【ラオス/ヴィエンチャン〜ヴァンヴィエン】真面目で爽やか

舐められちゃダメ?

ヴァンヴィエン行きのミニバンで一人の日本人男性と乗り合わせた。彼の名はS太。オヤジがシンガポールで働いており、自身はニュージーランドでつい先日までワーキングホリデーをしていたという大学生だった。ワーホリが終わってからシンガポールのオヤジの元に少し滞在したのち、就活がスタートするこの春までの間、東南アジアを旅していた。
在籍は横浜にある名門大学であり、英語も達者。ワーホリでも複数の仕事を掛け持ちしてこなしていたと言うだけあって、自分の能力に強い自信を持っている若者特有の勢いがある。
S太はバンコクからヴィエンチャンへ北上してきたので、カンボジアからラオス入りしていたぼくとはルートが違う。ぼくが長い旅をしているんだと話すと、S太は負けじとワーホリ時代の仕事ぶりやバンコクでの夜遊びの武勇伝を語り出す。
ぼくより背は低いがガッチリした体格の彼は、バックパッカー的たくましさのカケラもない体型のぼくを見て思ったのか、
「向こう (ニュージーランド) では細いと舐められるんで筋トレで身体デカくしました」
と主張した。
なるほど、確かに東アジア人は体のつくりからして細く小さい。あるいは西洋人の中にはそれを「かっこわるい」と見下す人もいるかしれない。そして日本人の中にはそれをコンプレックスだと感じている人もいるのだろう。だがぼくはコンプレックスどころか、自分の華奢な手首や風通しの良い二の腕なんかは西洋人と比べるとなんとも涼しげでいいもんだなあと思っていたくらいだった。
S太はこれまたぼくの顔を見て思ったのか、
「向こう (ニュージーランド) では舐められないために髭をこしらえたんですよ」
と主張した。
なるほど、アメリカのビジネスシーンなんかでもなるべく老けて見られた方が有利だからという理由で髭を作ったりする日本人がいるという。
旅なんて舐められてなんぼだとぼくは考えていた。若く見られ子どもに見られ弱そうに見られることで気にかけてくれる人がたくさんいる。異国の地にいることにおいて元来すべての異邦人は弱く助けを必要とするのだから、せめて助けを必要とする人間であることを隠さない方がいい。ましてや民族や人種に依拠した身体的特徴・文化的慣習を「みんなと一緒にしておくのが安心」という理由 (要するにそういうことだろ?) で変えるのは軸というものが無さすぎる。ぼくはそう考えるがしかし、S太は舐められないことに随分と心を砕いてきたようだった。

 

通過儀礼と人生経験

バンコクには日本人に人気のクラブなどが集まっているエリアがあるが、自分はそこではなくもっといいところを知っている、もっといいところで遊んでいるんだとS太はぼくに訥々と語る。S太の中には、同様にバンコクを訪れていた男性のぼくがそれらの通好みな情報に恐れをなし、S太を男として、旅人として尊敬の目で見てくるようになるだろうといった無意識の期待があるようだった。
しかし夜遊びの共通言語を知らないぼくが上手く返答できないでいることにやがて気がついたのか、随分と後になって訊ねられた。
「女の子のお店とか行ってないんですか?」
「行ってないんですよ」
「なんでですか!?ふつう行きませんか!?」
「いやあ、お金を節約しなければならないので」
「珍しいですね。そういう人はじめてです」
S太は間違っていない。日本人男性にとって東南アジアで女を買うことは旅の通過儀礼のようなものであると言っても過言ではない。そこには日本で同じことをするのとは別の意味がある。ガンジス川で沐浴するとか軽いドラッグに手を出すとかと似ていて、長旅では必ずそのチャンスが訪れる。そんな「人生経験」をみすみす見過ごす旅人はあきらかに少数派である。自分は経験というやつをしてやるんだと決意をして、誰もが旅に出ているはずなのだから。

 

真面目で爽やか

にもかかわらず「人生経験」をしていないのは、このぼくが強烈なストイシズムを備え、善良であることへ盲目的な信念を持っている不器用な優等生タイプの人間であるからと思ったのかもしれない。褒めているのかけなしているのかわからない調子でS太は言った。
「なんだかとても真面目で爽やかな感じが伝わってきますね」
それはぼくの行動原理を根本から理解できないでいる彼が苦し紛れに捻り出したコメントであるようだった。ぼくは真面目でも爽やかでもない。より文脈に即して反論するならば、真面目であることと爽やかであることが素晴らしく、女を買うのがダメなのだと一点信じているほど単純で平和な人間ではない。 (ただ同時に、女やドラッグなどの「ヤンチャした経験」が人の面白さを作ると信じているほど単純で平和な人間でもないというだけだ) 
だが、とも思った。
だが、S太が半ば揶揄の思いも込めて言ったはずである「真面目で爽やか」という言葉に対して、いつもの自分が「みくびるなよ」と思っている一方で、はじめてそれを言葉通り受け取っている自分がいることに気がついた。
確かにぼくは真面目で爽やかな男だと言えなくもないかもしれない、と。たとえ幾通りもの屈折を経た結果の判断であっても、自分が清潔で真っ直ぐな旅をここまでしてきているのは事実だった。そしてもしかしたらこれまでの旅路は、そんなぼくをみくびりの気持なしで真正面から「真面目で爽やか」だと捉えてくれた人たちの助けゆえに順調であり、好意ゆえに楽しかったのかもしれない。より簡単に言えば、自分が思っているよりもぼくは傍からは真面目で爽やかに見えて、そのおかげで色々と得な思いをしてきたのかもしれないと、今はじめてその可能性に気がついたのだった。真面目で爽やかというその見立てが本当に正しいかは別にして。
長々としたS太の話が面倒なのでぼくは途中から窓の方に顔を向けて黙り込んだ。だがその間考えていたのは彼の言葉に導かれた、自分への新しい種類の肯定についてだった。

ヴァンヴィエンについた夜からS太とは会っていない。二人ともルアンパバーンを経由し、やがてぼくはタイへと、S太はベトナムへと越境した。就活は上手くいっただろうか。いや、きっと上手くいっただろう。たまに更新するインスタグラムでS太がかますつまらないボケが、ぼくは嫌いではない。

(たいchillout)

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