【ベトナム/ハノイ】夜明け

ベトナムハノイまでやってきた。ついに、という感じがある。「ベトナム入り」は個人的に大きな区切りだと位置付けているので、ここでこれまでの旅を軽く総括して、どんな心境でベトナムまで至ったのかを書いてみる。

 

総括

ハノイに到着したのは2018年の12月18日早朝。中国の広西チワン族自治区南寧 (南宁) 市から寝台列車に乗ってきた。この時点で旅立ちから丁度五ヶ月半。
訪問国は十一カ国。順番に韓国、中国 (青島、北京) 、モンゴル、中国 (新疆ウイグル自治区) 、カザフスタンキルギスウズベキスタン、マレーシア、タイ、マレーシア、シンガポール、香港、中国 (広東省広西チワン族自治区) 、ベトナム。国境を越えた回数は十四回。飛行機が三回、バスが四回、鉄道が五回、徒歩が一回、フェリーが一回。

夏のはじめから夏のピークにかけて韓国から北京などを経由してモンゴルまで斜めに北上していった。この頃はすべてが真新しくハッピーだった季節。秋になるにつれて今度は斜めに南下し、ひたすら陸路で辛抱強い中央アジアの旅がはじまった。この頃は夏のモンゴルをよく懐かしんでいたが、思い出に負けないように努める姿勢もあった。

秋が深まる前に寒さから逃げるようにしてウズベキスタンからマレーシアに飛んだ。目論見通りマレー半島は常夏だったが、能動性を持って「旅」と取っ組み合ってきたこれまでに比べると、大幅に力を抜くことを自分に許したのがこのマレー半島だった。マレー半島の国々は、中央アジアやモンゴルよりも経済レベルは高く、中国よりも諸々の自由度の高い民主国家だったために、久しぶりに豊かな生活インフラの恩恵を受けた。バックパッカーズ・ドラマがない分、太陽と海にくつろぎ、駅ビルで涼んではカフェでパソコンを開いた。

初冬。真夏のシンガポールから春爛漫の香港に飛び、三度目の中華圏の旅がはじまった。ここはまた新章だった。なぜなら香港と広州それぞれで、ぼくは旅で ──別の土地で── 出会った人々との再会を果たしたのだ。また南寧も、同じようにして旅で出会って印象的だった人の故郷であり、ある種の「巡礼の旅」でもあった。それらの意味において、この三度目の中華圏の旅はそれ自体が大きなミッションとしての色彩を帯びている特殊な道程だった。

そのようにしてぼくはベトナムに抜けてきた。
ミッションは、つい昨日のことのように瞼の裏で生き続けていた思い出たちに一応のピリオドを打つ役割を果たし、今後の旅の大きな推進力となる予感があった。簡単に言うと、ぼくはいつになくすっきりしていた。
ベトナムは当初、旅のスタート地点の最有力候補でもあった。陸路で東から西へ行くというシンプルな行程を考えるとき、もっとも相応しいのはベトナムから始めることだった。実際には韓国からスタートして、やがてモンゴル、新疆、カザフスタン、とだんだんとベトナムから離れていっても、いつかベトナムの地に降り立つのだという意識は抜けなかった。いつかベトナムの地に降り立ち、そして「あり得たかも知れないもうひとつの旅が始まるのだ」と。
マレー半島終盤戦での突然のA型肝炎や香港での重い風邪。広東から広西にかけての不意の大寒波。それらは (特に体調不良は) 、ほとんどが一期一会になってしまう旅の友人と再会できるという幸福なミッションを授けられたぼくへの、旅の神様からの試練なのだと受け止めていた。ミッションを終え、試練たちは跡形もなく去っていった。体調は完全な状態になり、過去は最良の形で清算され、気温は上昇した。長く曲がりくねった気ままで幸福な寄り道時代が終わった。ここから先は西に向かうだけというシンプルな構図まで持ってきた。そのようにしてぼくはベトナムに抜けてきた。

 

夜明け

ハノイ行きの寝台列車「T8701」を混雑した南寧駅構内で待っていた。改札は閉まっている。中国の鉄道駅では、好きな時間にホームに出ることができないのだ。なんとか椅子を見つけてぼくはバックパックを背負ったまま浅くそこに腰掛けていた (分厚いバックパックを背負ったまま椅子に座るとほとんどバックパックだけが椅子に座っている状態になる) 。椅子は余っていない。ひとりの男性が、ぼくから少し離れた椅子に座っていた女性に英語で訊ねた。「T8701の改札はもう開いているの?」と。しかし女性は英語を解さず、困った女性と訊ねた男性はそれぞれ周囲を見渡すが、今の会話を聞いていた人の中で男性の英語を理解したのはぼくだけのようだった。ぼくは声を上げて「まだ閉まっているよ。ぼくもその電車を待っているんだ」と言った。男性の名はクイン。ホーチミンシティ在住のベトナム人だった。背が低く少し小太りで早口で英語を話し眼鏡をかけていた。ぼくらは直列つなぎの乾電池のように縦に並んで改札を抜けた。

寝台列車では中国人の学生三人組と同じコンパートメントだった。男性二人に女性ひとり。三人は友だち同士でありつつも、男性のひとりと女性はカップルのようであった。三人共英語力は中一の一学期レベルだった。三人はお金を賭けてトランプで遊んでいて、ぼくはお菓子を分けてもらって、寝転んでケータイをいじっていた。トランプの賭け金はなんと WeChatPay (電子マネー) で支払われていた。
車内にWiFiはなかったが、ぼくはSIMカードを買っていたのでインターネットに接続していた。このインターネットも、国境を越えたら使えなくなる。その前にぼくは、広州で世話になりこの列車の予約までしてくれたセンにメッセージを送った。要約すれば「ちゃんと電車乗れたよ。いろいろありがとう。いつか日本に遊びに来てね」といった内容で。
ときどきクインがぼくのコンパートメントにやってきては早口で英語を話した。クインは五秒に一回「You know?」と言った。ちなみに「You know?」は「ええと」とか「うーんと」とか「えー」とか「あー」に近い役割を持つ、特に意味はない言葉だ。
国境手続きは深夜の一時前から二時過ぎに行われた。ひどい時間だ。まったく寝れたものじゃなかった。やがて列車はベトナムの黒く塗り固められたような夜を走りだした。
まだ辺りが真っ暗な時刻にハノイの鉄道駅に到着した。この駅は市街から遠く離れているようだった。近くには鬱蒼と湿気を帯びた自然の気配がある。ベトナム人タクシードライバーが何人も「ナーリー?」と言って寄ってきた。「ナーリー?」は中国語で「どこ?」という意味だ。どこにいくんだ? Where are you going? 外国人を拾おうとするタクシードライバーなら大体英語でそう言ってくる。ここが中国からの越境者たちの玄関口であることを強く意識させられた。クインは彼らをあしらってアプリでタクシーを呼んだ。それにぼくも乗せてくれた。タクシーは市の中心に向かった。大きな橋に差し掛かったところで東の空の果てがオレンジ色に染まっていることに気がついた。首都ハノイに向けて地平線からくもりなき一直線の光線が投げられる。夜明けだ。ハノイの夜明け。あり得たかも知れないもうひとつの旅の夜明け。

 

クインとタクシー
明けていくハノイ

 

そのときのメモ帳にはこの二行だけが残されている。

(たいchillout@イタリア)

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