【ネパール/ポカラ】ゲイル

移動前日

チトワンレディースと別れて馴染みのレイクサイドに帰ってきた後、ポカラ到着の初日と同じ「クレイジー・バーガー」で本格チーズバーガーをポテト付きで食べた。インド人は牛も豚も食べない。このとき、ぼくは肉に飢えていた。ネパールはインドよりも宗教的戒律が緩いが、こんなにジャンキーなハンバーガーは滅多に出会えるものではない。ここで食べとかないと後悔すると思った。
この夜、ホステルでぼくは何度もトイレに行った。バラナシにいた頃から断続的にお腹を壊していたが、それが長引いている。強烈な腹痛があるわけでも怠さや熱があるわけでもないので観光には支障がなかったが、明日の午後一に出発するバルディヤ行き夜行バスが少し心配だった。何度目かのトイレから出てのんびり手を洗っていると突然声をかけられた。放心気分だったので隣の洗面台に人がいたことをほとんど意識していなかった。
「Where are you from?」と言われた。
「Japan. You?」
「Oh, Japan... Im from China」
その女性は顔が泡まみれだった。ロードレーサーだかダイバーみたいに全身をピタリと包む黒いスポーツウェアを着ており、短い髪をアップにしていた。洗顔の真っ最中にぼくに声をかけてきたのだ。
「中国のどこからきたの?」
重慶
チョンキン。日本人はジュウケイと読む。行った事はなかったが、いつか行きたいと思っていた街だった。中国有数の内陸の古都であり、大都会である。女性は言った。
「トレッキングしてきたの?」
「いや、してないよ」
「じゃあ、なにしてたの?」
ぼくは答えた。「ただ歩いてた、街を。きみは?」
「トレッキングしてきたよ」
やはりポカラには山登りをするために来る人が多いらしい。女性が言った。
「あなたさ、私と同じバスでカトマンズから来たよね」
「え?」
何を言っているのだろうこの人は。ぼくは一人でバスに乗ってカトマンズから来た。だから誰かと一緒に来たわけではないが……
「あ! 思い出した!」
思い出した。ポカラ行きのバスには中国人のおじさんおばさんグループが乗っており、騒がしくしてくれるなと思っていたとき、おじさんおばさんグループとは通路を挟んだ反対側の座席に一人旅らしき女性が座ったことを。その女性は中国人だろうとそのときぼくは検討をつけたのだ。
「ふふふ」
ぼくが思い出して安心したようだ。
「それで、次はどこに行くの?」女性は言った。
ぼくは、行き先を女性は知らないだろうと思いながら答えた。「バルディヤ」
「バルディヤ!? いつ!?」
「明日」
「私も! 私も明日バルディヤに行くの!」
女性の名前はゲイル。中国語の名前ではなく英語名だろう。ぼくたちは同じバスでポカラに来て、同じホステルに三泊し、また同じ日に同じ目的地に移動するという、まことに稀有な偶然にめぐまれ、出会った。

 

移動当日

午前中は湖沿いを散歩し、余裕を持ってホステルに戻ってくるとゲイルと会った。昼過ぎの同じバスに乗ると話していたがゲイルはまだチケットを持っていないという。ぼくは早めに行って買った方がいいぞと助言した。せっかく一緒にバルディヤに行けるのに、満席でその機会を逃すのは惜しい。そうだよねと同意した後、しかしゲイルは遠慮気味にこう言った。「一緒に来てくれない?」
うーむ。ぼくはそれを断った。バス旅は長い。少しでも長くホステルで身体を休ませたかった。お腹を壊していたこともある。とはいえ、こういうときに断ってしまう自分の消極性がすごく自分らしく思えたことを、今でもよく覚えている。ゲイルは舞台美術を専攻している学生だった。若い女性が異国でバスのチケットを買おうとして困っている。旅の先輩として、年上の男性として、当然ここは助けてあげるべきだし、なんなら格好いいところを見せるチャンスでもある。ぼくに対して好感と信頼を抱いてない限り、ここで同行を求めることはありえない。だがぼくははっきりとNOと言った。世のオジサンなら鼻息荒く行き過ぎたエスコートをして信頼をぶち壊しにしてもおかしくない局面だ。だからこれは非常にぼくらしい態度だった。

(たいchillout)

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