【ラオス/ヴィエンチャン】固定イメージの外部にある風景を探し

バンコクと東京

「日本人が来たのははじめてだ」と言われた開業したばかりの「Bike & Bed」というホステルに二泊し、タケクからヴィエンチャンに向かった。Bike & Bed のオーナーはバンコク出身のタイ人男性だった。彼はバンコク時代、富士通の子会社でC言語プログラマーとして働いていたという。日本への出張経験もあり、滞在した横浜のレオパレスでは壁が薄くて散々な思いをしたと言っていた。バンコクの都市生活を捨てラオスの田舎でホステルを開業した理由を訊ねると「バンコクは嫌い」と言い切った。人が多く、皆が忙しく、お金のために働き続ける。バンコクは人が優しくない。彼はそう言った。彼の語るバンコクは、地方在住を選んだ日本人によって語られる東京のイメージ、あるいは旅に出たり海外に暮らすことを選んだ日本人によって否定的に語られるスケープゴートとしての日本という国に非常に似通っていた。
バンコクも東京も日本も、いい面もあれば悪い面もある。当たり前のことだ。ただ一つわかることは、ぼくらは皆人生を変えるきっかけを━━あるいは変えることができずにいる理由を━━環境に求めているのかもしれないということだった。

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ラオスの学校

ヴィエンチャンに向かうバス旅で、ラオスには小学校がたくさんあると感じた。校庭を駆け回る少年少女たちを車窓から何度も見かけた。
アジア最貧国と言われるラオスを経済的に支援するボランティアの一形態として「学校を作る」という活動があることをぼくは知っていた。以前に勤めていた会社がその支援をしていた。また、旅で出会ったとある学生もその類のボランティアの要員としてラオスを訪れる経験を持っていた。
会社に勤めていた頃のぼくは「ラオスなんて、なんとマニアックな」という感想を抱いていたが、もしかしたら日本人の海外ボランティアの受け口として「ラオスの学校」はマニアックどころか定番の一つなのかもしれない。

明るいうちにヴィエンチャンのバスステーションに到着し、バックパッカーたちと共に街中に向かうトゥクトゥクに乗り換える。トゥクトゥクを適当なところで降りて、宿へと歩き出す前に手近なカフェに入って一息つく。広い天井でWiFiも早く英語での注文にも不自由しない。やがて少し街外れの中国系のホステルまで歩き、チェックイン。靴を脱いで上がり込んだドミトリーで三人の男性が話していた。部屋にエアコンが無いことにしまったなと気を落としながら、扇風機が回るそこで自己紹介をする。三人の国籍は、中国、インド、ウェールズ (イギリス) とのことだった。

 

愛好家としての

再び外に出て、メコン川を目指しヴィエンチャン市街を横断する。ヴィエンチャンメコン川の恵みで育った街だ。川に着けば夕陽の沈む対岸はタイの国土。川が国境線となっているのだ。
さすがに首都とあってシーパンドン、タケクとは比じゃない街らしさがあるが、バーやレストラン、洒落たカフェの並ぶ繁華なエリアでは店のほとんどで英語の看板が出ており、幅広い年齢の西洋人男性が多く歩いていた。それを見て、イメージしていた以上に現代的で不自由のない生活ができそうな街だなどと感じたが、首都の中心でありながら外国人の方を向いた街作りがなされているというのは、考えてみれば、決して国にとって喜ばしい近代化でないようにも思えた。

日が暮れたメコン川沿いの歩道にはお祭りのように飲食や衣服の屋台が出店し、人波で溢れ、どこからかバンド演奏が聴こえる。その中をただひたすら歩き通し、やがて屋台の一つで麺と串焼きを食べる。

宿に引き返す途中で通りがかりのクラフトビールの店「Earth」に入ってカウンターで飲んでみる。店の作りも店内BGMも価格設定も明らかに外国人向けの作りだ。英語もビール用語も通じる。ビアバーなのだからビール用語が通じるのは本来当たり前だが、こういうときに知識を持たない雇われホールスタッフが立っている場合だって日本でさえままある。決してクラフトビール文化が浸透しているわけではないこの国のビアバーが、専門的な知識と深い愛でクラフトビールに携わるプロフェッショナルたちによって運営されていることに愛好家としての喜びを感じる。

黒板に書かれたラインナップの中から、LE PATITOH というローカルビールを1パイント45,000キープ (550円程度) で飲む。これが文句なしのザ・クラフトビール、非常に高品質なビールだった。550円のビールというのは東南アジアでは極めて高価。日本のクラフトビールでも安いところなら550円くらいから用意があるし、ましてやクラフトビールのクの字も知らない多くの日本人にとって居酒屋でビールを飲むときの想定価格はこの半値だろう。こうして物を買うたびにぼくが度々思うのは、ラオスにだって、金があるところにはあるということだった。

 

固定イメージの外部にある風景

金はあるところにはある。ラオスにだって。
会社勤めをしていた頃に、例の「学校を作る」関係者からぼくが伝え聞き映像で見せられたラオスはもっともっと貧しい国だった。
無垢な瞳をした裸足の子どもたちがボロ雑巾のような服を着て土の上を駆け回り、ピカピカの服を着て大きなカメラを持つ我々取材班を物珍しそうに取り囲む。老人たちは各々の家から土産物を持ち寄り旅人へ厚い歓迎の意を示す……。映像にはそんな雰囲気が残されている。
その村に学校建設にやって来たぼくの同僚たちはまるで王様であるかのように歓迎されたという。会社の名を冠した木が校庭に植えられ、子どもたちから手作りのミサンガが配られ、花道をつくって見送られた。コンピューターが学校に置かれたが使える先生がいないなんて話も聞いた。

だが、実際に自分でラオスに来て思うのは、それらはラオスの一面でしかなかったということだ。
上記の映像に記録されるラオスを見ても多くの人にはそこがラオスだろうがインドだろうがアフリカだろうが同じように見えただろう。ぼくだってそうだった。世界には本当に貧しい国があって、教育を受けることすらできない子どもたちがいて、そこではぼくら日本人が文房具一個プレゼントするだけで大喜びされる。そういう一種の「貧しい国の固定イメージ」のようなものがぼくらの頭の中にある。ラオスと聞くと「そっちの世界の話なんだな」と納得してしまい、そこから先に想像力が広がらない。

しかし現実には、そっちとこっちの境界は同じラオスの土地の上でも曖昧なものだった。
夕方のヴィエンチャンメコン川沿いには学校帰りの制服の高校生たちが歩いている。皆当然のようにスマホを持ち、そしてメコン川を背景に友だちとセルフィーを撮っている。きっとそれを LINE や FaceBook で共有し、ときには Instagram に投稿するだろう。その豊かで現代的で普遍的な青春の風景を見て「ラオス国内にも格差がある」なんていう月並みなことを思ったのではない。ボランティアに冷ややかな態度を取るつもりもない。
ぼくが思ったのは、裸足の子どもの無垢な瞳ではなく、セルフィーを撮ってインスタにあげる高校生たちをこそ、ラオスの風景の美しさとして記憶に留めておく人間で自分はありたいということだった。

固定イメージの外部にある風景を探し、それをこそその国のものとして記憶する。それはぼくの旅を最初から最後まで貫いた一つのテーマだったのかもしれない。帰国した今そう思う。

 

(たいchillout)

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