【ベトナム/フエ】亀とビールと隠れんぼ

バスと自転車とランドマーク

久しぶりの個室。クイーンサイズのベッド。真っ白いシーツ。真っ白い掛け布団。真っ白い壁。真っ白いバスタオル。専用のバス・トイレ。窓から差し込む午前の日差し。これで1,500円くらい。フエは一泊だけのつもりで奮発した。部屋を見て延泊する考えが一瞬よぎったが、振り払った。一泊で良かった。一泊だから良いはずだった。二日もここに泊まったらダメになる。洗面台で服を洗い、四階の非常口の外、室外機のそばに身を乗り出してハンガーに吊るして干した。翌日のダナン行きのバスのスケジュールをレセプションで確認し、自転車をレンタルし、小さくて穏やかなフエの町に漕ぎだした。

ハノイから乗った長距離夜行バスは噂に違わぬ快適さだった。165度くらいまでリクライニングできるのでほとんど寝台バスだ。ベトナム全土でこのスタイルのバスが展開されているらしい。しかしどうやらこのバスは、実質的にはベトナム人向けではなくバックパッカー相手の商売であるようで、実際に乗客のほとんどが西洋人バックパッカーだった。その点は面白みに欠けた。しかもオーバーブッキングが発生したようで、ぼくの隣の通路にまで人が寝ていた。東の空が少しだけ明るみを帯びた頃に一度目が醒めた。この調子なら日の出が見れるぞと意気込んだが、その直後、一瞬にしてぼくは再び眠りに落ちたようだった。覚醒した頃には太陽は高い位置にあった。

ハノイホーチミン・シティの中間にあるフエはかつての首都だったらしい。今は観光業がメインと思え、小さな街の中心には西洋風のバーも並んでいたが、昼だからかあまり客は入っていなかった。自転車でそれらを通り抜け、橋を渡って「王宮」に向かった。ホステルには日本語を勉強したベトナム人女性スタッフがいたが、英語を話すスタッフに、おすすめの観光スポットと、地元民に人気のごはん処を教えてもらっていた。それを自転車で回るつもりだった。日が暮れるまでには十分に回れそうだった。一泊の滞在で、こうやって衒いのないシンプルな観光をするのもたまには楽しいだろうと思った。

ときは十二月二十二日。クリスマスの三日前。快晴。道は広く自転車を漕ぎやすい。気温は27℃。あまりよくわかっていないなりに、王宮といくつかの寺院を中心に訪れた。これらのランドマークはあくまで目安だ。旅の中でこうして訪れる建築物のなかには、ぼくの決して豊かではない事前知識やそれほど鋭敏でもない感受性の琴線に運よく接触して、偶然にして得も言われぬ感動を呼び起こすこともあるが、そうでないときの方が多い。しかしそうでないからといって、ランドマークの訪問をつまらないと思うことはない。ランドマークとランドマークの間を移動する過程で、ぼくはフエの道を走り、フエの町を見て、フエの人を見る。そこに旅の本当の目的があるからだ。

 

亀とビールと隠れんぼ

特に著名なティエンムー寺を訪れた。それ自体も良かったが、ぼくが気になったのは、地図アプリを見るとそこからさらに少し郊外に行ったところにある Literature Temple だった。Literature Temple。文学の寺。ホステルで貰った観光用の地図には載っていないので、観光地としての価値を認められている場所ではないのだろう。しかしぼくは、そこに行ってみることにした。地図が示した河沿いにたどり着くと、いちおう入り口の門らしきものがあった。数段の階段を上がると30メートルほどの一本道。道の両脇はひらけており、丈の短い若草がすくすくとそよぐ草はらだった。そして草はらを囲むようにしてこの敷地全体が、規則正しく整列する石碑で囲まれていた。よく見てみると全ての石碑の土台は亀だった。亀の甲羅に石碑が生えているのだ。風が草を鳴らす。一本道と草はらは太陽の下にあった。亀の石碑たちの頭上には屋根がついており、一本道の行き着く先 (ここには屋根がない) には小さな祠のようなものがあったが、なんと肝心の寺がなかった。ぼくの後にカメラを持ったひとりの男性がふらりと現れたが、他には人もいなかった。しかし心休まる美しい場所だった。ぼくはいくつか場所を変えて立ちすくんだ。空と草と、石になった亀たち。文学の寺を名乗るからにはさぞかし文学的な寺なのだろうと思っていたので、確かにそれは肩透かしだったが、一方でこれこそが真に文学的なのだと亀たちは言っているような気もした。

ホステルに戻ってシャワーを浴びた。良い汗をかいて、それを良いシャワーで流した。まだ明るい。レセプションの横にガラスケースの冷蔵庫があり、中にはフエのローカルビールが。ぼくがシャワーを浴び終わるのを健気に待っていたようだった。
ぼくは一階の庭で二本目のフエビールを空けていた。ホステルは少し奥まったところにあり、目の前の小道では子どもたちが隠れんぼのような遊びをしていた。ひとりが勝手にホステルの敷地に入り込み、ぼくの後ろに隠れた。ぼくがその子を見ると、その子は人差し指を口の前に当て「しーっ」という仕草をした。
心配はいらないよ。ぼくは静かに酒を飲む男だからね。その子が少年だったのか、それとも少女だったのか。不思議とそれは覚えていない。 

(たいchillout@イギリス)
フエ編おわり

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