【ラオス/ヴィエンチャン】調和と予定調和


はじめてのHIS

ヴィエンチャンでHISに行った。それまでは日本人のいることが明らかな場所 (日系旅行会社、日本大使館日本食レストラン、日本人宿) に軽々しく出向かない制約を、特に理由もなく、課しているようなところがあった。しかしヴィエンチャンの街を歩いてその一等地に立つHISの看板を目にしたとき、「ここでまたひとつ、コダワリを取ってみるのもよかろう」という風に気持ちが動いた。長い旅はその形を変えていく慣性を備えている。移ろいゆく心が今こそ移ろおうとしていることに目を止め、なるべくその慣性に従うのだ。
HISで訊ねたことは二点ある。ひとつは次の目的地であるラオス北部のヴァンヴィエンについて、その行き方と所要時間。もうひとつはここヴィエンチャンでオススメのお食事処。じつは後者についてぼくはそれを訊ねる前から期待していた答えがあった。HISの女性社員は言った。
「ここの下に日本人のマスターがやっているレストラン・バーがあるんですけど」
ビンゴ。このHISが入っている建物の一階にどうやら日本人経営らしいセンスの良さそうなバー風なレストランあるいはレストラン風なバーが入っていた。ぼくがHISを訪れた背後にはその店についてのリサーチを行いたいという隠された目的があったのだ。

 

どんな旅してんの?

Dというそのバーにその日の夜に行くことに決めてホステルに戻り延泊を申し出ていると、いかにもバックパッカーな風体のアジア人男性がホステルを訪ねてきた。
男性は、英語に長じてはいないようである中国人のホステルスタッフに一泊の宿泊代金を訊ね、それをタイの通貨である「バーツ」で支払いたいと主張していた。ここはタイではない、ラオスだ。街外れのメコン川を渡れば確かにタイであり、両国の国力には歴然とした差があるのも事実だが、(非ユーロ圏のヨーロッパの小国でユーロが使えるように) ここでもタイバーツの融通がきくのだろうか。
やがて交渉が成立したのか、部屋を見て来た男性は、エントランス前の庭でベンチに座ってことの成り行きを見守っていたぼくに向かって言った。
「Where are you from?」
「Japan」
「I think so」
男性も日本人のようであった。しかし、そこで日本語に切り替えず、英語で返してきたのには面食らった。I think so 以外にも所々で日本語の会話に英語が混じっていた。
インパクトのあったのは話し方だけではない。その風体もだった。髭と髪を存分に伸ばし、ダボっとしたズボンにダボっとした上着。どのような形の服をどのように重ねて着ているのか素人目には判別することが困難である。要するに絵に描いたようなバックパッカースタイルをしていた。
男性はぼくの正面の椅子に座り言った。
「で、どんな旅してんの?」
で、どんな旅してんの? ときたもんだ。間髪を入れないタメ口であるだけでなく、こちらが長期バックパッカーであるとはなから決めてかかっているところが、つよい。
それにしても旅人同士が出会ってからこれほどまでスピーディーに「どんな旅してんの?」という話に入ったのは初めてである。相手が年上か年下かに関わらず基本的に敬語で話し、他人行儀なぎこちなさも込みで慎重に信頼を得ていこうとするぼくとは真逆のコミュニケーションスタイルを男性は旅の武器としており、そしてそれに強い自信を持っているようだった。

 

沈没スポット

一通りお互いの旅の話をした。何度も同じルートを説明し続けてきているので話に詰まることはない。男性はヨーロッパ三ヶ月の旅を終えた後、タイをぶらぶらして現在にいたっていた。ヴィエンチャンに来たのはタイのビザの関係で一度タイを出国する必要があったためらしい。だからタイバーツでの支払いにこだわっていたのだ。東南アジアには相当熟練しているような話ぶりだった。
男性はバックパックからバナナを取り出してぼくに薦めた。ぼくはそのひとつを受け取った。食べ終わったバナナの皮を男性はホステル敷地内の庭の奥へぶん投げた。
男性は、「J」とファーストネームだけを名乗った。ぼくがフルネームを名乗ると、男性はぼくのファーストネームを褒めた。理由を訊ねたところ、死に別れた親友がぼくと同じ名前だったらしい。縁起が悪いことを平気で言うねえと内心突っ込みつつも、ぼくがそういうことに気を悪くする人間ではないことは幸いだった。むしろ旅人としての自分がいっそうドラマティックな星の下にあるように感じ「そりゃなんだかかっこいい」と小気味良く思った。

Jさんのヨーロッパツアーには目的があった。それはプロデューサーを探すこと。どういうことだろうか。聞いてびっくり、Jさんは自分がミュージシャンであると名乗った。ギターを弾き自分の曲を歌うそうだ。ぐっと親近感が湧いたが、どこのギターを使っているのかと聞くと、よく分からないと言った。英語が流暢な上にヨーロッパでプロデューサーを探しているくらいだからグローバルでの活動を視野に入れているのだろう。歌詞は英語で書いているのですか? と訊ねたら驚くべき答えが返ってきた。
「自分の言葉」
「日本語ってことですか?」
「違う。オリジナルの自分でつくった言葉。サンスクリット語とかから引用してきたりしてるけど」
それでは自分以外誰も歌の意味が分からないではないか。そういったジャンルが世の中には存在しているのだろうか。音楽通を自称するぼくにしても初めて耳にするスタイルだった。

今後はラオス北部のルアンパバーンからタイ北部のチェンライに抜けていくつもりだと伝えると、タイでとある村を訪れるように薦められた。
「パーイって村があってね」
「村……ですか」
「うん。世界にはいくつかさ、エネルギーの集まる場所っていうか、特別なバイブレーションのある土地ってのがあるじゃん?」
「あ、はい (エネルギー?? バイブレーション??) 」
「パーイもそういうとこ」
「なるほど (どういうとこなんだろ?) 」
後からまた別の日本人から聞いて知ったことだが、パーイという風光明媚な小さな村には日本人のバックパッカーコミュニティができており、日本人バックパッカーには「沈没」 ( = 旅人が長く同じ土地に留まってしまうこと) スポットの定番として有名であるようだった。沈没してしまう理由の一つにはドラッグがあるという噂も聞いた。

 

予定調和

若く見えるがJさんは三十代後半で離婚歴があった。いろんな旅人がいるものだ。ぼくはその後予定通りタイの北部を訪れたが、その際もついにパーイに出向くことはなかった。
何故だろう。ドラッグを否定する気はないが興味もない。エネルギーやバイブレーションを否定する気はないが興味もない。日本人コミュニティを否定する気はないが、やはりそれにも、結局のところ興味がなかった。
サラリーマンにしては髪が長すぎるような時期もあったにも関わらず、旅人になったぼくは髪も髭も伸ばさないことにしていた。旅人らしい服を仕立てたりもせず、東京生活の私服そのままで日本を飛び出した。だからぼくを一見して、旅歴半年以上のバックパッカーだと感じる人はほとんどいないはずだ。それどころか軟弱なおぼっちゃんに見えたって不思議ではない。自分の風貌や物腰が実情を伝えるために的確なものとは言えないことを自覚した上で、あえてそのままにしている節が自分にはあった。
バックパッカーが自らの風貌や生活を汚していくことには意味がある。例えばそれは旅先で舐められないための防衛でもあるし、出会った旅の者同士が手っ取り早くお互いの同質性を認め合うための目印としても機能する。来た道の実績を誇れる勲章でもあればこそ、行く道へ奮い立つ背中を後押しもするだろう。
しかしぼくは結局そういった衣装を纏わず、パーイには沈没しないバックパッカーだったということになる。日本人コミュニティ、ドラッグ、バイブレーション、そしてきっと酒と音楽。そこで得られるのは自由、退廃、享楽、仲間、青春。パーイにはある種の日本人バックパッカーの典型が潜んでいるように思えたのだ。

典型。悪く言い換えれば予定調和だ。そうか…とここでひとつ自分の性格について思い当たることがある。
ぼくは予定調和な空間に漂う空気が人一倍苦手のようだ。バックパッカーらしい服装、バックパッカーらしいコミュニティ、自由っぽい自由、退廃らしい退廃、仲間らしい仲間、感動らしい感動、会社っぽい会社、愛情らしい愛情。予定調和の一部になるなら一人ぼっちが百倍ましだ。予定調和は人生最大の嘘だという感じがする。
しかし予定調和が人生最大の嘘である一方で、調和は人生最大の輝きであるということもまた事実。だからこそ人は調和を求めて、予定調和に走ってしまうのだろう。

(たいchillout)

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