【ウズベキスタン/ヒヴァ】人生のトライアングル

なんでわかった?

VIPシートなのに隙間風は入るしコンセントに差したスマホは充電されなかった。二人部屋だったが、ぼくが入室したときそこにはすでに二人のウズベキスタン人いた。ここはぼくの場所だよ、と言うと談笑していた二人は愛想良くそれを聞き入れ、そそくさと出ていった。正規のルームメイトは現れないまま、電車はタシュケントを出発した。バッテリー節約のためにiPhoneの「モバイルデータ通信」をOFFにした。さよならインターネット。部屋にあった二人分の毛布をかけて、ぼくは電気を消した。

真夜中に目が醒めた。停車したようだった。きっとサマルカンドだ。独占できると思っていた個室にルームメイトがやってきた。残念。ひと眠りしてぼくは十分に寝ぼけていたが、その中年男性はどう見ても日本人だった。所作は丁寧で好感を持った(シャオロンのデジャブ?一瞬だけソレがよぎった)。ぼくは聞いた。
「Where are you from?」
当然、Japanと返ってくるものと思っていたが違った。男性は台湾人だった。そして男性は言った。
「You are Japanese」
「なんでわかった?」
「わかるさ。簡単だ。長い旅をしてるんだろ?」
男性はそう言った。
ぼくはまた聞いた。
「なんで長い旅をしてるとわかった?」
「わかるさ」
男性はまたそう言った。男性は荷物を整理するために電気をつけてよいかとぼくに尋ねた。とても節度のある中年男性だった。無精髭を生やしていたが、知的な風貌をしていた。こういう"おじさん"もいる。男性はすぐに電気を消した。ぼくは寒かった。しかし男性にちゃんと次のような事実を伝えた。
「実はこれ一枚、あなたの毛布なんだ」
男性は笑って毛布を受け取って続けた。
「おしゃべりする?それとも寝る?」
ぼくは太陽の動きに忠実なのだ。
「寝る」
男性は気を悪くする様子もなく答えた。
「わかった。寝よう。明日、喋ろうね」

台湾人か。やはりと言うかなんと言うか、中国人とは雰囲気がちがう。ぼくは三年前に友人たちと二泊三日の台湾旅行に行っていた。確かに、台湾は日本に似ていた。日本語を話す人も多かった。この旅で台湾人を見かけたのは二度目で、話したのは初めてだった。

 

人生のトライアングル

翌朝、暖かい緑茶を飲んだ。部屋に用意されていたのだ。これがVIP待遇のひとつなのだろうか。男性はリーさんと言った。日本にはすでに八回も来ており、訪問ルートを記録した地図アプリを見せてくれた。「食べログ」や「じゃらん」などのアプリも使いこなしているのだから恐れ入る。リーさんは台湾の桃園国際空港の近くに住んでいた。どうやら不動産を持っているらしい。家族も持っているような感じだったが、直接は聞いていない。ぼくも三年前は桃園国際空港から台湾に入国していた。「あのピーチの空港ね、知ってる」とぼくは言った。

ぼくは自分の旅の話をした。リーさんも旅の話をした。仕事の休みをとって、よく数週間の旅をしているらしい。今回は中央アジアがコンセプトのようだ。やはり、どうみても、雰囲気が日本人に近い。中国と台湾の文化的な差異に関する知識をぼくは持ち合わせていなかった。彼らの人としての雰囲気をつくるものは、一体その国の、なんなのだろうか。

リーさんとは多くを話したが、ぼくがメモに残したことはそれほど多くはない。最も印象的だった以下の話だけ、ぼくはしっかりメモをしていた。

「人には、トライアングルがあるんだ」
「トライアングル?」
「そう。お金と、時間と、健康だ」
リーさんは言った。
「一人旅は素晴らしいが、ときどきとても疲れる。寂しくもなる。一ヶ月で十分だ」
ぼくは相槌を打ってただ聞いていた。
「荷造りをして、またすぐに荷造りをする。それの繰り返しだ」
その通りだ。それでもぼくは疲れない。寂しくもない。基本的には。
「人にはトライアングルがある。その三つが揃うことは人生で一度もないんだ」
「そうなのですか?」
「うん。歳を取ればそれなりに金がある。しかし健康がない。自分はいま腰をやっていて、ちょっと動くと…だめなんだ」
「…」
「仕事もね。歳をとって辞めると、なかなか次がない」
「はい」
「若い人は健康も時間もある。しかしお金がない」
「そうです」
「だから、きみみたいに、それでもお金を作って、旅をすることはとても素晴らしいことなんだ」
Do it. それをするんだ。リーさんはそう言った。ぼくのバックパックを見て「それ新しいよね」と指摘した。
「はい。この旅のために買ったんですよ」
ぼくは答えた。
「この旅のためにか…。とても良いことだ」
本心からそう思っていることがぼくには分かった。

陽は昇り、長く続いた砂漠から街が姿を現した。ウルゲンチ駅に到着した。

 

一人旅とはそういうもの

ウルゲンチ駅からヒヴァに行けるらしかった。しかし、そのルートをリサーチする必要はぼくにはなかった。アライくんがいたからだ。実のところ前日の段階で、ヒヴァに前乗りしていたアライくんからワンデイツアーの誘いがあった。「ツーリストインフォメーションで会った人たちとタクシーをチャーターして"カラ遺跡"を巡る」とのことだった。ウルゲンチ駅には無数のタクシーの客引きがいた。ぼくはリーさんと共にそれを掻き分けた。その中に、しつこく腕をタッチしてくるヤツがいた。痺れを切らして振り向いたら、それがアライくんだった。

リーさんと別れ、タクシーに乗り込むと、もしかしたら、とは思っていたがそこにはアライくんの他に二人の日本人がいた。イニシャルは二人ともOさん。男性のOさんと女性のOさんだ。男性は45歳で妻子持ちの神戸からきた一人旅行者。好奇心旺盛で少年のようなところがあった。女性はおそらく独身だろう、埼玉の医療機関に勤めておりぼくよりは年上だろうと思えた。おっとりした話し方をした。ぼくは少しだけツアーに不安を抱いていたが、二人ともほんの数秒で良い人だと分かった。ぼくはアライくんに助手席を譲ってもらい、快調な気分でカラ遺跡ツアーになだれ込んだ。助手席で乾燥プルーンを食べた。

1世紀。と言われてもなにも想像つかないだろう。ぼくたちは、1世紀とか3世紀に文明が栄えた遺跡をツアーで巡った。ほとんど砂漠の中にあった。土で出来ているためか、それとも風化のせいか、砂が奇妙な形に盛り上がっただけのような、あまりに古い遺跡だった。雄大さは申し分なかった。ぼくが感じてるよりも多くの刺激を、アライくんは受けているようだった。ぼくはなんとかその時代を思い浮かべようとした。多くの場合それほどイマジネーションは湧かなかった。しかし、これが「楽しい旅の時間」であることにはどうやら間違いはなかった。二人のOさんも仕事の休みを見つけてはよく海外旅行をしているようだった。今回は二人ともウズベキスタンに絞った一人旅だった。

昼食のためにレストランで車を止めた。ここでもラグメンだ。ナンもついて、四人でシェアするために大きなチキンも頼んだ。ぼくはひとりだけ瓶ビールを飲んだ。中央アジアのレストランには、トイレに行かずとも、手洗いをできる水道が店内にあった。ぼくはそれを知っていたので、まずは水道の場所を尋ね、その足でビールグラスを受け取った。

もうそれは夕方だった。三つの遺跡と一つの小さなミュージアム、公園への訪問を終え、ぼくたちはヒヴァに到着した。これがヒヴァか。それは夕日に照らされた城壁だった。その中に街があるようだった。ぼくたちは城壁内に入るための、メインの門の前に降ろされた。三人とも昨日すでに一泊していて、城壁の中も探索済みらしい。城壁の外側にある、つまり今ぼくらが目前としているログハウス風の建物を指さして、そこのドミトリーに泊まっているとアライくんは言った。ぼくたち四人はとりあえずそのゲストハウスの庭に集まり、あとで夕食を共にする約束をした。

ぼくは宿の予約をしていなかった。オーナーの母親らしき女性に部屋はあるのかと聞くと、ドミトリーは満室だが、シングルは空いているという。価格はUSドルで2ドル程度の違いだった。2ドルでも神経質になるのがバックパッカーだ。ぼくはしばらく考えて、部屋を見せてもらって、ドミトリーが空いたらそちらに移動すると約束してもらい、2ドル高いシングルに泊まることを決めた。

荷物を置き、地面から一段高いデッキになっている庭に出ると、また新たな日本人女性がいた。宿泊客だった。アライくんのルームメイトらしい。Mではじまるファーストネームを名乗った(日本人相手の場合、名字を名乗るか、名前を名乗るか、迷うことが多い。相手に合わせるのが常だが、こちらが先に名乗るときはぼくは結局フルネームを言うことが多かった。旅慣れてアクティブな人ほど自然に、日本人相手でもファーストネームを名乗る傾向があった)。Mさんも今晩のディナーのメンバーに入っていた。ウズベキスタンの西の果てヒヴァで、一人旅の日本人が五人揃って晩御飯とは。意外と旅行者がいることにも驚いたが、アライくんの巻き込み力も流石だった。ヒヴァで会ったアライくんはタシュケントにいた彼よりも逞しくなっているように感じた。たった一日の変わりぶりにぼくは驚いたが、一方でそれが十分にあり得ることだとも分かっていた。若者の一人旅とはそういうものだった。

夕食までは別行動とし、一同は一時解散した。

(たいchillout@タイ)

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