【オマーン/マスカット】金曜日のモスク

金曜日のモスク

金曜昼にモスクへ向かった。Airbnbのホストであるハッサンの車に、ドイツ人ゲストの二人とぼくが乗った。ラージとぼくはトーブを着ている。アレックスはキリスト教徒であるためトーブを着なかった。ハッサンの持ち物である真っ白いトーブを着て帽子を被った後、ハッサンはぼくたち二人の首筋にひとさじの香水を振りかけた。そして、お香のようなものをたき、その煙をトーブの下から身体全体に染み込ませた。あ、このにおい。とぼくは思った。ムスリムの男たちとすれ違うときに漂ってくるこの一連の香りには覚えがあった。この香りは宗教的なマナーだったのか。小さな車だったが、モスクへ向かう途中ハッサンの知り合いを見つけ、その知り合いの男も一緒に乗っていくことになった。後部座席に四人の男がぎゅうぎゅう詰めになった。

モスクでのお祈り(プレイ)はぼくにとって初めての経験だった。男女で建物は分かれており、男性オンリーのこちらは体育館半分くらいの大きさはある。そこにきっちりトーブを着込んだ清潔なムスリムたちが詰めかけていた。モスクの外周には参列者の車が絶えなく往来し、近隣の駐車場を埋めていた。長いお説教がはじまった。アラビア語で、意味はわからない。美術館でもアトラクションでもないので当然ながら観光客のための英訳はない。人々は静かに、厳かにしているが、緊張感はなかった。出入り口近辺は多少ばたついている。あとから入ってくる人もいるので、厳粛ここに極まれり、という感じではない。いつものことをいつも通りやっている。そういう感じだった。親子もいた。父と子は同じ衣装を着ているだけでなく、同じ神を信じている。そのことがぼくに強い印象を残した。お説教が終わり、やがてお祈りの時間になると、人々はあらためて列を整えはじめた。隊列が分からずにいるぼくを、ここに並ぶんだ、とジェスチャーで示してくれた男性は、ぼくが異教徒で、観光気分でここにやってきていることにきっと気づいただろう。だが、それに対する敵意や軽視、遠慮のようなものも一切なかった。当たり前のことを当たり前にやっている。そういう感じだった。

 

慣れない右手

家に戻ると奥さんが我々ゲストにオマーンの家庭料理を振舞ってくれることになった。リビングでハッサンを含めたぼくたち男四人が話をして待つ。まだ出会って半日だが、ドイツ人のラージとアレックスはどこまでも知的な人格者であることがわかった。二人とも大柄だが、ラージの方がさらに厚みがある。ラージはハートフルで、ひょうきんでもある。運動部のキャプテンをつとめたらこの人以上に人望を集めるリーダーはなかなかいないに違いない。ラージと比べると細マッチョのアレックスは、旅の経験が豊富で日本にも来たことがある。多言語をあやつるインテリだが、ふくらはぎには豪快なタトゥーがある。東京では新宿に滞在し、夜は銭湯に行ってから屋台でラーメンを食って、朝は日本名物の「サラリーマンの通勤ラッシュ」を観察した。京都の寺を巡り、富士山と原爆ドームに想いを馳せて、夜は民宿で和服をきておもてなしを受けるような「スタンダード」とは、少し違った日本の楽しみ方をしたアレックスの聡明さが、ぼくにびしばし伝わってきた。二人とハッサンは宗教の話をしている。ドイツ人は皆キリスト教徒なのか、というハッサンの質問にラージは言葉に詰まった。その口ぶりからすると、決してそういうわけではなさそうだった。ラージは「Science」という言葉を口にした。宗教と対立する概念としての科学。ドイツの宗教はキリスト教が中心だが、科学的合理主義に対して宗教は押され気味である、若い人においては特に。誰一人ネイティブ話者でないながらも巧みに英語を操る上級者による絶妙な表現の応酬だったので、ぼくはその場で実質的に聞き役に徹さざるを得なかった。

やがてキッチンから奥さんがやってきて、豪華なワンプレートを絨毯の真ん中に置いた。全員で囲むスタイルの料理だった。メインは豆を中心としたカレーに近いルーで、ライスもついている。それを全員が手で食べた。ハッサンはこれが自分たちのスタイルだということを言って、ぼくたちは頷いた。「ワンプレートを手で食べると、お皿もフォークも洗わなくていい。効率的なやり方なんだ」お皿とフォークを洗わなくても手を洗う必要があるじゃないか、とぼくは思ったが言わなかった。ぼくはスナック菓子などを手で食べるとき左手を使う癖があった。だがムスリムは右手を使う。左手で食べはじめた後にそのことに気がついたが、ここで右手に変えると両手が汚れてしまう。ぼくは異教徒だし、見過ごしてくれるだろうか、と思っていると、「たいchillout、左手じゃなくて右手で食べるんだよ」と真正面から指摘されてしまった。ラージもアレックスも作法を理解しており、ぼくが右手に持ち替えるのを期待しているようだったので、指先が床につかないようにグーにして絨毯に左手をつき、慣れない右手でぼくは続きを食べはじめた。

(たいchillout)

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