【インド・ネパール間国境】キラキラバックパッカー事件

真夜中の国境

カトマンズ行きの夜行バスを待っていると、雨が雷雨に変わりバラナシ郊外の長距離バスターミナル全体が停電した。ぼくはベンチにバックパックを置いて自分は立ってチャイを片手にスマホキンドルを読んでいた(ベンチの周囲は蚊がうるさかったので立っていた)が、停電の中で読んでいるのも落ち着かなかったのでスマホをポケットにしまった。停電はじきになおったが強雨は続く。20ルピーのパンケーキをお腹に入れて22時のバスに乗り込み窓際のコンセント付きの33番シートに座った。外気との気温差で窓が曇っていた。
国境に到着したのは真夜中だった。インディアルピーを国外に持ち出すことは禁止らしく、イミグレ直前に唯一あった商店で強制的にインディアルピーをネパールルピーに両替をさせられた。ぼくはネパールを見た後どこか別の国境からインドに再入国するつもりがあり、インディアルピーを多めに残しておいたので焦った。咄嗟に手持ちのインディアルピーを少なめに申告し、要するに嘘をついて少量を両替したが、後々振り返るとやはり最悪のレートだった。雨はほぼ止んでいるが標高が上がってきているのか肌寒い。小さなイミグレは消灯して閉まっており係員が出てくるまで外で待たされた。蚊が多くてウィンドブレーカーのフードを被る。運転手にトイレに行きたいと伝えるとその辺でしてくれと言われた。ぼくは列の最後尾に並び直した。

 

キラキラバックパッカー事件

ぼくがこの国境を訪れたのは2019年の2月だが、その少し前に日本人バックパッカーがネパール人かインド人の車に乗って出入国手続きをせずに国境を越えてしまい大使館経由で日本に強制帰国させられる出来事があった。Twitterの旅関係のアカウントの間では話題になっており、彼と同系統だとされる旅人が「キラキラバックパッカー」と揶揄され、ウェブメディアの記事が(たしか)Yahooトップニュースに取り上げられたのをピークにちょっとした炎上騒動になっていた。キラキラの定義は曖昧だが、たとえば彼ら彼女たちはSNSで輝くことを重視する。現地調査や語学の学習を怠る。現地の文化や人々への配慮ができず、ときとして非常識な行動をとりそれを武勇伝のように語る。女性であれば肌を見せてはいけない国で肌を出している。最低限の常識的な警戒を怠る。宗教に無知。同じキラキラバックパッカーと繋がることを旅の目的にしている。フリーランスノマド、やりたいことを仕事にする、という言葉をよく使う。人々に感動を与えると豪語する。謎のクラウドファウンディング。結局親の金。など色々ある。
そんな彼らの存在が、件の強制帰国事件をきっかけにピックアップされ槍玉に挙げられたわけだ。「ストーカー」や「ロリコン」と一緒で呼称が生まれると加速度的にクローズアップが進む良い例だ。槍玉にあげる側は、そんな彼らへの鬱憤を日頃からため込んでいたであろう、比較的アカデミックで堅実な旅の愛好家たちだった。アカデミック勢は語学や地理、歴史に詳しく、名門大学や語学大学の学生や院生が多く、十分な知識を持ってマニアックな地域に出かけた。そんな旅を一部の人々は自ら限界旅行と名付け、自分たちのことを限界勢だと呼んだ。鉄道オタク、共産主義オタクも多い。現地駐在員とその妻や国際結婚をした人々もこちらのチームだ。彼らはリアルな苦労を知り生活の実感がある。ブログやSNSで発信力がある人も多かった。
強制帰国事件の後、限界勢のひとりが同じ国境を越えようとしたとき、日本人だからという理由でやけに高圧的で厳しいチェックを受けたという呟きがあった、そしてそれは件の事件があったせいなのであろうと。この呟きは多くシェアされた。この呟きからアカデミック勢が引き出そうとした教訓は「キラキラバックパッカーのせいで真剣に立派な旅をしているおれたちがとばっちりを受けるんだ」「ミーハーで無知な旅をするあいつらが日本人旅行者全体の信用度を下げるんだ」というものだった。少なくともぼくにはそう見えた。
だがぼくは思うのだけれど、「真剣で立派な旅」と「ミーハーで無知な旅」の境目は非常に曖昧だ。大切なことは自分は真剣で立派ではないかもしれないと常に疑い続けることである。『深夜特急』ではその自己問答がひとつのテーマになっており、決して旅の感動だけを喧伝するものではなく、そこが他の旅本と深夜特急が今でも一線を画す決定的な要素になっている。そしてそのためには、自分と同じような考え同じような趣味の人間同士でフォローし合い、お互いの限界旅行をいいねし合い、徒党を組んでキラキラバックパッカーを揶揄しているような状況こそ危険だとぼくは思うが、どうだろう? 趣味の話は楽しいが肯定のし合いっこは自己問答の機会をどんどん奪っていく。旅は考える機会をくれる。それに異論のある人はいないだろう。考えることは疑うことだ。正しいとされていることを疑い、自然だとされていることを疑い、自分を疑う。自分が正しいと信じてきたことを疑い、これから先自分が正しいと信じたいことを疑う。
村上春樹は『遠い太鼓』というギリシャ・イタリア紀行文の序章で、この本を「安易な感動や、一般論化を排して、できるだけシンプルに、そしてリアルに」書くつもりだと言っている。貧しいアジアの国々、イギリスは飯が不味い、ウズベキスタン親日国、韓国人は整形好き、イタリア人は情熱的に口説いてくる、少数民族は弾圧されている、南国の人はスローライフ、京都人は高飛車、アメリカは歴史が浅いのがコンプレックス、東欧諸国は民族アイデンティティが分裂している、以上はすべて一般論化だ。アカデミックな旅をする人々には知性がある。しかし彼らは一般論化の分野がキラキラよりも学術的であるだけで傾向として全く同じように一般論化に向かってしまっていることが多く、ぼくはそれを残念に思う。

ぼくのパスポートチェックは一瞬で終わった。イミグレから出たらバスが行ってしまっていた。50ルピーのサイクルリキシャに乗ってネパール側国境に移動しているあいだに地平線が明るくなってくる。

(たいchillout)

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