【中国/広東省/広州】一日しか会話をしたことのない友だち

「夏の想い出」フォルダに日付を入れて

旅路が広州に近づくにつれてぼくはだんだんと不安になっていった。ぼくにとって二人は特別な存在だったが、二人にとってのぼくも、同じだと考えて良いのだろうか。
あの夏以降、ぼくは本当にたくさんの人と出会っている。だが彼女たちの特別さは少しも損なわれていなかった。だからこそぼくは不安になっていった。あれから四ヶ月が経とうとしていた。ぼくの旅は続いていたが二人は学生である。九月からはじまった新学期も佳境に入り年末年始休みを目前としている。
なんてったって大学二年生の四ヶ月間だ。なにがあったっておかしくない。新しくはじめたアルバイトに打ち込んでいるかもしれないし、ボーイフレンドの一人や二人できていたってなにもおかしくない (はじめからいたかもしれないけど) 。
「夏の想い出」フォルダに日付を入れて、みんなみんな、みーんな日常に帰っていった。すべての想い出を裸のままに背負い込んで旅を続けているぼくを残して。もしかしたら帰っていった人たちとぼくとの間には致命的なギャップがあるのではないだろうか。
彼女たちはそもそもぼくのことを覚えているのだろうか。

 

手応え

二人と別れてから二週間前後して、センとスズからそれぞれ一度ずつ連絡があった。まだ夏だった。スズからは「ユーが使っているVPNアプリなんてヤツだっけ?」というとてもスズらしいメッセージ。センからは「How are you? まだモンゴルにいるの?」と、それぞれがまったく脈絡なく送られてきた。実際そのときぼくは"まだ"モンゴルにいた。ウランバートルではなく、いよいよ出国間際、新疆ウイグル自治区と国境を接する街、ホブドだ。そのメッセージをきっかけにウルムチ滞在期間にかけてセンとは何通かメッセージのやりとりが続いた。

ウランバートルにいる間も、広州という名の街は日ごとに特別なものとなっていった。平たく言えば、早くもぼくはそこに行ってみたくなっていた。ただ、「再会」についてはそれほど本気で考えていなかった。人をキッカケに街に興味を持つ。それがぼくのやり方であり、それで十分だった。このまま二人とは疎遠になってしまって、ぼくがひとりで広州を訪れても良いと思っていた。そこでぼくは二人と、二人の街に思いを馳せるのだ。それがぼくのやり方であり、それで十分だった。

もちろん、万が一に再会できるようなことがあればそれは素晴らしいことだった。とはいえ、ぼくがひとり勝手に素晴らしくなっても、素晴らしくない。先方の気持ちや予定がまず第一。双方が素晴らしいと思えてこそそれは本当に素晴らしいのだということになる。
「連絡してね」と言われたことは嬉しかったが、その言葉は旅人たちにとって一種の社交辞令でもあった。そこだけを切り取って拡大解釈すべきではない。一方で遠慮しすぎて、ビビって、連絡もなしに素通りするのも裏切り行為だろう。
「つっついて」みる必要があった。

センは「中国に来たら連絡してね」と言った。それを字義通り解釈し、ぼくはまず新疆ウイグル自治区に入ったときに連絡をしてみることに決めた。「新疆にきたよ。久しぶり、元気してる?」と。それで"手応え"をみようと思っていたのだ。
「How are you? まだモンゴルにいるの?」
センがこのメッセージを送ってきたのは、ぼくがそう心に決めた間際だったのだ。「つっつく前につっつかれた」。"手応え"としてはフライングで百二十点だ。それをもってしてぼくはひっそりとジャッジを下した。広州に行くときは勇気を出して連絡してみよう、と。

二ヶ月後、ぼくはウズベキスタンタシュケントにてシンガポール発香港行きの航空券を購入し、広州が旅のルートに含まれることがほぼ確定した。その時点ではまだセンに連絡を入れることはなかった。夏が終わってからは、二人とは一度も連絡をとっていなかった。
さらに一ヶ月半後、やがてぼくはついに香港に到着した。そのときも連絡はしなかった。実を言うと、こうして月日を経て、ぼくはみごとに弱気になっていた。手応えが百二十点だった感覚を、感覚として失っていた。二人はぼくを覚えているだろうか。会ってくれるだろうか。喜んで、会ってくれるだろうか。忙しい時期じゃなかろうか。気を遣わせてしまわないだろうか。ぼくから連絡がきたら、うれしいだろうか。
もういい。広州についたら連絡しよう。直前の方が気を遣わせずに済む。予定が合わなくたって「直前だから仕方ないね」と、かどが立たないし、特に理由もなく断りたいときだって「その日は予定が……」と言いやすいからだ。

 

一日しか会話をしたことのない友だち

「ここまでくるための心の支え」と言ってしまうと言い過ぎではあるのだが、二人との再会を、旅全体を通じて大切な役割を果たしてくれる「置き石」のようなものとしてぼくが位置づけようとしていたのは確かだった。モンゴルと広州が、点と点が、線になる。そうすることで大きな物語が描かれるはずであると。
大きな物語を描きたい。しかしながらそれは、ぼくの自分勝手な都合だ。純粋なる会いたい気持ちのほうがまだマシである。旅のために再会するのではない。会いたいから再会するのだ。双方がそう思うから再会するのだ。そういうことをウダウダと考えながら、A型肝炎の病み上がり、そして喉鼻の風邪でフラフラだったぼくは、香港のドミトリーの上段ベッドで (ベッドに寝ながら窓からあの「廟街」が見えるのだ) 、WeChat のモーメンツに香港で撮った写真を一枚投稿した。

WeChat モーメンツにはなるべく一枚は訪問中の街の写真を投稿するように心がけていた。その習慣に従ったまでだったが、すこしだけ別の意図もあった。センはそれを見るだろうか、と。
ただ、その意図は少しだけだった。あまり期待はできなかった。WeChat の使い方も多種多様で、TwitterInstagram 同様に個人差があった。毎日大量に投稿する人もいれば、長文でなにかを語る人、仕事の宣伝をする人、ほんのときどき気まぐれにぽつんと一枚の写真を投稿したりする人もいた。ぼく自身は一番最後のタイプだったが、センはそんなぼくよりももっと寡黙だった。夏から冬までただひとつの投稿も無かったと記憶している。ぼくの投稿にもセンの「いいね!」はつかなかった。そもそもモーメンツを使っていない、見ていないのかもしれない。お年頃のレディにして SNS に対するそのクールなスタンスは珍しく、ぼくは好感を持っていた。
だからセンからの連絡はあまり期待できなかった。しかし、もし見ているのなら、とぼくは考えた。もし見ているのなら、ぼくが広州を目前としていることを知るはずであり、ぼくが連絡する可能性があることを察するはずだった。そしてあまり乗り気でないなら、"今のうちに気の利いた断り文句を考えておいてほしい"という意図があった。

そのセンからすぐにコメントがついたのだ。だからぼくは驚いた。「HongKong!広州にはくる?」と。
難しく考えていた自分がばからしくなるほど、それはあっけらかんとしたメッセージだった。ぼくが変わっていないように、センも変わっていなかった。
手応え、一万点。
「行くよ。もし時間があったら会わない?」
「時間はたくさんあるよ (I have a lot of time) 」
「よし、じゃあまた連絡するね」
そんな感じのやりとりができた。

一週間と数日後、広州に到着したその日の午後に、ぼくのホステルに学校帰りのセンがひとりで迎えにきた。汗ばむ蒸し暑い十二月だった (その翌日から中国全土を大寒波が襲い、上海に雪がふった) 。センはチェック模様のシャツを着ていた。夏は肩下までだった髪が伸びていた。この人はこんなに華奢でこんなに小さかったのだなとぼくは思った。
「この人はこんなに○○だったのだな」
センもぼくになにかしらの○○を感じているだろう。なにせぼくらは「一日しか会話をしたことのない友だち」だったのだから。

 

(たいchillout@日本)

この記事は、ギリシャで書いたのだけれどなんとなく投稿をせずにお蔵入りしていた物。時系列的にはスリム・ウエスト・タワーの一つ前にあたる。
そして、たいchillout はこの九月に帰国しました。旅ブログは最後までゆっくり更新していきます。

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