【番外編】旅行記と紀行文と旅ブログ

旅行記と紀行文と旅ブログ

カフェ「Mon Cheri」でパニーニとアメリカーノの朝食。ティラーナは二日目の今日も雨。店員の女性はSFアニメの宇宙人のような目の色をしている。

突然だが、旅行記と紀行文と旅ブログは以下のように異なるものであると感じる。

旅ブログはその国について知りたいという読者の需要にこたえ、旅行記はその国の雰囲気を味わいたいという読者の需要にこたえ、紀行文は自分のために書く。

アルバニアの首都、ティラーナで泊まっていたホステルには、これから訪れる予定のバルカン半島諸国やイタリアをあつかった日本語のガイドブックや雑誌が少し置いてあり、それらを「Mon Cheri」に持ち出して読んでいるうちになんとなく上記のように考えるようになった。

ぼくが書いているこのブログは、メディアとしては旅ブログだが、その性格は紀行文に近い。
本格的な旅人はおおむね無職なので、旅ブロガーは「ブログで稼ぎたい」という野心を持って旅ブロガーになるのだろう。そうするとSEOを意識せざるを得ないし、人が「知りたい」こと、人の「役に立つ」ことを書くインセンティブが生じる。必竟、行き方や乗り方、買い方、おすすめスポットなどの紹介が旅ブログのメインコンテンツになる。お手本も多く、旅ブログは書きやすい。

他方で、旅関係の雑誌などに寄稿されているエッセイの類はほとんどが旅行記だ。旅行記の文章はいつも写真とセットで誌面上に組まれ、雑誌を手に取った読者が最初に期待していた雰囲気を裏切らない洒脱で幾分予定調和的な文体が特徴になる。旅行記を書くのは主に「ライター」の人たちだ。読者は束の間、旅をしているような気分を味わい、うっとりする。しかしそれは、幻想としての旅である。

ぼくはブロガー以外にも生きていく道があるし、「幻想を見せる」ことには消極的だ。旅はむしろ、幻想から脱却した先に存在する。幻想を駆使し「旅の素晴らしさ」を世に広めようと活動?している人たちもいるようだが、旅が素晴らしいことなんてすでにみんな知っているんだから、効果はどれほどなのかなとぼくなんかは穿って見てしまう。

ぼくは、作家による文章ばっかりの紀行文を読むのがなによりも好きだ。だから自分でも紀行文のように書くのが自然なことだった。紀行文には個がある。楽屋落ちやセルフツッコミは無い。読み手とのインタラクティブな関係は構築されない。個はときとしてうっとうしい。書き手を好きになれなければ読めないし、自己投影して楽しむことは難しい。冷めた気持ちで読めばすべてが自慢話に聞こえてしまう(自慢話にとられないための現代的な安全弁が「セルフツッコミ」や「インタラクティブな関係」なのだとぼくは思っている)。でも、大多数の旅ブログは役に立つ以上の役には立たないし、ウェルメイドな旅行記も旅の上澄みを掬っただけに思えて退屈なのである。

 

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