【クロアチア/ザグレブ】健全な明るさと持続的な安らぎ

健全な明るさと持続的な安らぎ

一国の首都として、例えば東京や北京やロンドン、それにバンコクやデリーはあまりにもその規模が大きく、実態を掴みにくい。中心がいくつもありそれぞれのカラーも異なる。全体像を把握するには一週間程度の滞在では不十分で、住んでみなきゃ本当のところがわからないんだろうな、と感じさせられる。

一方で、アジアの、経済発展の進んでいない国々では、首都であっても衣食住に不便を感じることが多かった。停電や断水、不安定な交通インフラとインターネット、食事情、そして衛生面。その代わりと言っては難だが、観て周るには都合の良い街が多く、これぞという目抜通りに繰り出せば悪くない確率でその国のリアルとカオス、最先端とローカルを目撃することができた。

ザグレブはビジーじゃない。しかし不便だったり寂しい感じもしなかった。
美しさとコンビニエンス、ピースフルと喧騒、非主流でありながら非サブカル、アッパーでもなくダウナーでもない。それらの絶妙なバランスがとても快適なのである。健全な明るさと持続的な安らぎ。「街」に限ったことではないが、ぼくはそうしたものが好きだ。

ドゥブロヴニクからのバスは長旅だった。ヨーロッパに入り、これから段々と長距離移動は減っていくだろうと予感していた。アジアに比べればヨーロッパは狭い大陸に多くの国と街が密集している。どこで降りてもそれなりに生活ができる計算があった。長距離移動と長期滞在が減り、小刻みな旅がこれからはじまっていくことを予期していた。そんな心境でザグレブ行きのバスに乗った。

しかし、その行程は意外にも長くハードであった。このとき、旅がハードじゃなくなるなんてことはないのだろうということをぼくは理解した。また、永遠とも思える時間を車窓からの風景だけで過ごすことの素晴らしさも、あらためて実感した。アルバニアからモンテネグロ、そしてクロアチアと続くこのバルカン半島の自然にはくすんだところがなく、どこまでも若々しい。

ザグレブには七泊し、ホステルを一度変えた。
初夏になる少し前の冷たい雨が、二つ目のホステルのある住宅街の夕方のアスファルトを濃くする。空気の透明感とはアンバランスなほど陽は長かった。貨物列車の停まる中央駅。そこから少し離れたイェラチッチ広場が街の中心で、人混みの中を頻繁にトラムが行き交っている。ぼくは近くの屋台で、何度か新鮮なイチゴのパックを買って食べ歩いた。

 

2019年5月 たいchillout

【クロアチア/ドゥブロヴニク】アドリア海の日差しに焦げる

船人

映画『魔女の宅急便』の聖地としても名高いクロアチアドゥブロヴニク。赤い屋根のつらなるあの街だ。世界遺産に登録されている海辺の旧市街は物価高の観光地となっており、滞在にはそこから徒歩で20分ほどのところにあるゲストハウスを選んだ。小雨の降るバスステーションのATMで、ジャパンネット銀行のカードを使って800クーナを引き出し、チェックイン。二泊で186クーナの現金を払う。キッチンでインスタントラーメンの昼食をとっているうちに雨が上がった。

明後日は朝から移動なので、ドゥブロヴニクを楽しめるのは今日と明日だけだ。ぼくは二日とも旧市街をメインに散策した。旧市街までは、アドリア海沿いを歩く。アドリア海はとにかく青い海だった。海が青いのは当たり前だが、ぼくには太平洋やインド洋よりもアドリア海が青く見えた。あの海の向こうにイタリアがある。あの海の向こうにイタリアがある。あの海の向こうに。切り立った崖上の遊歩道から見晴らす遠い海面に目をやり、その都度そう思いながら、ぼくは旧市街に通い、旧市街からゲストハウスへ帰ってきた。ぼくはすでに「ヨーロッパ」に足を踏み入れていた。しかし同じヨーロッパでも、イタリアから先に控えているフランス、スペイン、ポルトガル、イギリスなどの「有名なヨーロッパ」は、さらに特別なものとしてぼくは期待していたし怖れてもいたのである。そろそろミーハーになることを自分に許してもいい。ぼくはそんな風にも考えていた。

港や教会、教会に隣接した墓地が旧市街への道沿いにあった。緑豊かな墓地のあちこちに、一つひとつ異なったデザインの祭壇やイエス・キリストかなにかの像がさりげなく配置されている。墓石には十字架が刻まれているが、木製の十字架や草を編んだ十字架もある。花が添えられているものも目立つ。そういえば、ここまで歩いてきた道に賑わっている花屋があった。ある墓には錨(いかり)のイラストが描かれていた。ここに眠る者は船人だったのだろうか。ぼくの墓にはなにが描かれるのだろう。

 

アドリア海の日差しに焦げる

旧市街は華やかで活気があった。観光客の放つエネルギーは爆発的だ。陽が長く、暖かい季節になってきていることもあるだろう。ドゥブロヴニクはコトルよりも格段に規模が大きく、街が海へと拓けており、歩き尽くすにはそれなりに時間と体力を要する。大きさや高さに差はあるが教会から住居まで建築物としての風合いが共通している建物たちが密集するブロックのコーナーはどこもレストランの定位置であり、石畳の小道にはみ出すようにテーブルを並べている。ファミリー、カップル、友人、団体……。バックパッカーが気楽に入れるような店は少ない。ゴージャスというほどでもないが、ワインリストやウェイターのサービスなども含めて、格式が一定のレベルに達しているレストランが主流である。西洋人にとってすら「綺麗なヨーロッパ」だと感じる風景がドゥブロヴニクには残されているのだとぼくは思う。ましてや日本人のぼくなんかからすると、本当に絵本の中のイラストレーションである。忙しい観光地だった。掘り出し物のような店を探し出し、人知れず夢心地に過ごすようなことはこの街では困難だとすぐに悟ったが、それはそれでいいのである。

とはいえ、ビールは飲む。所在なさげな(金もなさげな)一人客の存在が営業の邪魔にならないような店を足で探し、ぼくはやはりテラス席を「ここにしてくれ」と指差した。二日目はよく晴れており、ゲストハウスから歩くだけで汗ばんだ。そしてなんと午前十時半にとある店でビールを飲みはじめた。アドリア海の日差しに焦げる五月。旅をはじめて十ヶ月と二週間。疲れ知らず。寂しさ知らず。アルコールが入って、そんな気分になってきた。神様に恵んでほしいものはない。いまこの場面にいてほしい人は特にいない。すべては順調でぼくの人生には欠落というものがなく、まるごとが完璧だ!

ウェイターが食器を下げるときにナイフを落とす。さぁ、どうする。日本なら「失礼いたしました!」とスタッフ一同ハモるところだ。しかし、ここでは客の誰よりも彼らこそが不機嫌になってしまっている。悪いのは俺じゃない、ナイフの野郎だ。そんな心境だと推測する。

 

2019年5月 たいchillout

 

【モンテネグロ/コトル】晴れと雨の合間にホイホイ

晴れと雨の合間にホイホイ

ポドゴリツァから、北西のコトルへと小刻みに移動した。同じモンテネグロ内だ。
コトルは、アドリア海沿いにある入り組んだ湾(コトル湾)の奥まったところにある。中世の古い街並みが世界遺産に登録されていることもあり、西洋人を中心に観光客は多かった。
ぼくはこの街のことを知らなかった。北上していく道程でのストップポイントとして、成り行きで立ち寄ったことになる。コトルは小さくて、その割に旧市街(城壁)のすぐ外にしっかりしたスーパーマーケットがあって住み良いところだった。その滞在期間、ぼくは二度ほど延泊を申請した。不安定な天候が続いていた。次の移動先はクロアチアの名勝ドゥブロブニク。向こうは宿泊費が高くつくため滞在をできるだけ短くアレンジしたい。そのためにコトルで出発日を調整し、しっかりと晴れの日を狙おうという作戦だ。

バスで昼時に到着した。城塞都市だったらしく、背後を丘に守られ、旧市街は城壁に囲まれている。その街に入るための門がある。門をくぐれば、中世をコンセプトにしたテーマパーク風。しかし、これは遊園地ではなく、本物の中世ヨーロッパなのであった。石造りの教会、密集した赤い屋根の建築。狭い路地に、夜は柔らかな街灯がかすかな人影を浮かび上がらせる。
山とあるレストランの中でも目立った位置にある、入りやすそうな一軒を選び、席数の多いオープンテラスの一角に案内された。道行く観光客たちを眺めながら、フレンチフライとチーズバーガーとビール。向かいの椅子にバックパックを座らせる。少し前の雨を受けた石畳が光っている。観光客の属性も、アジアを旅していた頃とは随分と変わってきた。西洋人のファミリー層が増え、はしゃいでいるナチュラルブロンドの子供たちを見かけるようになった。
上出来のランチタイムだったが、この一食で10ユーロというのは大きな出費だった。ぼくはコトルでの贅沢はここまでと判断し、安易な外食を控えることを決意。旧市街中心部のホステルに滞在し、インスタント麺を茹でたり、クロワッサンや青リンゴをかじることで一食をやり過ごしながら、晴れと雨の合間にホイホイと街を練り歩くスタイルがここではルーティンになった。
ホステルでは、ビットコインが云々と言っている歳上の日本人男性に会ったが、「ムスリムの距離感が好きじゃない」と口にしており、そういう思考をする人こそぼくは好きじゃないので深く関わらなかった。*1
ポドゴリツァのホステルで一緒だったスイス人の女性とも偶然再会した。女性は自転車でヨーロッパを旅しているらしかった。今日的な、自立したヨーロッパの女性という感じで、公平でエネルギッシュだった。
韓国で英語講師をやっているというアメリカ人男性は陽気なムードメーカーだった。まだ距離のあったゲストたちが彼の話術でグッと一体感を手に入れたときは心から尊敬した。

晴れ間を見つけて、街の背を守り続けてきた丘(山)に登った。コトルは猫の街としても売り出し中らしく、登山道のいたるところに猫がいた。なかなかハードなハイキングになったが、頂上近辺のいくつかの教会や史跡には古びた美しさがあり、おもちゃの街みたいな赤茶けたコトルの旧市街とコトル湾の全景は壮観だった。さすがにハイカーは西洋系でもバックパッカーの若い男女が多く、頂上で開放的になる彼らの姿もぼくには眩しかった。

 

2019年5月 たいchillout

*1:日本人が日本語で話す分にはそのくらいいいではないか、身内なら小声で本音をこぼすくらい許容範囲ではないか、と考える人もいるかもしれないが同意できない。ぼくは「思っても、口を慎もうね」というマナーのことを気にしているのではないからだ。「思っても」の部分がもう、悪いが、ぼくには納得がいかない。
こうした感想を打ち明けてくる人というのは、本音ではみんなムスリムが(あるいは中国人が・韓国人が)好きじゃないと考えているようである。本音を交換すれば、日本人同士で手堅く意気投合できると彼らは期待している。「本音は必ずネガティブな意見」という驚くべき先入観を彼らは持っているようにも思える。差別や偏見の問題より先に、彼らのそうした人間観、コミュニケーション作法は随分と程度が低いと感じる。

【モンテネグロ/ポドゴリツァ】二回、交差

ベオグラードの方角

アルバニアの首都ティラーナからモンテネグロの首都ポドゴリツァまではバスで移動。真昼の移動だった。この二都市間の道のりは、これまで見てきたあらゆる土地の中でも最上位に位置する美しい風景が続いた。子供向けアニメや童話の中の世界のような、どこかファンタジックで柔らかい西洋的な郷愁だ。

赤い花、黄色い花、緑の丘。白い壁、煉瓦色の屋根、膨らんだ小さな羊。原っぱの只中に凛と立つ木、背の低いみかんの木。丘にひし形の影を落とす、飛空艇のような雲。緩やかに山に沿う、蛇行する碧い川。Skadar Lakeという国境の湖。湿原。石壁の細い道。サルビアの花。車窓にこめかみを預け、70年代のポール・マッカートニーのソロアルバムやJUDY AND MARYを聴いたりしながら、ぼくは素晴らしい天気のその風景の中をまどろんだ。

ポドゴリツァのバスステーションに降り立ち、街中を目指して歩きはじめるとすぐにベオグラードの方角を記した道路標識が目についた。ベオグラードは隣国セルビアの首都である。その距離およそ500km。なぜそんな標識が気になったかというと、モンテネグロはかつてユーゴスラビアという国の一部であり、ユーゴスラビアの首都こそがベオグラードだったからである(ユーゴスラビアは2003年に複数の国家に解体された。その中でも中心的存在であったセルビアと、ここモンテネグロセルビア・モンテネグロという国家名で2006年まで続いた)。この標識は、もしかするとユーゴ時代からあるものなのではないか。ぼくは直感的にそう思ったのだ。かつては首都の方角を案内する一般的な標識だった。しかし国が解体された今、その標識は国境までの距離のさらに二倍以上遠くにある街の位置をポツンと指し示すどこか不自然なものとなっている。

 

二回、交差

ポドゴリツァのホステルは澄み切った川の近くにあり、フレンドリーなゲストが多かった。日本人男性に出会った。名前はY君である。23歳のY君はぼくと同じく長期のバックパッカーであり、ぼくとすれ違うかたちでバルカン半島を南下してきていた。東欧を手早く廻り終えた彼は、「パスポートにスタンプを押すため」にいくつかの国を訪れ、そのことをぼくに悪びれず話した。ぼくがポドゴリツァ三泊すると言うと、この街をただの通過点だと考えていたY君は驚いた。旅のスタイルは人によってこうも違うのである。

Y君は明日にはこの宿をチェックアウトし、これから先、ぼくが旅をしてきたルートをほぼ真逆に辿る。コソボアルバニアを通過したら、ギリシャやエジプトを巡るのだ。しかしそのあとは北アフリカをまたぐ形でモロッコへと飛び、ジブラルタル海峡に航路をとりスペイン入りするという。そしてポルトガルに向かい、ついには南米大陸へと飛ぶと語った。ブラジルには日系移民が多く入植しており、働きながら生活できる場所の存在がバックパッカーたちには知れ渡っているらしい。夢のある話だった。

Y君とぼくは似たような時期に旅を開始し、ここまで形だけは似たような道を歩んできていた。バラナシでは滞在時期まで一致していたようだった。あのガンジスの懐で、顔を合わせていたかもしれないのである。翌朝のドミトリー、ぼくは珍しく早く起床したが、Y君はもう出発の時間だった。「二回、交差したわけですね」というのが彼のお別れの挨拶だ。

 

ようこそポドゴリツァ

日本人にとっては東南アジアの途上国よりよほどマイナーな街だと思うのだが、ポドゴリツァは綺麗な都市だった。ティラーナから続くこのあたりは土地そのものがぼくには違って見える。街の中心を貫くモラチャ川は水量が多く激流とも言えるが、表面はいつ見ても美しい碧い色をしている。標高があるわけでもなさそうだが、空気の質感には高原のような涼みがある。この街でぼくはボロネーゼを食べたり、カプチーノを飲んだり、パン屋でパンを見繕ったり、スーパーでインスタント麺を仕入れてキッチンで茹でたり、青リンゴを齧ったり、街の小規模なフェスティバルに迷い込んでシンデレラの劇を見ながら野外でビールを飲んだり、クラフトビールとポテトチップスをホステルの庭に持ち込んでデッキチェアに寝そべり空を見ながらぷかぷか過ごすようなことをしていた。

あるときモラチャ川沿いを岸辺の近くまで下りて歩いていたら、たむろする二十歳手前くらいの少年たちが少しニヤついた感じでぼくを見ていた。ぼくは静かにそのわきを通り過ぎた。ぼくの背中に向かって少年の一人が声を張る。Welcome to Podgorica! と、はっきりと聴こえた。

 

2019年5月 たいchillout

 

【番外編】旅行記と紀行文と旅ブログ

旅行記と紀行文と旅ブログ

カフェ「Mon Cheri」でパニーニとアメリカーノの朝食。ティラーナは二日目の今日も雨。店員の女性はSFアニメの宇宙人のような目の色をしている。

突然だが、旅行記と紀行文と旅ブログは以下のように異なるものであると感じる。

旅ブログはその国について知りたいという読者の需要にこたえ、旅行記はその国の雰囲気を味わいたいという読者の需要にこたえ、紀行文は自分のために書く。

アルバニアの首都、ティラーナで泊まっていたホステルには、これから訪れる予定のバルカン半島諸国やイタリアをあつかった日本語のガイドブックや雑誌が少し置いてあり、それらを「Mon Cheri」に持ち出して読んでいるうちになんとなく上記のように考えるようになった。

ぼくが書いているこのブログは、メディアとしては旅ブログだが、その性格は紀行文に近い。
本格的な旅人はおおむね無職なので、旅ブロガーは「ブログで稼ぎたい」という野心を持って旅ブロガーになるのだろう。そうするとSEOを意識せざるを得ないし、人が「知りたい」こと、人の「役に立つ」ことを書くインセンティブが生じる。必竟、行き方や乗り方、買い方、おすすめスポットなどの紹介が旅ブログのメインコンテンツになる。お手本も多く、旅ブログは書きやすい。

他方で、旅関係の雑誌などに寄稿されているエッセイの類はほとんどが旅行記だ。旅行記の文章はいつも写真とセットで誌面上に組まれ、雑誌を手に取った読者が最初に期待していた雰囲気を裏切らない洒脱で幾分予定調和的な文体が特徴になる。旅行記を書くのは主に「ライター」の人たちだ。読者は束の間、旅をしているような気分を味わい、うっとりする。しかしそれは、幻想としての旅である。

ぼくはブロガー以外にも生きていく道があるし、「幻想を見せる」ことには消極的だ。旅はむしろ、幻想から脱却した先に存在する。幻想を駆使し「旅の素晴らしさ」を世に広めようと活動?している人たちもいるようだが、旅が素晴らしいことなんてすでにみんな知っているんだから、効果はどれほどなのかなとぼくなんかは穿って見てしまう。

ぼくは、作家による文章ばっかりの紀行文を読むのがなによりも好きだ。だから自分でも紀行文のように書くのが自然なことだった。紀行文には個がある。楽屋落ちやセルフツッコミは無い。読み手とのインタラクティブな関係は構築されない。個はときとしてうっとうしい。書き手を好きになれなければ読めないし、自己投影して楽しむことは難しい。冷めた気持ちで読めばすべてが自慢話に聞こえてしまう(自慢話にとられないための現代的な安全弁が「セルフツッコミ」や「インタラクティブな関係」なのだとぼくは思っている)。でも、大多数の旅ブログは役に立つ以上の役には立たないし、ウェルメイドな旅行記も旅の上澄みを掬っただけに思えて退屈なのである。

 

たいchillout

 

【アルバニア/ティラーナ】透明

小さな国の、小さな首都

朝方に到着したバスステーションのカフェでコーヒーを飲み、気力も湧いてきたので今度は隣の店に移動してしっかりめの朝食をとった。オムレツ、ソーセージ、チーズ、バスケットに入ったパンが二枚。店の壁にかけられた絵には雪山と麓の小屋が描かれている。

アルバニアのティラーナ。小さな国の、小さな首都だ。「レク」という通貨を持つこの国では基本的にユーロが使えるが、シェンゲン協定には非加盟であるため出入国の手続きがあった。そしてシェンゲン圏の滞在は合計で三ヶ月までというルールも、アルバニアには適用されない。長くヨーロッパを旅するためにぼくは、ときどきこうやってシェンゲン圏の外に出るということを繰り返した。

ティラーナはとても居心地のいい街だった。アフリカ系やアラブ系の移民や出稼ぎ労働者は見かけない。そもそもこの国で働いても出稼ぎにならないからかもしれない。そのくらい物価は安く、さして有力な産業も見当たらなそうな、コンパクトな街だった。だが、たとえばラオスのヴァンヴィエンみたいにコンパクトなのかというとそれは少し違う。小さなカフェ、小さなバー、小さなベーカリー、原色のカラフルな路線バス……どこからどのように風景を切り抜いても自然な佇まいと気負いのない歴史性を感じさせるのだ。可愛い街、という表現もしっくりくる。政治的には波乱の記憶が刻まれている土地ではあったが、ぼくが訪れたときはのどかで、「豊か」に見えた。そこかしこにあるベンチに並んで腰かけている老人たちはとても仲良しに見える。若い女性には「むすめさん」と呼びたくなるようなどこか淡い佇まいがある。タイルの中央広場は雨あがりにきらめく。優しい稜線の山々にかかる午前の白い霧。バルカン半島の街にだけ見られた──西ヨーロッパとはなにか異なる──独特な透明感は、ティラーナにとても象徴的だった。

到着した昼に天気は雨に変わったが、気がほくほくしていたぼくはちょっとしたテント風の小さなバルに入りさっそく一杯やりはじめた。グラスの赤ワインとスモークソーセージ(ザワークラウトのような位置付けにある香ばしいオニオンつき)。これでなんと2.7ユーロ。さらに大きく切った焼きチーズをオーダーする。ワインは甘みがあり、この価格にしては信じられないほど美味しい。
夜行バス明けだったので午後も早い時間にはいそいそとホステルに帰ってきて、静かで薄暗いドミトリーでどっかりと眠った。夕方に起きて動き出したときもやはり雨が降り続いていたが、案の定というか、夜も似たような店を探し歩いて、ポークシシケバブとビレッジサラダ、ドラフトビールという内容で初日をしめくくることになった。反省はしていない。

 

2019年5月 たいchillout

 

 

【ギリシャ/アテネ】「ありがたみ」のほかに

平成から令和へ

ギリシャにいるあいだに日本の元号は平成から令和に変わった。日本ではそれなりに盛り上がっているようだが、こちらはふーんという感じだ。距離的に遠いところにいることだけがその理由ではない。
「時代の節目」はたしかに同時代を生きる人々に高揚感をもたらす。だが、改元があったからといって私たちの人生も都合よく締めくくられ、仕切り直されると考えてしまうのはいささか発想が勇み足だ。ぼくは傾向として、そういうところに慎重になる。筋トレもスキンケアも日経平均もシーズン打率もぜんぶ昨日の続きから今日がはじまるわけだ。平成が令和になっても、令和がチクワになっても足りないポイントは依然として足りないままで、必要ならばこれからもこつこつとこれまでと同じように積み重ねていくしかない。だって、実際そうじゃん? 奇をてらって妙なポジションをとりたいわけでもなく、ぼくはそのシャープな現実を、冷静に受け止めていたいと、いたって真面目にそう思う。そしてそこからも希望を生み出すことはできると信じている。

 

「ありがたみ」のほかに

かのパルテノン神殿が鎮座するアテナイのアクロポリスには入場しなかった。20ユーロ。別の場所にある別の遺跡なども見学できる5日間の通しチケットは30ユーロ。似たような価格でピラミッドを見た記憶が新しかったし、この一年弱どこに行っても世界遺産があるので、「ありがたみ」や「そこに行ったという事実」のほかになにか別の動機がないと、どうにも見学するモチベーションがわかなくなっていた。

そのかわりに、美しい景色、印象的な光景には街で出会う。

白いTシャツ、赤いエプロン、ジーンズ。うまそうにタバコを吸いながら親しげに誰かと電話をしている飲食店の女性スタッフ。束の間の休憩時間の至福の一服と見える。

お菓子売りの台車を押して歩く老人。彼に、露店のアクセサリー屋の女性がおどけて敬礼をしてみせる。きっといつもこの道で顔を合わせている二人の、ささやかな仲間意識。

アコーディオンを弾く女性のストリートミュージシャン。彼女のためのチップが入った缶を蹴り飛ばして通り過ぎた男性。わざとだったら最低。

閉店後のペットショップのショーウィンドウ、鉄格子越しに水槽の熱帯魚を凝視して動かない老人。

大聖堂の宗教画に祈りを捧げるようにキスしたひと。

読書をしながら通行人の恵みを待つ乞食。

彼に見向きもせずに通り過ぎる、陽光に輝くブロンドの美女たち。

たむろすることで絆を深め合う移民たち。

 

途中、港町のピレウスに日帰りで出かけたのも含めて、アテネで5日過ごした後、次の目的地であるアルバニアに夜行バスで向かった。そこから先、ぼくはバルカン半島をほぼまっすぐ北上していくことになる。アルバニアに行くことを計画していたわけではなかった。『深夜特急』の沢木耕太郎ギリシャからフェリーでイタリア入りしているし、テッサロニキを経由して陸路でブルガリアやトルコを巡るのも魅力的な選択肢だ。もちろんエーゲ海に浮かぶ無数の島々のことだって考えた。アルバニアを選んだのはひとつの結果にすぎない。

 

2019年5月 たいchillout