【インド/コルカタ】インドの洗礼・インドのサラリーマン

インドの洗礼

空が明るくなって空港を出た。「これはインドの空気だね!タイとは違う!」両手を広げたイェジィがそんなことを言っていると早速タクシーの客引きが寄ってくる。
ぼくが予約しイェジィもついてくることになったホステルまではそれなりに距離があり、タクシーで行くことは決めていた。ぼくはいくつかのドライバーに相場を確認しその上で乗る交渉をするタクシーの選定をはじめるつもりだった。しかしイェジィは最初に声をかけてきたドライバーに愛想よく応じ、あれよあれよと少し離れた屋根のある場所に停車してあった彼の車に乗り込むことになった。まあ、仕方ない。わりかしぼくは同行者の旅のスタイルに合わせるタイプだ。
二人のバックパックとイェジィの楽器のハードケース二つをトランクに詰め込み、ぼくは助手席、イェジィは後部座席に乗り込んだ。ドライバーはエンジンをかけた後、プラスチックのケースに入れたパンフレットのようなものを取り出しぼくに極めて自然にこう言った。
「ツアーの行き先は、○○と△△と××な。ひとりXXXルピーだから」
シートベルトは閉めてな?ここ最近ポリスがうるさいんでね。そんな形式的なセリフを挨拶代わりに言ったかのようなフランクな口ぶりだったが、内容はめちゃくちゃだった。ツアーを申し込んだ覚えはないし、ぼくたちはただホステルへ送ってくれと言っただけだった。それを約束してくれたから乗ったのだ。金額もバカげている。
「ノー。ぼくたちはツアーはいらないんだ。ホステルに送ってほしい」
ぼくが改めてそう言うと、ドライバーは今ここで初めてその事実を知ったような顔をつくった後、謝罪してくるかと思いきや、何事もなかったかのようにしらばっくれた会話を続けた。
「いや。これはツアーだよ」
なぜそれをお前が決めるのか。
「ノー。ツアーじゃない。ぼくたちはツアーはいらない」
「いや。だからこれはツアーなんだ。いいか? 出発するぞ?」
「ノー! ツアーはいらない! ホステルに行かないなら降りる!」
ぼくが断固折れないことを理解したのか、ドライバーはわがままな客のけったいな要望に仕方なく応じたような顔をして言った。
「わかったわかった。じゃあホステルまでひとり790ルピーずつな」
それも最初に合意した金額よりもはるかに高かった。信じられない。ぼくたちはいわゆるぼったくりタクシーにつかまったのだ。イェジィに加勢してもらおうと後ろを振り向くと、イェジィは二人のやりとりをまったく聞いておらず安心し切って荷物の整理をしていたので、「イェジィ!」とぼくは呼びかけて事情を説明した。
イェジィは適正価格でホステルに行くことを約束するのであればこのタクシーでもかまわないと考えたのか、ホステルに行くことを念押しした上で価格の交渉を続けた。しかしドライバーは790ルピーをどうしても譲らなかった。これはもうダメだと思ったので、ぼくはイェジィに「(タクシーを) チェンジしよう」と言い、ストップをかけるドライバーを無視して自らドアを開け外に出た。イェジィも続いた。トランクから二人の荷物を取り出し、次第にテンションの高まるドライバーも車から出てきて何かを喚いていたが、ぼくはひたすら「ノー!」と言い続け、イェジィを促して足早にその場から立ち去った。

それから冷静になって空港の真正面を見ればそこにはプリペイドタクシー乗り場があった。プリペイドタクシー。つまりチケットを事前購入することができてドライバーと直接交渉する必要がない安心安全なタクシーだ。窓口は個々のドライバーではなく、全てのプリペイドタクシーを管轄する専用のカウンターがある。そこで定額のチケットを買い、整列している黄色いプリペイドタクシーに渡せば完了だ。二人で280ルピー。なんてことのない。これで良かったのだ。ぼったくりが横行するこの地では、国か空港か市かタクシー協会かわからないが公的な力でそれを防ごうとする力学もちゃんと働いていた、それがプリペイドタクシーというシステムなのだ。
プリペイドタクシーのチケットカウンターに並んでいるときも、さっきとは別の白タクの運ちゃんたちが代わる代わる声をかけてきた。さっきの白タクでは結果的に身の危険に晒されるような事態にはならず、ぼくは車中で強気に対応し強引に逃げ出すことで切りぬけたが、一寸遅ければタクシーは発車していただろう危ういタイミングでの脱出だった。もしそこで英語が聞き取れずに曖昧に肯くなどの対応をしていたら即刻アウトだっただろう。気付いたときには全てに同意の上と見なされ、抗議も聞き入れられず、どこに連れて行かれるのか判らない状況であの手この手でプレッシャーをかけられていたに違いない。要するに、大掛かりなトラブルに発展する可能性のかなり高い瀬戸際の状況だった。気をつけなければならない。それでも多少面白がっていたところも内心はあったのだが、紛れもなくこれは呑気なぼくらへのインドからの洗礼だと受け止めようと思った。

 

中国人英語・朝のチャイ・インドのサラリーマン

プリペイドタクシーの良心的なドライバーによって送り届けられ、朝っぱらながらチェックインを認めてくれたホステルでは男女共用の六人部屋に案内された。東京一人暮らしでいうワンルームのサイズに二段ベッドが三つ。ベランダがついている。下段は全て埋まっていたのでぼくとイェジィはそれぞれ別のベッドの上段をキープした。はしごで登るとベッド全体がぐらぐらする。パイプ式の貧弱な二段ベッドである。
ぼくのベッドの下段にはアジア系の男性、イェジィのベッドの下段にはインド人男性がいた。二人とも学生っぽさはないがそれなりに若い。まだ青年という感じだ。ドミトリーに入るまでに通り抜けたリビングルームにはカート・コバーンに似た西洋人男性がいたが彼も同じ部屋だろう。ぼくたち朝早い新客がやってきたことでドミトリーは活気づき、早速ゆるやかにコミュニケーションがはじまった。
ぼくのベッドの下段のアジア人男性の名はペイという。ペイはとにかく声が大きかったが、彼の英語のなまりを聞いて一発で中国人だと分かった。ぼくよりは語彙が豊富で腹の底から出した声で自信たっぷりに話すが、イェジィのパーフェクトなイギリス英語と並ぶといかにも不完全で聞き取りづらい。
オーナーが淹れてくれた自家製のチャイを手に、四人 (ペイ、インド人男性、イェジィ、ぼく) はテラスに出た。薄く雲はあったが晴れの日だった。暖かいチャイは徹夜明けのインド初日の喉に、胃に、脳味噌に、心の底に、やさしく染み渡った。これから先、短くはないインド旅でぼくは何度もこれを飲むことになるのだろう。
イェジィは次はバラナシに行くと言った。ペイもバラナシに行くと言った。ぼくもバラナシは最有力候補のひとつだった。だが三人とも移動日は異なった。ペイは明日に出発、イェジィはあさって以降、ぼくは気の済むまでコルカタを探検するつもりだったから不明。
旅する三人の東アジア人をインド人男性は心底羨んでおり、ペイが離席した頃、その羨みの感情を率直にぼくとイェジィに伝えた。彼は南部の都市から旅行でコルカタに来ていた。
「自分は短い休みしかとれない。また帰ったらすぐ仕事がはじまる。仕事をやめることはできない。やめたら仕事がない。仕事を続けてもメイクマネーする (お金を貯める) にはすごく時間がかかる」
ぼくもイェジィも何も言わなかった。だからといって聞き流すわけでもなかった。彼のあまりに大きな目を見て話を聞き、うんうんと頷いて、それぞれがゆっくりと慌てずにものを考えていた。ぼくはまず「インド人の瞳」があまりに美しいことに驚愕して、そして彼の率直さに一番の感銘を受けた。また彼の、張りがあって色の濃い頬から健康的でまっすぐなヒゲがバランスよく伸びているのを見ながら少し冷静になって考えたのは、そんな彼でもインドでは中流以上であるだろうということだった。彼はおそらく好きではない仕事に忙殺される生活を送っており、長い休みをとれないことを憂いているが、その物腰や服装、さらには事実こうして短期でも休暇をとって旅行できているところも含めて推察すると、おそらくホワイトカラーのサラリーマンであるに違いなかった。ぼったくりをするわけでもなく物乞いをするわけでもなく、こつこつではあるが道徳的に生きて清潔な身なりをし、教養や柔らかな人あたりを身につけ旅行資金を貯めることができる。そのくらいの社会的階層には位置しているインド人なのだ。あるいは彼のようには生きられない本当に貧しい人々と自分を比較しようとも考えず、彼がエリート意識なるものを少しも持っていないのだとすると、それはインド全体の経済が底上げされる中で「サラリーマンの悲哀」のような価値観が日本のように一般化しつつある証拠なのかもしれない。それはぼくにとって純粋に興味深い事象であり、インドについてのリアルな理解が早くもぼくの内部で立ち上がりつつあることも意味していた。

シャワーも浴びず仮眠もとっていなかったが、ドミトリーメイトたちもばらけていったところで少しだけ無言で荷物整理を行い、イェジィとぼくは街に出てみることにした。

(たいchillout)

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