【カンボジア/プノンペン】インドとクルマ

バックパッカーとしてのアイデンティティ

プノンペンに到着したのは真夜中も零時を過ぎていた。一国の首都でありながらバスターミナルらしいバスターミナルもなく路上に放り出されたも同然だった。放り出された乗客たちはすべての光源に恐怖するまっくろくろすけのように街の隙間という隙間に瞬く間に散った。

カズキたちはホステルを予約していなかった。20時頃に到着するものだと誤解していたらしい。
いや、誤解していたらなんだというのだ。
深夜特急』時代とは違うのだ。いまは、アプリを起動して三回くらい画面をタップするだけで「信用に足る」予約ができる時代だ。今日の宿をわざわざ予約しないでおく必要性なんてどこにもない。
背が高く旅慣れて話し上手な方のカズキは、「カンボジアなら歩いて探せば見つかるでしょ」と言った。
なるほど。ぼくは得心した。宿を予約しないで現地に飛び込んでいくのは、彼の旅のスタイルらしい。
カズキは大学一年生のとき、ふと思い立ってひとりでインドを旅したという。この日から数日かけて、ぼくは彼からインド旅の恐ろしさ、武勇伝、おもしろエピソードをたくさん聞くことができた。彼は真にタフでかしこい男だ。敬意を込めて、このブログではこれから彼のことはインド・カズキと呼ぼう。

ちなみにぼくは基本的には事前に宿を予約していく。三日後にいる場所がはっきりしたら三日後の宿まで予約するし、当日ぎりぎりまではっきりしなくても、決まったそのときに今夜の分を確実に予約する。無論のこと「宿を足で探す」ことが生むドラマは『深夜特急』の醍醐味であり、また多くの旅人が憧れる「旅人の姿」だった。しかしぼくはそれに習わないことを選んだ。
たとえば、だいぶ先の話になるが、エジプトのカイロで泊まっていたホステルに飛び込みで西洋系のバックパッカーがやってきた。
「ハロー部屋あいてる?」
するとホステルのスタッフは言ったのだ。
「ソーリー。うちのホステルはWEBで事前予約している客しか泊めないんだ」
エジプトである。ニューヨークでもドバイでもシンガポールでもない。並の日本人にとってエジプトは、砂漠とピラミッドの、どちらかといえば前近代的なイメージがある国ではないだろうか。しかしそのエジプトの安宿ですら、いまはWEBをすべての前提にした上で経営をしているのだ。
ぼくはそんな近代化した世界に、旅人の自己都合的ロマン (たとえば「アジアは貧しく」「しかし人はあたたかい」とか) を安易に求めてしまわないように意識的に心がけてきた。自分が泥臭い旅をしたいからって、その泥臭さに国を巻き込むいわれはない。これはぼくがバックパッカーとしての自分を位置づけるときの──おれは紋切り型のバックパッカーではないのだと自己信頼するための──アイデンティティのひとつだったと言っても良いかもしれない。

もちろん、宿を予約しないことが安易で紋切り型のバックパッカーだと言い切るつもりはない。少なくともインド・カズキのそのタフな度胸を見て、自分がいやにスマートに旅してしまっているのかもしれないと心を揺さぶられたのは、紛れもない事実なのだから。

 

プールサイド

二人はぼくと同じホステルについてくることになった (予約しないメリットはこういうところにもある) 。ホステルまで、真夜中とはいえ首都の中心とは思えないほど暗い夜道を二十分は歩いただろうか。いつのまにか雨は止み、チャイナタウンらしき小道を抜け、空には見たことのない星座が浮かんでいた。
ホステルに到着するとさいわい二人分のベッドは空いていた。それぞれの部屋に荷物を置くと、プールサイドに併設されたバーから明かりが届く薄暗い共有エリアでもう一度顔を合わせた。二人は空腹らしくこれから外に出て何かを食べるという。若い。ぼくはレセプション脇に置かれた手作りクッキーを一ドルで買った。

翌日、二人と行動を共にした。
朝、小さなお寺で遊ぶ子どもたちがいた。男の子二人、女の子一人。三人は寺の敷地内のコンクリートの地面を素足でかけまわり、なにかを蹴って遊んでいた。それはサンダルだった。裸足でサンダルを蹴っているのだ。彼らにとって足の裏の痛みや汚れ、怪我のリスクを回避することは、蹴って遊ぶことに比べたら重要なことではないみたいだった。
トンレサップ川沿いをぶらついて国立美術館に入った。昼食は比較的まともな店で鉄板焼。ぼくはビールを二本飲む。歩いていると手押し車のパッタイ屋があったのでみんなで食べることに。パッタイは一ドルだった。
それから歩き続け、二人がかねてから行きたいと望んでいた「トゥールスレン虐殺博物館」へ。ポル・ポト政権のカンボジアで無実の罪に問われた人々の大量虐殺がおこなわれたかつての収容所だ。

帰り、さすがに足が疲れたので徒歩ではなくトゥクトゥクで帰ろうという話になった。ぼったくられないように事前に価格を決めて交渉に臨もうとぼくが提案した。相談した結果六ドルなら手を打とうと決め、ドライバーに声をかけた。
「○○ホステルにいきたい。何ドルだ?」
すると運転手は言うではないか。
「それなら四ドルだ」
まさか、下回ってくるとは思わなかった。しかしぼくは内心のガッツポーズを顔には出さずに、むしろ少しだけ不満げに、
「三ドルにしてくれよ。三人だから一人一ドルってことでさ」
と言った。
もしかしたら相場が十分に安かったのかもしれない。運転手は「こりゃかなわねえな!」といった様子で笑い、「オーケー乗りな!」と言った。気持ちの良い交渉だった。

夕食は、宿の近くのにぎやかな通りにでて焼き肉屋のような店へ。外と地続きの店は天井が高く、煙が立ち込める。長方形の店内にあるたくさんの丸テーブルが多くの地元の家族客で埋まっていた。いよいよ明日は大晦日という季節なのに暑くてしかたない。アンコールビールをたくさん飲み、鉄板で肉を焼いた。

ここでもうひとりのカズキを紹介しよう。彼は車が好きで車関係の仕事につとめている。インド・カズキとは対象的に小柄で、髪はモサッと重ため、眼鏡をとるとなかなかかわいい目をしている。旅には不慣れで、穏やかそうで、悪く言えば気が小さく繊細そうに見える。昔のぼくを見ているようだ。とはいえ、ぼくがそうだったからわかるのだが、このくらいの年齢 (24歳) になった社会経験のある男なら、一見どれだけ穏やかそうに見えても、その人なりの処世をしてきた経験があり、その経験がその人なりの清濁併せ呑める度量を形作っている。傍から見たらまだ頼りなくても、少なくとも自分では「濁」を知っていると思っているし、その自信が「濁」のタイプに応じた「図太さ」を形成し始めている。わかりやすく言えば、(形はイビツであっても何かしらの)「芯」は必ずできる年頃なのだ。ぼくはこの小柄で穏やかなカズキにたしかに「芯」を感じた。それは部分部分では、学生の身分であるインド・カズキのそれよりも、どっしりと立派なものだった。そんな彼に敬意を込めて、このブログではこれから彼のことはクルマ・カズキと呼ぼう。

この二人旅は海外経験のないクルマ・カズキが東南アジアを旅行してみたいと思い立ったところから始まったという。じゃあ一緒に行こうか。旅の経験が豊富なインド・カズキが心強い同伴者として手を上げたのだ。幼馴染同士の二人は家族ぐるみで付き合いがあるらしく、クルマ・カズキのご両親も「インド・カズキくんが行くなら」と快く息子を送り出したという。

ホステルのプールサイドに移動して飲み直した。ぼくはブラック・ルシアンを飲みながら、気持ちの良い後輩たちを得て、珍しく自分にしては饒舌になっていることに気がついた。旅について、旅の出逢いについて、旅における英語論、一人旅と複数人旅行の差異について、思っていても話す相手がいなかった「持論」がするすると口をついて流れていた。

(たいchillout)

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