【タイ/バンコク】黒衣の切符切り

刺激 (Hi-Fi) も安らぎ (Lo-Fi) も

バンコクドンムアン空港からインドのコルカタ行きの格安便は2019年1月26日、深夜0時5分に飛び立つ。20日から北部のチェンマイに滞在していたぼくは、実質的な出発当日である25日の日中にバンコクへ移動すればフライトに間に合うスケジュールだったが、余裕を見てバンコクに一泊することにした。要するに24日にバンコクへ前乗りしたわけだ。
三ヶ月ぶりのバンコクだったが、前回とは宿泊エリアが違った。そのためか街の印象がガラリと異なっていてハッとした。
前回は大都会の中心地の歓楽街の近くに泊まっていた。そこでは水商売の男女も多く、高架を走るモノレールに閉塞感を感じた。今回は空港へのアクセスを優先して観光の利便性に優れない街外れの小綺麗なホステルを選んだ (清潔そうなシーツの写真が決め手になった) 。そこでぼくは地元の人々が足繁く通う良質な食堂やこじんまりとしたショッピングセンターに巡り逢うことができた。庶民の審級に耐えうる適正な物価。バス停に並ぶ学生や老人。旅人に目もくれない通勤OL。
日当たりの良さを感じるのはなにも物理的な理由だけではあるまい。のんびりしている人もせかせかしている人も、みんなそれぞれ自分の時間を生きている。耳元に息も吹きかけられそうな距離にいる他人に関心を抱かない。あるいは関心を抱いた瞬間に忘れる。そこでは誰とすれ違うこともできるし、誰と出会わないこともできる。それが都会の刺激であり安らぎなのだ。そこに異国の香りがブレンドされれば、刺激 (Hi-Fi) も安らぎ (Lo-Fi) も双方がより官能的なものになる。

こういうこと (ミャンマーバングラデシュを抜かしてインドへ飛ぶというプラン変更) でもなければ今回のバンコク再訪はなかったことを思ってぼくは空恐ろしい気持ちになった。バンコクのイメージを刷新したこの値千金の一日は、何もかも曖昧な偶然の要素の掛け算によって手に入ったものでしかないと強く意識することになったからだ。旅人は限られた滞在の中でそのひとつの側面だけを見て国や都市を理解した気になりがちだが、そうした旅人が本質的なことを掴めている可能性はそれほど高くないと認めざるを得ない。大都会は懐が広く、いくつもの異なる顔を持つわけだ。

f:id:taichillout:20190124095312j:plain

 

インド情報

最寄りのバス停からだと、29番のバス、510番のバス、A2番のバスが空港に向かうとジュース売りのお姉さんに訊いた。それぞれ30分から一時間に一本の間隔だ。バスに乗るのは夜なので、ぼくは昼食を食べにホステルの近隣を歩き廻った。45バーツでガパオを食べて、病院の近くのスタバでコールドブリューを飲んだ。
すでにホステルをチェックアウトしていたが、シャワーを浴びさせてもらい冷房のきく吹き抜けの共有スペースで深夜便に備えて身体を休めた。その間、広州のセンに送ってもらったDevdutt Pattanaikというインド人のプレゼンによる『EAST VS. WEST─THE MYTHS THAT MYSTIFY』と題されたTEDの動画を観た。これからインドに行くならぜひ観ておくべきだと紹介してくれたのだ。西洋的価値観との異質性を強調しながら、東洋の、インドの、ヒンドゥーの世界をわかりやすく語り抜いたパワフルなスピーチだった。
それは全くの偶然だが、この一月をかけてセンは友人とインド周遊の旅をしていた。ぼくはその予定を十二月に会ったときに聞いていた。ぼくもやがてインドに行くのだと話していたが、予想では二月か三月だと伝えていた。
ぼくのインド行きが早まったのはたかだか三日前のことで、センにはその情報を共有していないはずだった。センが今頃インドを旅していることをこっちは認識していたが、それとぼくの決断は無関係だった。だからこの日ドンピシャなタイミングで「たいchilloutはいつインドに行くの?」という連絡がきたのが全くの偶然だ。無論ぼくは「それがねえ、明日なんすよ」と答えた。お互いのスケジュールをシェアすると残念ながら合流には向かないことがわかったが、それは、TEDの動画やおすすめのインド映画とともにリアルタイムのインドに関する生の声 (SIM事情、電車の予約方法、使えるアプリなど) をまさかの現地入り前日にキャッチアップするという僥倖であった。

 

 黒衣の切符切り

開け放たれた窓からアジアらしい生暖かい夜風が入ってくる。それでもいまは乾季の一月だからむしろ気持ちが良かった。29番バスに乗ってぼくは空港へと向かった。
現在地や行き先を示すデジタルの掲示板や案内板は例によってこのバスには付いていない。google mapを常時起動していれば降車地点を間違えずに済むが、これからのフライトを考えて、iPhoneのバッテリーはなるべく節約したかった。フライトはLCC (格安航空券) なので座席に電源コンセントやUSBソケットは付いていないと想定しておく必要がある。空港内の電源コンセントは十中八九競争過多であり、ありつけないと考えた方がいい。
だからぼくはスマホを起動せず、ほとんどバスが止まる度に「ここは空港か!?」と添乗員のババアに怒鳴るように尋ねることになった。
添乗員と言ったが、ババアの役目はただ添乗することにあるのではない。新しく乗車してきた客をひとりずつ廻り乗車賃を集金して切符を渡す。それがババアの役目だ。
ババアは黒い服を着ており、まるでローブをまとった軽装の魔術師のようだった。黒衣の切符切りだ。手には筒のようなものを持っておりそれが「財布」だった。おそらく小銭を種類別にしまう仕切りが備え付けられているのだろう。その筒は、ぼくにはまるで卒業証書を入れるあの筒にしか見えなかった。
ババアの身のこなしは軽快で、荒っぽい運転をもろともせず滑らかに車内を移動した。大勢の客が乗り込んでも、誰が新しい客で誰がすでに集金した客なのかを正確に見分けた。ひととおり集金し終えるとバス前方の定位置にシュルシュルと戻るのだが、その移動中に「シャカッ」と筒を一振りするクセがあった。推測だが、それは筒の中にひとまず乱雑に詰めこんだコインを整列させるために行っているようだった。どこかコミカルなババアのその動作を見て、「シャカッ」という気持ちの良い音を耳にして、そしてアジアの生暖かい夜風に吹かれていると不思議と懐かしく満ち足りた気持ちにとらわれた。ずっと旅をしているしこれからもしばらくこれが続くのだなあと、悲観も楽観もなく考えた。仕事を終えた勤め人たちと旅を終えない旅人を乗せたバスは大都会をその北端まで走り抜ける。

(たいchillout)

タイ編もとい東南アジア編終わり

 

f:id:taichillout:20190126001421j:plain