【ベトナム/ホーチミン・シティ】人生で一番美味い酒

因縁

ホーチミン・シティ行きの夜行バスが停車し、消灯されていた車内に再び明かりが灯った。トイレと食事をかねた休憩のようだった。真夜中だったが空腹を感じた。そこでフォーを食べることにした。丸テーブルで出来上がりを待っていると、隣の男性に突然 Japanese? と声をかけられた。
なんと彼はモンゴル人だった。モンゴル人旅行者は非常に珍しい。こういう形で会ったのは初めてかも知れなかった。彼としばらくモンゴルについて話をして、ぼくはとても懐かしい気分になった。
2018年が終わろうとしていた。むろん2018年はぼくにとって旅の一年だった。その一年の終わりに、あの夏以来のモンゴル人と偶然会ったことに、ぼくはかの国との不思議な因縁を感じた。
旅立ちから一ヶ月経った頃に訪れた三カ国目モンゴル。夏のピークの一ヶ月をそこで過ごした。旅立ち一ヶ月は一番良い時期だ。旅の勝手が分かってきて自信を手にし、日常から離れた開放的な気分も板につき、しかし一方でまだ何もかも新鮮な時期。ドラマも武勇伝も友だちも、これから作っていくのだ。これからもっと素晴らしいことが起きるに違いない。そんな確信に満ち溢れた特権的な季節。この旅で一番の幸福 (あるいはファインプレー) は、旅に一度しかこないその特権的な季節を、余すところなく享受できたことにある。ぼくの場合、その季節はモンゴル滞在期間とピタリと一致していた。だから、あくまで象徴的に考えるならと留保する必要はあるけれど、こう言い切ってしまうことにぼくの中で疑いはない。
この旅はモンゴルの旅だったのだと。つまり、この一年はモンゴルの一年だったのだと。


夜が明けてもまだつかない。ニャチャンでバスを乗り換えて、パンやチョコレートをかじった。音楽を聴き、本を読み、窓の外を見て、寝た。起きて、窓の外を見て、本を読み、音楽を聴いた。昼を過ぎてもまだつかない。休憩所で体を動かしバインミー (サンドイッチ) を買って食べた。バスに乗って、流れる景色を見て、やがて、旅立ち前も含めてここ二年弱のあらゆる出来事について思い出す時間がやってきた。ぼくはそれに身を委ねた。
ホーチミン・シティ。旧名サイゴン。かつての南ベトナムの首都。現在はベトナム経済の中心地であり、東南アジア有数の国際都市。800万の人口は大阪府のそれに肉薄する。ベトナムではこれまで見ることのなかった高層ビルが見えてきた。光の海。それは街明かりだけでなく、道路を埋め尽くすバイクの大群によっても作られる。あまりに多いバイクによるクレイジーな交通事情は、ベトナムの、とりわけホーチミン・シティの風物詩として世界に知られていた。すでに陽は落ちていた。バスの到着は大幅に遅延しており、ほぼ丸一日乗っていたようだった。


戦争証跡博物館

無教養なので、基本的には博物館や美術館よりも食べることにお金を使う旅をしている。基本的には。例外が無いわけではない。安いから、暇だから、あるいはぼくなりに行くべきと感じて、博物館に足を運ぶこともときにはあった。そのひとつがベトナム戦争の歴史を記録した戦争証跡博物館だ。
ベトナム戦争に特別な関心があったわけではない。しかしながら、旅をするにつれて、植民地というものへの関心が強まっていたのは確かだった。訪れたほとんどすべての国が、かつてどこかの国の植民地であったり、宗主国であったりした。興味深いのは国民感情だ。かつて植民地だった国の人々に旧宗主国への敵対感情がある例は少なかった。中央アジアの若者はロシア語を誇らしげに使っていたし、ベトナムではフランス植民地時代の建築が今の市民の暮らしを支える観光資源になっていた。旧植民地と旧宗主国の独立後の関係は、多くの場合、心強い貿易パートナーに昇華されていた。旧宗主国が整備した都市インフラや、広めた文化、言語は、旧植民地が今後国際社会で地位を向上させていく上での強力な武器になるだろうと、ぼくは思った。そんな「恵み」が、かつての (多くの場合) 一方的な搾取・殺戮・支配の歴史の延長線上に存在しているという事実を、どう理解すれば良いのかわからなかった。植民地についてもっと知らなければいけない気がした。


もうひとつ理由があるかもしれない。出張でニューヨークを訪れたときのことだ。社長と通訳と三人で、グラウンド・ゼロにある National September 11 Memorial & Museum を訪れた。国立9月11日記念館&博物館。要するに米同時多発テロ、通称「9.11」の博物館だ。これが素晴らしかった。こんなに素晴らしい博物館を訪れたことはないと感じた。何がそんなにぼくの感情を揺さぶったのだろうか。それは、単に悲惨な現実を目の当たりにしたからではない。9.11博物館にはアートの力があったのだ。関連の品々や写真をただ並べるのではなく、順路や展示の仕方に工夫とバリエーションが凝らされていた。観覧者の感情を視覚から聴覚から手を変え品を変え飽きさせずに巧みに揺さぶり、発展させ、教育していく展示だった。結論は単なるお涙頂戴ではなく、安易なテロ反対メッセージでもなく、もっと深いところで人類や社会について受け止めたくなるものだった。要するにそれは芸術だけが備える懐の深さ、射程の長さを持っていた。日本のミュージアムでこんな経験をしたことはなかった。ぼくは、これをこういう形で作り上げることのできるアメリカという国の偉大さを感じた。
このときの経験がきっと頭のどこかに残っていた。


結論から言って、戦争証跡博物館はとても良かった。普段は博物館に行かない人にもおすすめできる。むしろ必見だ。戦地に乗り込んだ日本人カメラマン・ジャーナリストによる写真や手記も展示されている。見るのが辛いものもあるが、ただただ美しい写真もある。ベトナム戦争は、60's (シックスティーズ) カルチャーに影響を与えている。当のアメリカで当時大規模な反戦運動が起きていた。反ベトナム戦争は人種差別問題とともに、ロックやフォークのミュージシャンが関心を寄せるテーマでもあった。その熱狂は日本にも飛び火し、安保闘争などの国内問題と接続した。政治の季節。フォークソングの季節だ。そのとき世界で多くの文化が生まれた。昔のことだからわたしには関係ナーイと思うだろうか。ぼくはそうは思わない。たとえば村上春樹の有名な「デタッチメント」は、この時代への批判的なまなざしに端を発しているという点でれっきとした影響源だし、かつて「しらけ世代」「新人類」と呼ばれた世代の抜きん出たサブカルチャー愛・消費生活嗜好・脱政治性は、何するにつけ政治的だった先行世代の相対化が前提にある。ぼくらはそんな彼ら (60's & ポスト60's) の産み落とした文化を直接的に摂取してきた。そういう意味で、ベトナム戦争はぼくらの直ぐ側に依然存在している。
一方で、脱政治的なポスト60's世代の物理的かつ精神的な子どもであり、同様にサブカルチャーに囲まれて育ったはずのぼくらの世代の国内外の少なくない人々が、まるで団塊の世代まで先祖返りしたかのように政治意識に目覚めている (政治的な声を上げることに人生をコミットしている) 現象も興味深い。興味深いことを理解したいとぼくは思う。社会の中における人を理解したいとき、その人自身を見るよりも有効な手立てがある。それは歴史を見ることだ。歴史は繰り返す。だから理解のヒントは歴史の中にある。たとえば半世紀前、政治の季節の中。たとえば、戦争証跡博物館


ミス・サイゴン

三日目の夕方。細身のズボンに履き替えて、サンダルを靴に履き替えて、申し訳程度のカーディガンを羽織り、ぼくはマジェスティックホテルに向かった。「読者」ならこれだけでお分かりだろう。「読者」とはこのブログの読者ではなく、沢木耕太郎の読者だ。
沢木耕太郎は代名詞『深夜特急』の衛星になるような短編の紀行文をいくつか書いている。どの短編も、物書きとして、旅人として、深夜特急の縮小再生産はしてなるものかという著者の隠れた気概や工夫、技術を楽しめる。更に言うなら歳を重ね、家族を持ち、キャリアを積んだといった著者の生活環境の変化も意識しつつ読むともっと楽しめる。そんな短編のひとつが『一号線を北上せよ』というベトナム縦断の短編だった。
ベトナム縦断の旅を著者はホーチミン・シティから開始する。そのとき宿泊したのがこのマジェスティックホテルなのだ。『深夜特急』ファンならまずここでファンとしての忠誠心を試される。なぜならマジェスティックホテルは五つ星の高級ホテルなのだ。安宿を泊まり歩いた沢木耕太郎はどこいったのだ!!許せん!!となるわけだ。まあそう言いなさんな。ぼくとしては、そんなかつての輝かしい青春時代の旅をサラッと脇に追いやり、ポッと高級ホテルに泊まってしまう (そしてそれを短編にしてしまう!) 著者のそんな感性にこそ (あぁ大切な読者イメージが!) 、やはりこの人は違うなあと唸らされた。
聖地、マジェスティックホテル。宿泊ができれば最高だが、ファンにとっては宿泊よりも重要な儀式があった。それが、ルーフトップバー「ブリーズ・スカイ」のテラスで、サイゴン川を見下ろしながら「ミス・サイゴン」を飲むことだ。


前日に下見に来ていたので、ぼくは臆せずホテルのドアを押し開けた。エレベーターを上がる。一番の心配はドレスコードだったが、店内を見渡す限り許容範囲内だった。外はまだ明るい。客はまだ少ない。待たされることなく歩み寄ってきたバーテンに向かって、「あちらに行きたいのですけど。ほほほ」という顔でテラスを指差す。「喜んで。ご案内いたします。マダム」という顔でバーテンはぼくの前を歩いた。「こちらのお席などいかがでしょうか。マダム」という顔でバーテンが椅子を引いたのは、まさにサイゴン川を端から端まで見晴らすことのできるテラスの最前線。特等席だった。英語の書かれたメニューを受け取った。沢木耕太郎もここに座ったに違いない。それは確信に近かった。
メニューには「ミス・サイゴン」が載っていなかった。ぼくはバーテンに向かって「ごめんあそばせ」という顔をした。そしてゆっくりとした発音で「Miss Saigon」と言った。
ナッツの盛り合わせとともにカクテルが出された。写真をとって乾杯。沢木耕太郎に。この旅に。2018年に。過ぎ去りし日々、素晴らしき日々に。サイゴン川を渡る風に。
ミス・サイゴン」は驚くほど美味しかった。こんなに美味しいカクテルを飲んだことがない。それどころかこんなに美味しい酒を飲んだことがない。人生で一番美味い……。まさかそんな、と思ったが、どれだけ丹念に過去を振り返ってもこの酒が人生史上のベストテイクであるという判断を覆す記憶が思い起こされることはなかった。
世間は年末モードだった。この時期は、インスタグラムを中心に各種SNSで、旅で出会った人たちのクリスマスから年末にかけての過ごし様が次々に投稿されていた。居酒屋風景。ホームパーティー。イルミネーション。旅行。みんな楽しそうにやっている。それを誰かに見てほしいと思っている。特別な気分になるのを抑えきれないでいる。SNSは特別な気分を伝播させていく力を持っていた。
サイゴン川が左から右にゆっくりと流れていた。しかしこのときのぼくは、ケータイを触らなかった。普段ならカフェでもバーでも真っ先にWiFiを訊ねるがこのときはそうしなかった。
サイゴン川は濁っている。しかし、サイゴン川には独特の風格があった。船は忙しなく行き来している。客船から、小型の戦艦のようにゴツいヤツ、笹舟のようなボートまで。川は人を見てきている。そこには自然だけが持つ無言の説得力がある。
サイゴンの夜景は飾らない。夜景のためにライトアップはしない。あくまで無限の光の粒の連なり (バイク) があるだけだ。そこにも無言の説得力がある。都市の脈動だけが持つ、無言の説得力が。


カクテルを飲むとナッツを食べたくなる。ナッツを食べるとカクテルを飲みたくなる。日が暮れて二杯目をオーダーした。「ミス・サイゴン」は一杯25万ドンだ。ちなみにこの日は一泊10万ドンのホステルに泊まっている。10万ドンのホステルと25万ドンのカクテル。今日は特別な日だが、これが自分の旅のスタイルなのだという意識はあった。
ビール好きのキャラクターで たいchillout は売出し中なのだけれど、ぼくはカクテルもワインもウイスキーも日本酒も好きだ。自宅にはビールだけでなく Amazon で買ったウイスキーも常備していた。主にアイリッシュとスコッチの7,000円くらいのやつをいくつかローテーションし、飲む度にご丁寧に箱に入れ直して冷暗所に保存していた。大体ビールの後に、好調時はストレートで飲むが、通常時は、ウイスキー専用に買った氷を入れてオン・ザ・ロックで飲んだ。ワインは鮮度が命なので、ボトルを買ったらなるべく一気に飲んでしまう。酒の味を覚えたのは意外にも日本酒だ。
そう。要するにぼくは大人だった。いつしかひとりでバーに入り、棚に並んだウイスキーボトルでバーの格が分かるようになっていた。棚で、出てくるグラスの質や氷の作り方まで予想がついた。酒の味を知っていた。西洋人も日本人もバックパッカーは総じて酒を好むが、多くが学生に毛の生えた程度の年齢であり、歳相応の飲み方をしていた。彼らはソーシャライズ (人と交流) の味と酒の味を混同していた。仲間との享楽に有頂天になる彼らは、ひとりでフォーマルなバーに入る勇気も、モチベーションも、遊び心も持ち合わせていないことをぼくは知っていた。ぼくは場数を踏んで、ここまでやって来ていた。
人生で一番美味い酒。確かにぼくも「年末モード」だったのかもしれない。自分がここでこうしていることは、そしてここでこうできる自分であることは、案外わるくない。それどころかかなり上出来かもしれないよと、サイゴン川に語っていた。


(たいchillout@イギリス)

旅立ちから一年。ユーラシア西の果て、ポルトガルを見納めてイギリスまでやってきた。ドイツ、ベルギー、オランダ、チェコオーストリアハンガリールーマニアセルビアブルガリア、トルコ……。まだ行っていない国は多い。どこまで行けるだろうか。ひとつだけ確かなのは、この旅はもう終盤であるという事実。それならばここからはもう、旅に専念してはどうだろうか。ブログは帰ってからも書けるのだから。プノンペン行き夜行バスの待合所で、埼玉からきた二人の青年に出逢った。ふたりは二十四歳の幼馴染同士であり、同じ名前を持っていた。そんなシーンからはじまるカンボジア編を、未来のぼくは東京のスタバで書いているのかもしれない。


※たいchillout の消息確認は たいchillout@UK (@taichillout_re) | Twitter で。

f:id:taichillout:20190715210319j:image