【アラブ首長国連邦/アブダビ】ある商社マンの半生と、フィリピン人たちの共同生活

ドバイとアブダビ

ドバイ発アブダビ行きのバスは35ディルハム。USB差し込み口とエアコンが完備され、F1サーキットのように濃くなめらかな道路が硬い砂漠の上に伸びていた。誰とも話さずに乗り続けたバスを二時間弱で降りると、アブダビは、火あぶりにされているような暑さだった。バスターミナルに人は少なかった。四月の第一週、気温は37度である。
ドバイを国だと思っている人は多い。しかし、ドバイはアラブ首長国連邦という国にある都市だ。なんなら首都ですらない。首都はアブダビ。ではなぜドバイだけが抜きん出て有名なのか。その理由は、1980年代に設置した経済特区がその目論見通り効果を発揮し、力のある外国企業の誘致に成功したことからはじまった経済的な大発展が世界的な注目を浴びたからだ。二十一世紀になる頃にはドバイは中東一の大都会の名をほしいままとした。
ではアブダビは? 実は、アラブ首長国連邦の石油の大部分はアブダビで採掘され続けている。オイルマネーによって、宝くじが当たるように人生が「イージーモード」になったのは実はドバイではなくアブダビである。WikipediaによるとアブダビGDPはドバイの二倍だ。
ぼくはそこに行って、アブダビが名ばかりの首都ではないという事実を確かめた。ドバイに十二泊し、アブダビには都合二泊しかしなかったが、その配分を完全に間違えたことを悟った。ドバイのような派手さはないが、太く輝く重厚なビルディングが灼熱の大気の中で余裕を持って立ち並んでいた。幅広の道路。管理された緑。さらさらの砂浜。アビダビには、ドバイにはない威厳と安定があった。

 

ある商社マンの半生

アブダビと言えば、こんな話がある。旅に出る前に勤めていた会社で海外進出の案件に携わっていたぼくは、その関係で、ある政府系のコンサルタント(T氏)と出会った。T氏は大阪の国立大学を卒業して入社した総合商社を定年まで勤め上げた人である。最も得意とする分野は「鉄」。仕事を中心にこれまで百カ国以上訪れたという筋金入りの商社マンだった。
そのT氏がまだ二十代だった1970年代、初めて駐在を経験した外国がアブダビだった。その後、テキサス、アラスカ、香港などに長く留まりときには現地法人の代表などを務めてきたT氏は、社長の夢物語の域を出ていない我が社の海外進出プロジェクトにはもったいなさすぎる実績を持つ人物だった。しかし、なにはともあれ、ぼくたちを「コンサル」する人間として会社に出入りするようになった。
T氏に老後の蓄えがないことはないだろう。働く必要がなくても、「仕事」がしたかったのだと思う。フリーランスコンサルタントのような形で政府系の組織に所属しており、我が社以外にもいくつかのクライアントを抱えて自由に働いていた。
T氏はそのように今も新しい仕事を求めていたが、余暇では商社時代のビジネスマンとしての半生をそのスタート地点から振り返る長い文章を書いていた。いわば、自伝である。いつか本にしたいと言っていたが、それより先に、書き上がった部分から章ごとに文章を切り取りPDFファイルにしていた。ぼくはそれを読ませてもらっていた。T氏にしてみれば、趣味として書くのみならず、この文章がクライアントからの信頼を得るための一助にもなるだろうと踏んでPDFファイルを送ることを申し出たのだと思う。無論、それはある種の、心意気である。実績そのものではないし、貢献そのものではない。だが、ぼくはその心意気を受け止めた。と自分では思っている。そのPDFの宛先となっていたのは、社長ともう一人の社員を含めた三人だったが、社長は読んでいなかったし、もう一人の社員も義務として読んでいるようだった。ぼくは楽しんでいた。定期的にPDFが添付されて送られてきたメールに、感想の返事を書くのはぼくの役目だった。ぼくはそもそも長い文章が苦にならず、人の個人的な物語に抵抗がなく、自分が生まれる前の日本社会に興味があって、そしてなにより外国に憧れながらも都会で勤め人生活を送る二十代の若い男のひとりだった。T氏の物語は、新卒で入社した商社での日々から、その語り口にはユーモアを交えて展開し、アブダビ駐在が決まって刺激的に、ダイナミックに動き出す。

 

フィリピン人たちの共同生活

安宿が皆無だと思われたアブダビでは、ドバイで知り合った人間に教えてもらったバックパッカーアコモデーションという予約のできないホステルを唯一の頼りにしていた。しかし、その所在地に行ってバックパッカーアコモデーションは一年前に休業していたことを知る。すでにお昼を過ぎていた。その日のベッドの当てがなくなったぼくは、WiFiが信頼できそうなカフェをまず探した。そうして見つけたFifth Street Cafeという店で、ぼくは実に二週間ぶりに酒を飲んだ。暑い日にぴったりのコロナ・エキストラだ。店内は涼しくて清潔で、客がぼくの他にいなかった。一杯のコーヒーすら値段が高く、ほぼ同じ価格でコロナ・エキストラが飲めたので衝動的に注文してしまった。オマーンからドバイまで、巡ってきた土地はイスラム教国家にしても宗教色が強く、ビールはどこまでも遠かった。外国人の多いドバイでは、然るべきレストランで飲めると知っていたが、高いんだろうなあと思っただけでバカバカしくなり、ぼくは無になって禁酒していたのだった。長い二週間だった、というのは冗談ではないのだが、飲まなくてもやっていけるということを確認できたのはよかった。ぼくは酒好きだが、「アル中」ではない。なにかを補うために酒を飲む人はアル中になるが、自分にプラスするために酒を飲んでもアル中にはならないとぼくは考えている。
コロナビールを飲みながら、オマーン以来二度目となるAirbnbを使って、その日の宿を選んだ。さっそくホストの男性とメッセージをやり取りし、道筋を教えてもらってからカフェを出た。日が暮れてゆくアブダビ。19番地に到着した。
そこでぼくは、フィリピン人移民たちの奇妙な共同生活スペースにおける、使われていない一室に寝床を得た。ホストの男性がいなかったので、ちょっとした屋敷のリビングルームのような場所にまずは通される。そこにはたくさんのアンティーク風の家具が雑多に置かれており、それは例えば次のようなものだった。いくつかの壁掛け時計、照明スタンド、鏡台、おもちゃのテニスラケット、絵、花瓶、ダイニングテーブル、化粧台、テレビ台、PCモニター、一人掛けのソファー四つ、二人掛けのソファーと三人掛けのソファーがそれぞれ一つずつ。ソファーの一つに座っていると、どうやらここに住んでいるらしいフィリピン人たちがちょっとした所用という感じで出入りするのに出くわす。皆、ぼくのことを珍しがって言葉を交わす。このリビングには多くの扉があり、どうやらその先は各世帯のプライベートな個室となっているようだ。
フィリピン人たちのみならず、どこからか猫までが現れて寄ってきた。黒と白のツートンカラーだ。紫の花模様の首輪をつけて、鼻をすすっている。人と一緒にいるのが好きなのだろう。ぼくが移動するとついてきて、ぎりぎりぼくと触れ合う程度の距離に座り、ぼくと反対方向を向く。お前は話さなくて良いから気が楽だ。住民との相次ぐ挨拶に神経を使っていたぼくはそう心の中でつぶやいた。猫とぼくの交流を見た茶髪の女性が豪快に笑ってこう言う。She is welcome.
現れたホストの男性も、もちろんフィリピン人。彼も移民の一人だが、この共同生活スペースの元締めをやっているだけあって、ビジネスの感覚は人一倍だろう。男性はぼくを「韓国人だと思った。きみは十六歳の韓国人に見える。韓国人は細いだろ?」と言って、ジェスチャーで細い男のスタイルをぼくに伝えようとした。
ファンが回っている白い壁の個室に案内され、WiFiを教えてもらい、水をいただく。がたのきている建物だが、不潔さはなく、天井が高くて落ち着いた。ホステルではこうはいかない。Airbnbだからこそ見れる世界にやってきた手応えがあった。夕食を調達しようと外に出るともう夜だ。歩いて行ったスーパーマーケットは混雑しており、家族連れが多かった。ローストビーフのサンドイッチ、青リンゴ、お菓子のフィナンシェを買う。東南アジアのようにはいかないが、庶民の価格であった。

(たいchillout)