【ベトナム/ハノイ】カフェ天国とアニメ

気取った感じのないアシンメトリー

ハノイは朝の六時だった。通りから、自転車も通れない小道を入って、ホステルらしき門の前まで来たが、見事にシャッターが降りている。インターホンを押しても反応が無かった。仕方ないので、シャッターの前にあった椅子にバックパックを丸ごと置き去りにし、少し街を歩いた。だんだんと空が明るくなり、まだ人通りの少ない街が姿を現していくその光景を見ることができた。
ハノイを、自分は好きになれそうだと感じた。狭い区画に三階建て、四階建て、五階建ての家がびっしり。噂には聞いていたが、フランス植民地時代の影響が建築に残っていた。コロニアル様式というやつだろうか。フランスだとは言っても、建物や道のサイズ感、看板の感じ、低い位置にある絡まった電線などといった、生活に根付いた基礎的な部分はしっかり東南アジアである。同じ東南アジアでも、これまで訪れてきたタイ、マレーシア、シンガポールに比べて、よりクラシカルな印象がある。

道を頭に叩き込みながら、同じ道をホステルに戻り、インターホンを押した。まだ閉まっている。今度は別の方角を散策した。今度も同じ道を辿ってホステルに戻った。それを何度か繰り返し、七時過ぎ頃にシャッターが上がった。眠そうな顔をした若い男性スタッフが出てきた。
当たり前だが、正式なチェックイン時間は昼過ぎである。ぼくは少し申し訳ない気持ちになった (バックパッカー宿では、チェックイン時間以前に到着した場合でも荷物を預かってくれたり、共有スペースやWiFiを使わせてくれたり、ときには朝食をくれたり、シャワーを浴びさせてくれるところもあったので、ぼくもせめて荷物は置いてもらえると踏んだ上でのこの時間の訪問だった) 。
「思っていたよりとっても早い到着だね」
と男性は笑いながら英語で言った。機嫌を損ねている様子は微塵も無くて安心した。ベッドは空いているのでもうチェックインして良いと言う。例によってぼくはベトナムの通貨を持たずに入国していた。「お金はいつでもいいよ」と男性は言った。ATMの場所、おすすめの朝食の場所、SIMカードを売っている場所を教えてもらった。男性の名前はディン。性格も良いが、ルックスも良かった。身長、体格は平均的な日本人レベル。肌の色は少し日本人よりも褐色。ベトナム人なので髪色は黒。長髪でもなく短髪でもなく、気取った感じのないアシンメトリーになっていた (気取った感じのないアシンメトリーなんて想像つかないだろ?) 。見るからに寝起き直後の状態だったが、このまま、今日の仕事が始まるのだろう。しかしディンには「身だしなみを整える」ことは不要だった。そのままで格好良いし、むしろそのままであることが格好良い。いつまでも見ていられる、と思った。

 

街の喧騒とカフェ天国

三階のドミトリーまで狭い階段を登って、荷物を置いてコンセントにケータイを繋いだ。木造建築のようで、足元が軋む。四人部屋が二つ繋がっていて、その間にトイレが一つあった。ひとりのルームメイトがまだ寝ていた。ベッドに横になることもできたが、座ってケータイをいじっているうちに、ハノイの街のざわめきが聞こえてきた。朝がきたのだ。ぼくは、シャワーを浴びるのもベッドに横になるのもやめにして、街に出掛けることにした。寝台列車や夜行バスでの疲れも、新しい街のざわめきを耳にすると吹き飛ぶ。これまでもそうだったし、この日もやっぱりそうで、この先もずっとそうだった。

300万ベトナム・ドンをATMで引き出した。朝食はヌードル。すだちを絞り、箸で食べる。フォーではない。これが3万ドン、150円になる。つまり300万ドンはたかだか1万5千円だ。ベトナムではこれで何日生きれるだろう。有料トイレで3千ドン払った。15円。SIMカードを買う。25万ドンだったのを22→20→17と三回ディスカウントして買った。ディスカウントできたのは、逆に考えれば「ふっかけてきている」証拠でもある。それは「外国人からはお金が取れる」という発想がこの国に生きていることを意味する。この点は頭に入れて警戒しておく必要がある。中国ではその必要がないと経験から分かっていた。

ハノイの街の中心はホアンキエム湖である。湖にしては小さな湖だ。ホアンキエム湖は物理的に街の中心に位置しているだけでなく、心理的な意味においても、ハノイ市民に、街の象徴として愛されているようにぼくは感じた。ホアンキエム湖の外周は全て樹木と遊歩道で囲まれており、所々にベンチもある憩いの場だ。ジョギングや、犬の散歩や、写真を撮る人が絶えない。遊歩道の外周を山手線のように車道が走っていて、車道に面したブロックから全方角へ街が作られており、カフェやレストラン、他にもあらゆる店舗がホアンキエム湖の方を向いて建っていた。ぼくはそのうちの、これまた縦に細長いコロニアル様式の Cong Ca Phe (「コンカフェ」かな?) というカフェに入って、coffee w.fresh milk を注文した。これまた狭い階段をギシギシと登った。三階の小さなバルコニーは開け放たれ、そこに太陽が照りつけ、そこからホアンキエム湖が見え、足元には無数のスクーターが行き交っていた。喧騒。まさに街の喧騒だ。
これも噂には聞いていたが、フランス植民地時代の影響で、ベトナムにはコーヒー文化が隆盛していた。ハノイはカフェ天国だった (広州のセンは言った。「ベトナムにはカフェがたくさんあるよ。だってほら、フランスがね、わかるでしょ?」) 。

 

萌えとラブコメ

昼食を終えた頃にホステルに戻ると、ホステルは様変わりしていた。隣の食堂と提携して、一階と二階部分を食堂の客向けに開放しているのだ。ホステルだけでなく、ホステルへと続く小道にも小さなテーブルと小さな椅子が炊き出しのように並べられ、たくさんのベトナム人ベトナム名物のブンチャーを食べていた。ディンがいた。今度はすっかりウェイターとして立ち回っている。忙しそうだが、それでもディンはぼくを見つけてニコッとして、ハスキーな声で「いらっしゃい」と日本語で言った。
そう。「いらっしゃい」以外にも、ディンは「どうぞ!」「またあした!」「早い!」などの片言の日本語を話した。ディンは日本びいきの男なのだ。特にライトノベルやアニメが好きで、一階ではベトナム語字幕の『進撃の巨人』が放映されていた。

シャワーを浴びて洗濯物を持ってぼくが一階に降りてきた頃には、ランチタイムのラッシュは終わっていた。ディンに洗濯物を預けた。これが4万ドン、つまり200円もしないで、乾燥されて綺麗に折り畳まれて返ってくる。
ぼくはディンに好きなライトノベルを訊いた。ディンは『俺ガイル』と答えた。『俺ガイル』は『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』の略である。アニメ化もされたガガガ文庫の人気シリーズだ。大学卒業以降アニメやラノベからは少し距離ができてしまったぼくでも、その名前くらいは知っていた。
ディンはぼくに好きなアニメを訊いた。ぼくもそれなりにアニメを見ていたが、何が好きかと訊かれると困ってしまうのが常だった (音楽や小説でも同じことが言えた) 。ぼくはぱっと思いついた『けいおん!』と答えた。

けいおん!』は2009年と2010年に放送された、高校の軽音楽部を舞台にした四コマ漫画原作のアニメである。当時、第二の『涼宮ハルヒ』とでも言える社会現象クラスの一大ムーブメントになった。『けいおん!』キャラクターのキーホルダーをギターのソフトケースにつけた少年少女を高田馬場ではよく見かけたものだ。ここでひとつ強調しておきたいが、ぼくはこのアニメを一期の第一話からリアルタイムで見ている。話題になる前だ。
数字の面では『けいおん!』は金字塔的な結果を残したが、未だに『けいおん!』は過小評価されているとぼくは思っている。『けいおん!』には女の子しか登場しなく、ストーリーらしきストーリーはあまり見えてこない。おそらくはそれが原因で、良きも悪きも、観ている人からも観ていない人からも、「出来の良い単なる萌えアニメ」という評価が支配的なのである。
けいおん!』の監督は、山田尚子という若く美しい女性だ (なんと当時25歳くらい!) 。監督が女性であり、それもかなりの美人であることをぼくが知ったのは、アニメをそれなりに観たあとだった。それを知ったぼくは「なるほどそういうことだったのか!」と膝を打った記憶がある。『けいおん!』をぼくは、凡百の萌えアニメとは一線を画す刹那的な青春劇として大真面目に観ていた (演出は回を増す毎に神がかっていった) 。男性向けの美少女アニメの多くは女性を過剰に神格化する (そして過剰に貶める) 傾向にあるが、『けいおん!』は非常に中立的なジェンダー感で作られている。ひと味もふた味も違うとぼくは思っていた。やはりからくりはあったのだ。ぼくの見立ては正解だったのだ──。

ディンは英語で言った。
「俺は萌えが好きなんじゃない、ラブコメが好きなんだ」
ディンは『けいおん!』を観ていなかった。それは観ていない人にありがちな誤解だったし、観ていない人が『けいおん!』を観ないありがちな理由でもあった。ディンのその発言は「自分は安っぽいオタクでないのだ」というプライドからきているように思われた。そういうところまで日本のオタクみたいである。しかしそれは誤解なのである。本当は、安っぽいオタクでないのなら、『けいおん!』を観なければならない。表面的なキャラ造形や、男女比、ストーリーの有無、高すぎる人気などから、メジャーで商業的な作品だとカテゴライズするのは、それこそ安っぽいオタクのやることだ。『けいおん!』の本質が分かる人は少ないことがまたここで証明されたが、ディンはベトナム人なので、アニメやライトノベルを好きでいてくれるだけで、もちろんぼくは嬉しかった。あるいはここでぼくが誤解を正そうと血相を変えて早口で『けいおん!』語りを始めたら、ディンにとっては、それはそれで本場のオタクを目の当たりにする良い機会だっただろうか。
ちなみにラブコメについてもぼくは一家言あるのだが、それを書くのはまたいつか別の機会ということで。

(たいchillout@スペイン)

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