【日本/東京/文京区】旅にでるまで (2)この会社を好きになってもらうこと

東公園

正確に言うとそれは公園ではないのだが、公園ということにしておく。会社の東にあったので、東公園と呼んでみよう。ぼくは東公園をよく散歩した。夏に入社し、四度目の夏が来る前に退社したので、文京区の春夏秋冬をかっちり三回ずつ経験している。

東京には自然が無いと、地方の人は言う。それはありがちな誤解である。東京には、土地を贅沢に使った大きな公園が沢山ある。新宿御苑。上野公園。日比谷公園井の頭公園。戸山公園。光が丘公園。小金井公園。東京には人が集まり、資本が集まるからこそ、公園は必要とされ、維持される。勿論、全くの手付かずの自然は、さらに西東京に行かなければ見られないが、自然は手付かずだから美しいかと言うと、必ずしもそうではない。「庭」を例に考えてみれば良い。手付かずの庭と、人の手が入り維持された庭では、どちらの「自然」がぼくたちを癒やすだろうか。答えは自明である。

東公園も上述の公園に負けず劣らず、美しい公園だった。春は桜が咲き乱れ、夏は緑が生い茂り、秋は紅く色づき、冬は──雪景色も良かった。ぼくは仕事中も積極的に散歩をし、それを誰よりも公言した。「東公園に行ってきます」。あるいは東公園にはスターバックスがあったので「スタバに行ってきます」。

ぼくは会社に提案した。皆、業務中に東公園を散歩しましょう、と。おかしな話だが社長がそれに同意した。「人間はですね散歩しているときに一番アイデアが閃くんですよこれは既に脳科学では証明されていることなんですけどわかりますよね?」と全社員を前にしてぼくの提案を採用した。

 

成長戦略

ぼくは、入社して最初の数ヶ月こそ、認められようと根詰めて働いたが、ひとまずひとつのアプリをリリースできたことで大きな達成感を得た。そこで、会社とのぼくなりの新しい付き合い方を見つめ直す機会を設けた。上述の"散歩提案"もその一例だが、ぼくが好きだったこの会社の自由な風土を、発展させたい、維持したい、という欲望を持った。この会社の"自由と成功の両立"は非常に繊細なバランスの上に成り立っている。維持したいという積極的な意思を誰かが持たなければ、遅かれ早かれ壊れてしまうだろうと、ぼくは考えた。そして恐らくは、この会社が自由を手放すとき、この会社は成功も手放してしまうだろう、とも。

ぼくは"散歩提案"のような余計なことをするだけでなく、社内 (会議室) で飲み会を開くときは誰よりも早く仕事を放棄してビールを飲んだ。最年少なのにも関わらずだ。それは「ポーズ」だった。仕事を頑張っている「ポーズ」とは真逆の、仕事を頑張っていない「ポーズ」。社長の目の前でそれをした。率先してラフでいることで、他の人たちが続きやすいようにした。特に、頑張りがちで萎縮しがちな新入社員たちに向けての「ポーズ」だった。その点ぼくは努めてバカで、軽薄で、能天気に振る舞った (ある意味ではぼくは自信があったのだろう。自分ならそれをやっても許されるという自信) 。

恐らくは同じ意図で「ポーズ」を取っている別部署の先輩男性社員がひとりいた。口裏を合わせたことは一度も無いが、同じことを考えているのだとぼくには分かっていた。彼はぼくよりも沢山の仕事を抱え、家族も持っていたが、いつでもその「ポーズ」を崩さなかった。人の心を、人生で最も大切なものを、分かっている人だった。

簡単に言えばその「ポーズ」が、アプリをひとつリリースした後の、"会社とのぼくなりの新しい付き合い方"だった (飲み会はそのうちのひとつの例である) 。もしかしたら (もしかしなくても) ぼくは、ソフトウェアエンジニアとしての業務だけに没頭していた方が、数字面での会社への貢献度は高かったかもしれないし、技術者としてのキャリアも磨けたかもしれない。しかし、それはできなかった。ひとえにそれはぼくの性格上の特性 (そして限界) である。ぼくは"人として何かを得ている"という実感を持たないと、働くことができない。逆に言えば、"人として何かを得ている"ときは、前向きに働くことができる。"会社とのぼくなりの新しい付き合い方"は、ぼく自身の成長戦略だった。それは長期的に見て技術を学ぶことよりも価値のあることだとぼくは考え、意識して比重を調整した。自分の人生のために。

 

グレーゾーン

ここで、前回の記事の最後の段落に立ち戻ろう (気が向けば最初から読んでみてください) 。

taichillout.hatenablog.com

ひかrewrite が入社した丁度その頃、ぼくがこの会社を離れようかと考えはじめていた理由。それは、上述の「成長戦略」もそろそろオシマイかなと思っていたからだ。人として自分が変わった実感があった。価値観が刷新されたが、それは十代や二十代前半の自分と矛盾無く統合されていた。また、会社も変わり始めていた。二つの新規事業が助走を始める中で、管理部門が拡大し、良きも悪きも杜撰だった経営の管理化、制度化、規定化が進んだ。やり方の巧拙は別にして、やむを得ないことだった。自由はちょっとずつ縮小していた。この会社では自由と成功は不可分なのでその縮小にはもっと慎重になったほうが良いとぼくは考えていた。それがぼくの経営判断だったが、ぼくはもちろん経営判断をする人ではなかった。

技術者としてはまだまだ学べることがあったが、ぼくがぼくの専門分野で技術者として飛躍するためには、大きなアプリケーションの最先端の作り方を目の当たりにする必要があると感じていた。この会社でのぼくは個人開発の域を出ていなかった (もちろん単独全行程一気通貫で学んだことは多い) 。

会社が変わっても、ぼくは変わらないことに決めた。新しい会社に適応しないことに決めた。バカで、軽薄で、能天気なポーズ。ぼくはこのままで行く。他社ではNGでもこの会社では許されていた「グレーゾーン」に、意識的に踏み込み続ける。「評価制度」が導入されて、皆が仕事をしているポーズを取り始めても、ぼくは仕事をしていないポーズを取り続ける。

そしてやがて時が来れば、会社に合わない人材は自然に排除されることになる。ある時期の会社が必要とした人が、ある時期からはいない方が良い、というのは会社の成長の過程では必ず起きるドラマだ。その過程で会社を立ち去る人間のひとりに、自分がなっても構わないとぼくは判断した。ぼくは根本的に、お金には関心が無く、将来やキャリアへの不安も無い。年金も不要。そして上述のように、人としてはいい具合に"脂が乗った"実感 (あくまで当社比) があったし、技術者としてはここよりも多少厳しくても次のステージに追い込んだほうが良い。

 

バンコクから帰って一週間

三月に海外進出プロジェクトのために外国人社員を採用し、四月に全社的には数年を費やした新規事業のアプリ部門をリリースし、五月に外国人社員と社外のコンサルタントと共にアメリカへ二度目の出張をし、六月の第三週にはバンコクへの社員旅行があった。バンコクから帰ってきてから一週間、ぼくは少し会社でぼんやりとしていた。ゲームのサントラやピアノ音楽の寄せ集めを一日中聴きながら、落ち着いた気持ちでプログラムを組んでいた。雨が降らず、外は暑かった。社内のエアコンが強く効き、ぼくはずっとカーディガンを羽織っていた。一日一回は東公園を散歩して、スタバのアイスコーヒーを買ってオフィスに帰ってきた。

七月三日、システム部門のぼくの隣の席にひとりの女性社員が入社した。同日、別のフロアの管理部門に ひかrewite が入社していた。会社が変わっても、ぼくは変わらない。ぼくは隣に座った新入社員に、ぼくが好きだったこの会社を教えることにした。ぼくや、ぼくと同時期に入社した社員たちが馴染み、力を発揮していったのと同じような幸福な体験を、この新入社員にもしてもらいたかった。直前に別部署に入社した社員が不本意な形で早くも退社していくまでの過程を見ていた。直接の原因はその部署内での新入社員教育にあるとぼくは考えていたが、それも、こうして会社が拡大し変わっていく渦中だからこその歪みから生じていることだった。

隣に新入社員が座るのははじめてだった。ぼくはぼくのやり方で新入社員教育というのをしてやろう。ぼくはそうすることを、新入社員に会う前から決めていた。

達成目標は「この会社を好きになってもらうこと」。

もしかしたら、これはぼくの最後の仕事になるかもしれない。それは、奇跡のバランスの崩壊が予見され、会社と自分の関係に前向きな見切りをつけたぼくがそれでも (だめになるまでの間) もう少しだけ、"何かを得ながら"この場所で過ごし続ける為の、工夫だった。良く言えばモチベーション管理であり、あえて悪く言えば、退屈しのぎだった。ゲームのサントラやピアノ音楽に向いていた関心を、もう一度、会社の方へ引き戻した。

(たいchillout@スペイン)

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