【ラオス/メコン川】ミサンガの子どもたち

オン・ザ・ボート

ボートの中で朝からビールを飲む人たちがいる。ぼくはコーヒーを5,000キープでオーダーした。汚れたガラスのコップと一杯分のインスタントのスティックを渡されて、すぐそばのポットからお湯を入れて飲んでみるとミルクと砂糖の味がする。甘かった。
このボートはラオスルアンパバーンを早朝に出発しメコン川を上流へとさかのぼる。今夜は川沿いの村であるパクベンに停泊し、明日の朝再びボートはパクベンを発つ。そして明日の夕方にはタイを目前とした国境の町であるファイサーイへと至る予定だ。ファイサーイからぼくはこの旅二度目のタイに入国を果たし、北部のチェンライを目指す。一泊二日のボートツアーの幕開けだ。

天気は良かった。屋根はあるが壁はなく、窓もなく、したがって風だけでなく水しぶきもときおり吹き込んでくる。このモーターボートにWiFiはない。トイレはある。電源コンセントはある。しかし電気は通っていない。
座席は自由席で真ん中の通路を挟んで全てがボックス席になっている。コンパートメントにはなっていないので、座りながら首を伸ばせば船内が見渡せる。ボックス席は二十くらいあるだろうか。誰かと相席する必要がありそうだ。やはり、ぼくが乗り込んだ時点で空のボックス席はなかったので、ぼくは穏やかで知的な雰囲気のある若い西洋人男性に軽く目で挨拶し、彼がひとりで座っていたボックス席に相席させていただいた。
まだボートが出発する前、電源コンセントにケーブルを差し込んでも給電されないのを訝しみ首を傾げているぼくに彼は大人びた表情で言った。
「きっと出発したら給電されるさ」
そうかもしれない。バスや電車でも、動きだしたら給電されるパターンはよくあった。しかし、ボートが動き出してもこのコンセントに電気が通ることはついになかった。
男性はカバンにウクレレを裸で結びつけていた。出発して間もなく、通路を挟んで向かいのボックス席にいるスレた感じの西洋人女性が「それ、弾かせてくれない?」と気安く声をかけ、やがてフィンガーピッキングで気持ちの良い旋律を奏でた。その間ウクレレの持ち主は、机に向かって何か書き物をしていた。

ボートの旅は長い。実に明日の夕方まで、ぼくはほとんど何もせずただボートに乗っていれば良かった。このような長い移動時間を、少なくない人々が「せっかくの旅行のタイムロス」だと捉えるかもしれないが、ぼくはむしろこれこそが旅の最高の贅沢として好んでいた。十時間も二十時間もただ景色を見て物思いに耽っている時間を他のあらゆる旅の時間に劣らず楽しんでいた。
バスでも鉄道でも移動時間が長ければ長いほど、体がつらくなることへの恐怖心を上回って、乗車前は胸が高鳴った (飛行機と車は除く) 。そんな長距離移動の機会がやってくるのをぼくはいつも心待ちにして、移動計画を練っては半ば意識的にそれを捻出した。なるべくゆっくり次の街へ行きたかったのが本心だ。オン・ザ・ロード (この場合はオン・ザ・ボートか?) 。旅は途上に存在するのだ。

メコン川は濁りに濁っている。しかしそれが景観上の減点ポイントになることはなかった。その濁りは、ベトナムサイゴン川やカンボジアのトンレサップ川が濁っているのと同様に、川と人々が長い歴史をともに生き延びてきた勲章のように思えた。

 

ミサンガの子どもたち

しばらくして船内は落ち着きをみせ、広州の二人がくれたお茶にお湯を入れて飲んで、寝転がる。膝を立てて寝転がる。イヤホンをつけてボブ・ディランを聴く。旅している間はボブ・ディランをよく聴いた。ボブ・ディランはどこの国の景色にもよく馴染んだ。寝転ぶと視界は木の天井と青い空、あとはときおり流れる、あるいはとどまっている白い雲を除けば、深緑の山々だけになる。山々を切り裂くメコン川を鳴り止まないモーターの振動を唸らせてボートは走る。ぼくはそうして寝転がりながら『ハックルベリー・フィンの冒険』を思い出す。あの小説でハックが下るのはアメリカ南部のミシシッピ川だ。ボブ・ディランが「ブルースの血流」と表現した伝説の大河、ミシシッピ川。いつかぼくもハックが筏 (いかだ) で下ったあのミシシッピ川に行きたい。いや、行くだろう。行きたい場所に行かない人生をイメージしたことはなかった。
停泊場のないほとんど崖のようなところでボートはときたま停泊した。そこで乗客を下ろした。降りていくのは皆ラオス人だった。彼らは日常的な交通の足としてこのボートを利用しているみたいだった。そんなとき、岩の上からみすぼらしい格好をした子どもたち顔を出してこちらを見ていることがあった。客観的に見て、彼らはいかにも「貧しい国の子どもたち」の身なりをしていた。ボートの乗客の多くは彼らの姿を写真におさめた。ぼくはその行為に嫌悪感を感じた。
食堂はない。パンを持っていたが、昼食のためにだいぶ割高なカップラーメンを買ってお腹を膨らましたところで一眠りすることにした。

ボートは何度も川辺に停泊し、その度にポツポツとラオス人が降りていった。もしかしたら乗ってくる人もいたかもしれない。だが、なによりも気になったのは、いつしか停泊する度にその地の岸辺から裸足で船に駆け寄ってくるようになった子どもたちだった。
子どもたちは硬そうな砂の上を裸足でかけて来てボートが停止する前からジャンプして船に飛びついた。ロクに船着場がないところなので、船が陸地に完全に横付けされることはなく、船首だけで陸と繋がっているような状況だから、ダイレクトに客席に飛びついた子どもたちの行為は、まさに飛びついたという表現が正しい。飛びつきしがみついた子どもたちは船の柱に腕を巻きつけてぼくら乗客に手を伸ばしてきた。
何をしているのか? なついているのではない。物を売りに来ているのだ。具体的には、どこの岸辺の子どもたちもぼくたちにミサンガを売ってきた。手作りのミサンガを、ときどき船でやってくる観光客たちに売って日銭を稼ぐのがメコン川沿いの子どもたちの共通の日課になっていたのだ。その売り上げは子どもたち自身のお小遣いになるのだろうか。それとも家庭の大切な収入源のひとつなのだろうか。皆ボートの到着時間を把握しているようだっだ。
子どもたちの年齢はせいぜい小学生でいかにも無邪気でかわいかった。もちろんミサンガを買う人もいたが多くの観光客はそれを写真に撮るだけだった。必死にアピールしてくる子どもたちを船の中から写真に撮るのだ。
ぼくが何よりも悲しかったのは観光客の無神経さではない。子どもたち自身が、自らの貧しさが商品になっていることに自覚的であり、それを世の摂理として受け入れてしまっているように見えることだった。
子どもたちはかわいかった。素朴で綺麗だった。ラオス人は美しいのだ。SNSに投稿したらいかにも「凄いトコロ旅してます」って感じが出るだろう。だけど、いやだからこそ、ぼくは意地でも写真を撮らなかった。

(たいchillout)

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