【スリランカ/キャンディー】命短し旅せよ乙女(その1)

コウモリの夜

小学五年生の頃から飼っていた犬が、実家で亡くなったと連絡を受けたとき、ぼくはスリランカにいた。スリランカのキャンディーという町でひとりの日本人女性と行動を共にしていた。

その女性のことはサキさん(仮名)と呼ぶ。サキさんと会ったのはキャンディーのホステルで、キャンディーはぼくがこのスリランカ滞在で唯一コロンボ以外に外泊した町である。コロンボに比べると高地で少し涼しい。キャンディーを選んだのは涼しかったからと、近かったからと、鉄道で行けたからと、名前が可愛かったから。
キャンディーには一泊だけした。

 

リビングの、シャワー室の扉の前だ。ぼくはすでに夕食を終えておりこれからシャワーを浴びようとしていて、サキさんはチェックインしてスタッフからホステルの間取りの案内を受けている最中だった。スタッフが「日本人がいる」と伝えていたのか、遠目にぼくの顔を見ると「こんにちは」と言った。

荷解きを終えた上でくつろいでいるのだろう、ぼくがシャワーから出てきたときもそこにいたのでぼくから声をかけた。この人はぼくのことを、少なくとも避けてはいない。そう思った理由は、じきにぼくが目の前のシャワー室から出てくるのは明らかだったのにもかかわらずそこにいたからである。(ゲスト同士顔を合わせることの多い安宿生活では、会話を避けたいときの行動も自然と身に付く)。

髪も拭かずに話しはじめて、一通り自己紹介を終えたところによると、サキさんは四月から社会人になる卒業間近の大学四年生だった。友人と卒業旅行にきているが、キャンディーへは単独行動らしい。数日後にコロンボの空港で友人と合流し、次はインドに飛んで砂漠を見るという。関西在住で、外国語関係の学部に在籍し、やはり旅好きで、同じ旅好きの友人と共に海外に出かけつつもときどきで単独行動をとるのが、その旅仲間における、あるいはサキさん自身の好む旅のスタイルらしい。ぼくも自分の旅の話をした。「それにしてもよりによってスリランカにくるなんてこの人ちょっと変わった人だなぁ」とお互いに思っている節があった。

 

この日、昼過ぎにキャンディーについたぼくは早めにチェックインして、町や湖の外周を歩きまわった。バックパックコロンボで連泊していたホステルに預けてある。夕方に立ち飲みのビアバーに入った。キャンディーは小規模のまとまった観光地だがバーは少ない。スリランカでは、厳格というほどではないが、宗教的に酒はメジャーではない。だからバーは外国人向けであってもなかなか見つからないのだが、ぼくはこのスリランカで造られるライオンスタウトというビールの大ファンだった。ほとんど無計画なこの旅で、「スリランカでライオンスタウトを飲む」ということは旅に出る前から決めていた。

ビアバーにいるのは地元の男たちばかりで、バーというほど「空間作り」されているものではなかった。男たちの外見を見ても、洒落た格好をしている者はいない。仕事帰り。それもオフィスワークではないとはっきりわかる仕事帰りの男たちだった。

バーを切り上げたのはちょうど太陽が沈んだ時間帯だった。軽く駅前を横切ってホステルへと向かう。茜色というよりも深いピンクが滲んだ夕焼け。そして驚いたのは大量のコウモリが空を飛び交っていることだった。駅舎や電線の上もコウモリたちでびっしりだ。異常気象の予兆かと疑うようなコウモリの大群による絶叫、しかしどこか耳に心地よい気がするのはなぜだろう。

 

朝食の約束

サキさんは高校時代に両親の勧めでアメリカに短期のホームステイをしたらしく、異国への関心が芽生えたのは早い。大学生になってからバックパックスタイルの旅行にはまり、中米やエチオピアなど一味違った国への旅行歴があった。しかし、ヨーロッパには行ったことがないという。理由を訊ねると、「ヨーロッパはおばあちゃんになってから行けば十分」なのだと言った。ぼくが渡航歴のある国々では中央アジアに強い興味を示した。さらに、偶然とは不思議なもので、2018年の夏、我々は同じ時期にモンゴルを旅していたことが判明した。

 

驚かれ、そして笑われたのは、これだけの長旅を企画しておきながらぼくが海外旅行保険に入っておらず予防接種もしていなかったことだ。いくつかの武勇伝や失敗談、異常に長いバス旅やゲイのエストニア人に誘われた笑い話、印象的だった人々とのエピソード、マレーシアで罹患したA型肝炎のことも話した。最後に明日の朝食を外で食べる約束をした。ドミトリーには男女共用の大部屋があったが、サキさんは女性専用ドミトリーでぼくは男性専用ドミトリーにベッドがあった。男性専用ドミトリーというものがこの世界にあることをサキさんは知らなかった。「そーゆーとこ泊まってるから襲われちゃうんですよ」と笑われる。ぼくもむさ苦しい男ばかりの部屋はいやだが、ベッド数や日当たりも考慮して総合的に部屋を選ぶことにしている。

 

朝食の約束、と書くといかにもさりげないが、どれだけ話がはずんでも切り出すにはお互い勇気がいる。旅人は皆自分の旅のスタイルを持っている。残された時間もそれぞれ違う。「この人は明日も自分と話すことを望んでいる」。それを確信するまでにぼくはいつも慎重で、この日もそのために二時間以上の時間が必要だった。約束をすると、ぼくは安心して、もう今日は寝ていいと思った。同じ瞬間に、サキさんも同じように思ったことがなんとなくぼくにはわかった。リビングの照明はすでに控えられていて、ドミトリーは消灯している。充実感の中、久しぶりの日本人と会ったコウモリの夜がお開きとなった。

(たいchillout)

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写真はコロンボで撮影