたが、それは安易な先入観によってもたらされた固定概念であると野田洋次郎 (RADWIMPS) は教えてくれた。本当はひいひいひいばあさんみたいにして、つなげればつなげるほどさかのぼるんだよ、と。
じゃあ、「前史」という言葉はどうだろう。歴史の前。前史。前史の一個前は前前史、前前史の一個前は前前前史だろうか。きっとそうなのだろう。あたりめーじゃん。野田洋次郎に聞けばそう返ってくるはず。

前史 = 前日談 = ビフォー・ストーリー
後史 = 後日談 = アフター・ストーリー

歴史に前史や後史が存在するとしたらそれはどこかに明瞭な区切りがある場合だ。戦前、戦中、戦後のように。
人の人生は戦争ではないが (ない?) 、ときとして人の人生にも明瞭な区切りが生まれる。物理的に、心理的に、その人の人生の流れを大きく決定づけ、つかさどる区切り。それは大きな出来事でなければならないが、ぼくにはそれがある。この旅だ。
このブログや Twitter は、まるでぼくが旅人として生まれついてこの半生ずっと旅人をやってきたかのように旅人として (なによりも旅が好き・海外が好き) の目線で書き綴っているが、ぼくが旅人になったのはほんの十一ヶ月前だ (ほんの?) 。それまでのぼくは、こんな長旅は言わずもがな、まとまった休みの目処がつくと「さて次はどこの国に行こうか」と考える程度の旅行者ですらなかった。語学や鉄道、特定の文化 (旧共産圏とか中国古代史とか) へのアカデミックな関心が強いわけでもなかったし、年齢を重ねるにつれて自然回帰願望とダイエットを兼ねたハイキングやトレッキングが人生の柱になっていくような趣味人でもなかったし、ビーチリゾートでセレブなバカンスをすることが娯楽の頂点だと考えるタイプでもなかった。世を捨て旅に出なければならないほどショッキングな出来事があったわけでもなかったし、出来事無くしてそうした切迫した精神状態になれるほど高尚な人間ではなかった。この旅でもそういった人々とは多く出会ってきたが、ぼくは違った。自慢じゃないが、年末年始やゴールデンウィークや夏休みの予定を尋ねられると、ぼくは自慢げに「いつもの土日と同じです」と答えた。「は (こいつなめてんの)? 家からでないの (そんなんで人生楽しいの) ?」という反応をされた場合は、苦し紛れに「ええと、スタバに行きます」と付け加えた。休みだから何をしたい、どこかに行きたい、などという発想はなかった。クリスマスだろうが誕生日だろうがどれだけ連休が長かろうが、スタバ以外に行ってみたいところが思いつかなかった。そのかわりに、全くなんてことのない雨の土曜日なんかでも、ぼくは早起きして長靴を履いてせっせとスタバに行ったし、それで人生は楽しかった (余計なお世話だぜ) 。

ここで言わせていただきたいことは、要するにこの旅にでる以前、ぼくは一ミリも旅人ではなかったということだ。海外の経験はあるにはあった。一人旅が二回、友人たちと二回、出張が三回、社員旅行が一回。しかしその中で本当に自主的に海外に行こうとしたのは最初の二回の一人旅だけ (共に二十四歳のときだ) であり、それ以後はぼくから望んだのではなく、向こうからきっかけが訪れただけだった。
そんな時代の話を書いてみよう。これは前史だ。旅にでるまでのビフォー・ストーリー。ときが来るのを待っていた時代。ときはやがて来る。旅するときがやがて来ることはわかっていた。それまでぼくは会社員だった。土日祝日、ゴールデンウィーク、年末年始、夏休み、季節行事のすべてを中央線のカフェで過ごすような幸福な日々。ぼくは敢えてどこにも行かず、敢えて自分の可能性を狭い空間に限定する生活を送っていた。会社と家 (とスタバ) を往復するだけの毎日を積極的に選んでいた。二十四歳のときに一度開いた異国への扉。その向こうに垣間見た鮮やかな冒険の世界に、やがて自分が踏み出していくことはわかっていたが、ぼくは少し覗いただけでその扉を閉めた。その果てにいまがある。扉は大々的に開かれたのだ。ぼくはローマでこれを書いている。
旅をしているぼくは旅を通して物事を考えている。その一部をブログや Twitter に書いている。それならば旅をする以前のぼくは、なにを通して、なにを考えていたのだろう? いまでは旅がなかった人生なんて考えられない。旅で得たものをぼくから取り上げたらぼくは空っぽになってしまう気がする。しかし実際に旅は無く、ぼくのすべては旅ではない要素で構成されていた。

 

文京区

文京区の会社に通っていた。文京区は素敵なところです。昔から文京区には良い印象を持っていた。山手線の内側に位置するが一戸建て住宅が多く、気取ってない生活感があった。入り組んだ坂道を歩けばきっとどこからかピアノの音が聞こえてくるだろうし、東京大学を筆頭に多くの教育機関が拠点を構える学問の街でもあった。
会社もとても良い会社だった。働き方には大きな裁量があり、社員の意見を汲み上げる仕組みが機能していた。やりたいことをやることができたし、やりたくないことを遠ざけてしまうことも、そうしようと思えばできてしまった。もっとも、企業規模は小さかった。社員は少なく、ひとりがひとりで自己完結できるサイズのプロジェクトを抱えていた。ほぼ最年少だったぼくにも同じだけの裁量が与えられた。役職はなく、上下関係はなかった。感動したことがひとつある。それは全員がお互いを「さん付け」で、そして敬語で会話していることだった。それは社員たち自身による、上下関係のないことの証明だった (「くん付け」やタメ口は親しさへの近道でもあるが、誰もそうしないことにぼくは「フェア精神」を感じた) 。全社員が中途採用で、大人だった。給与も公開されていた。競争はなかった。年齢を問わず全員が異なるスキルを持ち、それを尊重し合っていた。不思議な会社だった。
たとえ建前半分であろうと、会社は社員のプライベートを充実させると謳っていたし、実際にそれができる環境にあった。フレックスタイム制が導入され、有給取得は当然のごとく自由だった。三十代半ばの社員が多く、独身と既婚の割合は半々くらいだったが、かつてハードワーカーだった人も、この会社でモーレツに働くようなことはなかった。だけどやることはやる、そんな感じだった。
ぼくもそのつもりで取り組んだ。肉体的、精神的に追い込むことはせず、同棲をはじめていたことも相まって、生活はそれまでの人生で最も安定したものになった。だけどやることはやる。ぼくを管理する人はいなかったが、公言した納期はなるべく守ろうとしたし、ときどきの「社長案件」では、スピードには気を使った。そういうときは連日遅くまで残り、ビルの鍵閉め係が続くこともあった。それをやだなと思ったことはなかった。すべては自己判断だったからだ。早く帰った日も遅く帰った日もぼくは冷蔵庫からその日の気分にあったクラフトビールを取り出し、ギターを膝に乗せてその日の気分にあったコードを鳴らした。やりたいことをやる日々だった。
自分ができることだけでなく、できないことも少しずつやった。具体的には、それまで未経験だったプログラミング言語に挑戦した。新しいフレームワーク、新しい開発手法に挑戦した。それを止める人はいなかった。皆が皆、それぞれの裁量の範囲で、小さな挑戦をしていた。ぼくもそうやって少しずつ取り組んだ。好きな本を買うことができたし、勉強させてもらうことができた。「社長案件」は風変わりなものが多かったが、それらもなにかと新しい経験であり、学びになった。調べ物、プレゼン、イベント、付き人、新規事業、風変わりなバイトのお守り。ぼくは若くて、いつだって気難しくない顔をしていたから、声をかけやすいはずだった。
「社長案件」の最たるものが「海外進出プロジェクト」だった。英文科出身という理由だけで白羽の矢が立った。言うほど英語ができるわけではなかったが、ぼく以外の社員でぼくよりできる人もいなかった。「海外進出プロジェクト」は面白かった。社外の人とも多くの関わりを持ち、外国人社員の採用も行い、彼と一緒に働いた。そしてアメリカに行った。社会人としてだけでなく人として、なかなか得難い経験をそこで得ることができた。

 

奇跡のバランス

「社会人としてだけでなく人として」と言えば、この会社では業務外で学んだことが多かった。たとえば、お昼ご飯を社内で自炊しそれをみんなで食べるという奇妙な風習があった。ほかにも福利厚生で強制的にジムのパーソナルトレーニングに行かされたり、相撲や女子プロレスを見に行ったり、競馬をしたり、瞑想の講師を呼んだり、といったおかしな「業務外」の仕事 (?) が頻繁にあった。外に出かけるイベントはすべて飲み会がセットになり、会社がそのお代を支払った。社内の立派なキッチンで、腕利きの社員が料理を振る舞い、お酒を買い込んで夕方から飲み始めることもあった。そんなとき一番最初に飲みはじめた社長はまだ席で仕事に打ち込んでいる社員たちに「お前なにしてるんだ早く飲みにこい」と声をかけて廻った。そんなアクの強い社風を知らずに入社したぼくは面食らった。社員旅行もあった (梅雨明け直後のハイビスカス色の沖縄。夜のプールサイドでデッキチェアに寝転び見上げた星空…) 。

かつてのぼくならこれらのすべてを苦手としたと思う。ぼくはひとりが好きだったし、会社ではやるべきことをやってお金を稼げればいい。仕事の人と付き合うよりも、その分プライベートでやりたいことがある……。そんな、いかにもありふれた、いかにも子どもっぽい、自分の考えとすら呼べない自分の考えがぼくにもあった。しかしこの会社で、新しい日々の中でぼくは自分が未熟だったと思い知らされていった。それに気づかされていく一連の体験はとても爽快なものだった。

ぼくも十分に内向的だが、それに輪をかけてシャイな人が多かった。バリバリのキャリアはそもそも応募してこなかったし、採用段階においても、穏やかな人が積極的に選ばれた。社員間に上下関係はなかったが、社長のトップダウンだったので、社長自身をおびやかす可能性のある「戦闘力の高い」人材は好まれなかった。それは社長だけでなくぼくたち社員たちにとっても良いことだった。そんな小心な社長と小心なぼくたちは飲み会や自炊、イベントなどによる細かい交流を丁寧に重ね続け、全員の間に緩やかに親しい空気感が育まれていた。共通の話題が多かった (たとえば福利厚生のジム通いから皆が筋肉の話をした) 。そこから仕事上でのコミュニケーションのしやすさが生まれた。ほとんど放し飼い状態の高い裁量のなかで、社員は「実力を発揮しよう」とした。個人的な関心や向上心を、それぞれの力量の範囲内で、業務に創造的に結びつけていこうとしていた。会社の売上は急速に伸びていた。会社は社員の交流のためにより多くの (そして過剰な) 資本を投下した。好循環だった。そうした環境に甘えてうまいことタダ乗りしてやろうと考えることもできたし、実際に悪意を持ってそうした人もいたかもしれない (人から見たらぼくがそう見えた可能性だってあっただろう) 。だが心からの悪意を持ってそうする人は少なかった。厳密に言うなら多かれ少なかれ甘えているところは全員にあったが、ほどほどの頃合いになればやがて黙り込んで仕事がはじまった。骨を埋める覚悟だったり、献身的な愛社精神を持った社員はひとりもいなかった一方で、会社のためになにかやってやる気がサラサラないまま働き続けているような社員もいなかった。皆が会社のことをちょっと好きだった。だれもそんなこと口にしなかったけど。

「社会人としてだけでなく人として得難い経験」は、相撲観戦などといったひとつひとつのレアな人生経験のことではなく、そんな環境に溶け込んでいく自分と、同じようにして溶け込んでなにかが変わっていく後輩社員たちを見続けることで、組織やコミュニティというものの在り方、働くこと、人の心について、自分自身についてなどの多くのことを、意識的にも無意識的にも学んでいく日々そのものの中にあった。

無論、会社には「闇」と噂される領域もあったが (たとえばある日突然社員がいなくなるとか……) 、闇はどの会社にもある。闇と光は表裏一体。この会社は、深い深い闇をさらに深く堀り続けながらも、それ以上に光り輝いてはぼくたち社員の心までも暖め、奇跡のように業績を伸ばした。

自炊やお楽しみイベント、飲み会制度なんかで ──業務時間外ではなく業務時間内に── 過剰で一見無意味な社員交流をする社風は、社長自身の趣味によるところが大きかったが、それが業務レベルでの成果に繋がるという考え方の裏付けはいくつかの本の中にあったようだ。ノウハウ好きな社長は組織運営や教育に関するビジネス書を片っ端から読んでは片っ端から採用した。下らない本もあればマトモな本もあった。その雑なトップダウンが良かったのだと思う。「やれやれまた社長がなにか言いだした」と社員はぼやきながら、そのよく分からないアイデアに従った。ドラスティックな会社を社長は作ろうとしていたが、社長が意図した以上に、限りなく偶発的に<そして繊細なバランスの上に>本当にドラスティックで幸福な企業が、ある時期まではそこに存在していたのだと、ぼくは今思うし、当時だって思っていた。確かにこれは社長が考えて作り出したものだが、社長の実力をもこえて多くの奇跡がそのバランスを維持し、維持どころか発展させていた。

「この会社は本当に絶妙なバランスの上に成功していますよね。どこかを一突きするとすべてがダメになってしまうような気もするし……」

入社してまだ二週間くらいの頃、ぼくの一ヶ月前に入社した先輩社員と二人で東京ビッグサイトで開かれた技術系のイベントに行った帰りの地下鉄で、そう言った自分の言葉をぼくはずっと覚えていた。それから約二年が経過して、ぼくはずいぶんと古株の社員になっていた。会社の制度も目まぐるしく変わり、そのときどきで、社長がもっとも関心のあるテーマも変わり続けた。大きな新規事業の立ち上げに難航していた。ぼくは変わらずこの会社が好きだったが、いくつかの理由により、次の人生を考えはじめていた。要するにこの会社を離れるときのことだ。ひかrewrite が入社したのはこの頃だ。2017年の夏がはじまろうとしていた。

(たいchillout@イタリア)

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