【インド/コチ】未曾有の美女

未曾有の美女

島であるフォートコチへと渡る小型フェリーのチケット売り場で未曾有の美女を見かけた。女性はムスリムで、ヒジャブをしているのだが、よくあるヒジャブとは違っていて、頭のシルエットがドーム型になっていない。耳や首回りを隠す布と頭部を隠す布が分かれており、頭部を隠す布は長方形に近い立体を留めている。枕カバーをピンと張ったみたいに。

女性はひとりで静かに座っていた。チケット窓口の列に並んでいたぼくは、ヒジャブからローブまで統一されたその全身の色合いに感動した。キッパリ真紅と濃紺の二色だ。すごくおしゃれだ。ヒジャブの形も含めて周りに同じスタイルの女性をまったく見かけないが、その女性が宗教的に異端なのか、ただファッション性が高いだけなのか、判別がつかなかった。というよりも、ぼくからするとあまりにファッション性が高く、あまりに宗教的だった。いまどきの若いムスリムの女性がカラフルなヒジャブでおしゃれするというのはもちろん知っている。だが彼女たちは、おしゃれになればその分当然、宗教的ではなくなった(あくまで見た目の話だ)。その女性はちがった。神秘性が桁違いにある。同時にはっとするモダンさがあった。そのままの姿で、パリコレにも出れそうだし、古代文明の儀式で神に差し出された生贄のようでもあった。

目と鼻と口だけが見えている。目の周りは黒く化粧をしている。エキゾチックな、という言葉ではとても形容できない。こんなに顔立ちの整った人間をぼくは知らない。奇跡を見ているみたいだった。インド人なのだろうか。これまで北インド各地で見てきたインド人女性とも違っていた。日本的な基準でも西洋の基準でもアラブの基準でも東南アジアの基準でも、おそらく世界のあらゆる基準で理解できる普遍的で絶対的な美しさ、不可能な融合(混血という意味ではなく、基準の融合だ)を成し遂げてしまっている。だからある意味異様で、好意に驚きが勝る。近寄りがたい美人というありきたりな意味ではない。美しいものは必ず感覚にするっと入り込んでくる。引き寄せられ、最初からそれに馴染んでいる自分がいる。しかし、友だちになったとしても全く会話なんてできないだろう。見るたびにぼくは驚いてしまってすべての考えを中断してしまうだろう。

 

息子には内緒

コチは南インドでは大きな都市だが、のどかな印象はある。人口は多いが、派手な建築なんかは無いからだろう。そして自然と街が一体化している。ヴェネツィアではないが、水の都である。陸とそれほど離れていない場所に島が点在し、それらを小型のフェリーが結んでいる。日常の足だ。ぼくが宿を選んだフォートコチはその代表的な島だった。本土からフォートコチまでのチケット代金は、メモによると4ルピーとある。4ルピーは5円から6円の間だ。いくらなんでもそんなに安かっただろうか。

予約していた宿は個室だった。割りのいいドミトリーがなかったと記憶している。だがそのホステルに到着すると、いま断水されているからと言われ、別の建物の別の部屋に案内された。そこはどうやらホステルのオーナーの実家だか、お母さんの家だか、そんな感じのところで、ぼくのために準備していたのか、ここも一応宿であるのかわからないが、一応個室を割り当てられた。誤算だったのが異常に暑いということだった。コチがこんなに暑いというのも誤算だったが、気温が夜になっても下がらないという点も誤算だった。その上ぼくはケチってエアコンのない部屋を予約しており、ご丁寧に臨時で割り当てられた新しい個室にもエアコンがついていなかった。小さな窓はあったが密閉度が異常に高く、天井でまわるシャンデリアのような風車もほとんど意味がない。シャワーを浴びて横になったがまったく眠ることができない。この旅は寒さを避けて暖かい土地を巡る旅だった。始まりの夏はモンゴルや中央アジアを訪れ、冬のいまは東南・南アジアからアラブで過ごし、二度目の夏はヨーロッパを北上する。実際に防寒具を持たずに出国しており、これまで各地でも気温が下がってくると逃げるように南下し続けた。直近だとネパールの寒さが予想外で端的に耐えなければいけない場面が多かった。だからインドを南下するのは本望だった。しかしここまで暑いとは。ほんとに暑いとこは暑いし寒いとこは寒いし、まったく地球というやつは。

わずかでも風と夜気が欲しく、部屋から出てリビングルームで手持ち無沙汰にしていた。そこに現れたのはオーナーの母親だ。オーナーの母はぼくに調子はどうかと訊ね、暑いでしょうと言った。ぼくはうなずいた。ぼくがただ暑いのではなく、耐えられないくらい暑いのがわかったのだろう。オーナーの母はそんなぼくに救いの手を差し伸べたのだ。エアコン付きの部屋が空いているからそっちに移る?と言った。もちろん料金は変わらない。そしてぼくは荷物を移し終えた。
「ありがとう」
「息子には内緒ね」オーナーの母は言った。

(たいchillout)

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