【ラオス/パクベン・ファイサーイ】川沿いの村、国境の町

戦後復興期の日本

一泊二日メコン川ツアーの夜に立ち寄ったパクベンという村は、ぼくが個人的にイメージする戦後復興期の日本に似ていた。密集している粗末な家々の扉はどこも開け放たれ、夕暮れの炊事がはじまる気配とともに駆け回る子どもたちの声が路地に響く。父は子を原付バイクの背に乗せ、老婆がかまどの火に息を吹きかける。濡れた髪の少女がパジャマ姿で玄関の扇風機で髪を乾かしている。一キロも歩けばもうそこは村の外れだった。村はメコン川沿いにありながら同時に山肌にある。陽が落ちて星が輝き虫が鳴く。ぼくはレストランを選び、そこでバッファローの肉を使ったという Fried Noodle を食べてビアラオを飲んだ。会計した後、店員が小声で何事かをささやいた。「○○ジャ?」
うまく聞き取れなかったので、聞き返すと店員は表現を変えた。
マリファナ?」
なるほど、そういうことか。
「haha, ......no」
最初はガンジャと言ったのだろう。一人者のバックパッカーにはドラッグを売るのがならわしになっているのかもしれない。買う奴がいるから売るのだろう。
いいと思う。多少デンジャラスでもぼくだって未知の物事にチャレンジしたい気持ちはある。危険を犯して、ギリギリを見てみたいと心のどこかでは望んでいる。だってそのために旅をしているのだから。
ぼくがドラッグに手を染めるのを押しとどめているのは理性ではない。倫理でもない。モラルでもない。ただの節約だった。
すでにチェックインしていたホステルに帰り、ひさしぶりの個室でシャワーを浴びて眠った。窓に立てばメコン川が見下ろせたその部屋で、目を閉じても川の流れる音が聞こえたかどうかは、もう覚えていない。

 

文明、非文明

バゲット、目玉焼き、ベーコン、オレンジジュース、コーヒーの朝食を食べ、昼食用にサンドイッチを包んでもらい、再びボートに乗った。この宿に一人旅はぼくだけだった。ぼく以外はペアやグループで旅している西洋人ばかり。西洋人は自然を好む。彼らの口からこれまでどれだけ「nature」とか「countryside」という単語が発せられるのを聞いてきたことか。
日本人はどちらかと言えば都会に憧れを抱く人が多い。韓国人や中国人も比較的そういう傾向にあるし、なんならこの先訪れた各地で出会ってきたアラブ人やアフリカ人もそうだった。
だが西洋人だけは自然に飢えている。そしてそれこそが逆説的に、彼らが根っからの文明人であり、ぼくらがそうではないことの証なのかもしれない、と思った。高いビルや豊かな消費、物質的な暮らしへの憧れを追求している限り、日本はいつまでも「非文明」の側にいる。

 

国境の町

ボートに乗り込んで昨日顔馴染みになった韓国人のカップルと「グモニ〜」と挨拶する。極東アジア人のカップルがいたらほとんどは韓国人だ。一人旅は日本人が多く、女性二人組は中国人が多い。ぼくは韓国人カップルが好きだ。たいてい女性の方が英語が上手でスレンダーで「お見事!」と言いたくなる美人。男性は身体つきはがっしりとしていていざというときは頼りになりそうだが、物腰は柔らかく素朴に話す。彼女はスマイル上手で、彼氏はハニカミ屋。違う種類の笑顔。この二人もそういう典型的な韓国人カップルだった。

昨日に引き続きボブ・ディランを聴いて、その流れで友部正人仲井戸麗市を聴く。ディランの自伝をkindleで再読し、昼食のサンドイッチを取り出す。するとはみ出したレタスがコーヒーの中に落下した。サンドイッチで空腹が満たされず、しばらくデイパックに入れていた食パンを取り出したところ見事にカビが生えていたので、カビが生えていない部分をちぎって食べた。
川の景色は見飽きない。村も何もなさそうなところで袈裟を着た少年たちが川で水浴びをし、川の水で洗髪、そして歯磨きまでしていた。
そして国境の町ファイサーイに到着した。川の対岸にはタイのボートがつなぎ止められ、船首にはタイの国旗が掲げられている。こちら側にはラオスのボートたちが停泊し、ラオスの国旗が掲げられていた。

ファイサーイに何泊するか決めていなかったが、チェックインしたホステルで翌日以降のブッキングが埋まっていたので一泊でタイへと国境を越えた。
国境越えの朝、タイのチェンライへと向かうバスが発車するバスターミナルまでトゥクトゥクで向かっているとき、朝日に照らされたメコン川が煌めいた。そう。思えばラオス旅は、カンボジアからシーパンドンへと越境したその日から今この瞬間まで、最初から最後までメコン川と共にあった。誰でもなくメコン川にぼくは愛着と寂しさを感じてこの国を離れようとしている。トゥクトゥクに途中から乗り込んで、別のバスターミナルで降りて行った半ズボンのドイツ人バックパッカーとはろくに話す時間もなかったが、先に降りて行った彼が囁くように言い残した言葉をぼくはちゃんとメモに残していた。その言葉はぼくだけでなく、その朝どこかの国から別のどこかの国へと国境を跨ごうとしている全ての旅人に向けて囁かれたみたいに、どこか啓示的な響きを持っていた。
"Safe Travel"

(たいchillout)

ラオス編終わり

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【ラオス/メコン川】ミサンガの子どもたち

オン・ザ・ボート

ボートの中で朝からビールを飲む人たちがいる。ぼくはコーヒーを5,000キープでオーダーした。汚れたガラスのコップと一杯分のインスタントのスティックを渡されて、すぐそばのポットからお湯を入れて飲んでみるとミルクと砂糖の味がする。甘かった。
このボートはラオスルアンパバーンを早朝に出発しメコン川を上流へとさかのぼる。今夜は川沿いの村であるパクベンに停泊し、明日の朝再びボートはパクベンを発つ。そして明日の夕方にはタイを目前とした国境の町であるファイサーイへと至る予定だ。ファイサーイからぼくはこの旅二度目のタイに入国を果たし、北部のチェンライを目指す。一泊二日のボートツアーの幕開けだ。

天気は良かった。屋根はあるが壁はなく、窓もなく、したがって風だけでなく水しぶきもときおり吹き込んでくる。このモーターボートにWiFiはない。トイレはある。電源コンセントはある。しかし電気は通っていない。
座席は自由席で真ん中の通路を挟んで全てがボックス席になっている。コンパートメントにはなっていないので、座りながら首を伸ばせば船内が見渡せる。ボックス席は二十くらいあるだろうか。誰かと相席する必要がありそうだ。やはり、ぼくが乗り込んだ時点で空のボックス席はなかったので、ぼくは穏やかで知的な雰囲気のある若い西洋人男性に軽く目で挨拶し、彼がひとりで座っていたボックス席に相席させていただいた。
まだボートが出発する前、電源コンセントにケーブルを差し込んでも給電されないのを訝しみ首を傾げているぼくに彼は大人びた表情で言った。
「きっと出発したら給電されるさ」
そうかもしれない。バスや電車でも、動きだしたら給電されるパターンはよくあった。しかし、ボートが動き出してもこのコンセントに電気が通ることはついになかった。
男性はカバンにウクレレを裸で結びつけていた。出発して間もなく、通路を挟んで向かいのボックス席にいるスレた感じの西洋人女性が「それ、弾かせてくれない?」と気安く声をかけ、やがてフィンガーピッキングで気持ちの良い旋律を奏でた。その間ウクレレの持ち主は、机に向かって何か書き物をしていた。

ボートの旅は長い。実に明日の夕方まで、ぼくはほとんど何もせずただボートに乗っていれば良かった。このような長い移動時間を、少なくない人々が「せっかくの旅行のタイムロス」だと捉えるかもしれないが、ぼくはむしろこれこそが旅の最高の贅沢として好んでいた。十時間も二十時間もただ景色を見て物思いに耽っている時間を他のあらゆる旅の時間に劣らず楽しんでいた。
バスでも鉄道でも移動時間が長ければ長いほど、体がつらくなることへの恐怖心を上回って、乗車前は胸が高鳴った (飛行機と車は除く) 。そんな長距離移動の機会がやってくるのをぼくはいつも心待ちにして、移動計画を練っては半ば意識的にそれを捻出した。なるべくゆっくり次の街へ行きたかったのが本心だ。オン・ザ・ロード (この場合はオン・ザ・ボートか?) 。旅は途上に存在するのだ。

メコン川は濁りに濁っている。しかしそれが景観上の減点ポイントになることはなかった。その濁りは、ベトナムサイゴン川やカンボジアのトンレサップ川が濁っているのと同様に、川と人々が長い歴史をともに生き延びてきた勲章のように思えた。

 

ミサンガの子どもたち

しばらくして船内は落ち着きをみせ、広州の二人がくれたお茶にお湯を入れて飲んで、寝転がる。膝を立てて寝転がる。イヤホンをつけてボブ・ディランを聴く。旅している間はボブ・ディランをよく聴いた。ボブ・ディランはどこの国の景色にもよく馴染んだ。寝転ぶと視界は木の天井と青い空、あとはときおり流れる、あるいはとどまっている白い雲を除けば、深緑の山々だけになる。山々を切り裂くメコン川を鳴り止まないモーターの振動を唸らせてボートは走る。ぼくはそうして寝転がりながら『ハックルベリー・フィンの冒険』を思い出す。あの小説でハックが下るのはアメリカ南部のミシシッピ川だ。ボブ・ディランが「ブルースの血流」と表現した伝説の大河、ミシシッピ川。いつかぼくもハックが筏 (いかだ) で下ったあのミシシッピ川に行きたい。いや、行くだろう。行きたい場所に行かない人生をイメージしたことはなかった。
停泊場のないほとんど崖のようなところでボートはときたま停泊した。そこで乗客を下ろした。降りていくのは皆ラオス人だった。彼らは日常的な交通の足としてこのボートを利用しているみたいだった。そんなとき、岩の上からみすぼらしい格好をした子どもたち顔を出してこちらを見ていることがあった。客観的に見て、彼らはいかにも「貧しい国の子どもたち」の身なりをしていた。ボートの乗客の多くは彼らの姿を写真におさめた。ぼくはその行為に嫌悪感を感じた。
食堂はない。パンを持っていたが、昼食のためにだいぶ割高なカップラーメンを買ってお腹を膨らましたところで一眠りすることにした。

ボートは何度も川辺に停泊し、その度にポツポツとラオス人が降りていった。もしかしたら乗ってくる人もいたかもしれない。だが、なによりも気になったのは、いつしか停泊する度にその地の岸辺から裸足で船に駆け寄ってくるようになった子どもたちだった。
子どもたちは硬そうな砂の上を裸足でかけて来てボートが停止する前からジャンプして船に飛びついた。ロクに船着場がないところなので、船が陸地に完全に横付けされることはなく、船首だけで陸と繋がっているような状況だから、ダイレクトに客席に飛びついた子どもたちの行為は、まさに飛びついたという表現が正しい。飛びつきしがみついた子どもたちは船の柱に腕を巻きつけてぼくら乗客に手を伸ばしてきた。
何をしているのか? なついているのではない。物を売りに来ているのだ。具体的には、どこの岸辺の子どもたちもぼくたちにミサンガを売ってきた。手作りのミサンガを、ときどき船でやってくる観光客たちに売って日銭を稼ぐのがメコン川沿いの子どもたちの共通の日課になっていたのだ。その売り上げは子どもたち自身のお小遣いになるのだろうか。それとも家庭の大切な収入源のひとつなのだろうか。皆ボートの到着時間を把握しているようだっだ。
子どもたちの年齢はせいぜい小学生でいかにも無邪気でかわいかった。もちろんミサンガを買う人もいたが多くの観光客はそれを写真に撮るだけだった。必死にアピールしてくる子どもたちを船の中から写真に撮るのだ。
ぼくが何よりも悲しかったのは観光客の無神経さではない。子どもたち自身が、自らの貧しさが商品になっていることに自覚的であり、それを世の摂理として受け入れてしまっているように見えることだった。
子どもたちはかわいかった。素朴で綺麗だった。ラオス人は美しいのだ。SNSに投稿したらいかにも「凄いトコロ旅してます」って感じが出るだろう。だけど、いやだからこそ、ぼくは意地でも写真を撮らなかった。

(たいchillout)

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【ラオス/ルアンパバーン】関西男と九州男

二つの結婚式

シーパンドン2泊。タケク2泊。ヴィエンチャン3泊。ヴァンヴィエン2泊。ルアンパバーン2泊。ここまで合計11泊。
ラオスは駆け足で旅をした国だった。ウランバートルに21泊、アルマトイに15泊、一つの国ではなく一つの街にそれだけ滞在してきたことを思うと、旅のスタイルが随分変わってきたことを認めざるを得ない。ぼくは少なからず焦っていたのだろうか。このままではお金が尽きる。時間も尽きる。気力だって尽きるかもしれない、と。

ちょうど一月前の2018年12月半ば、中国の広西チワン族自治区南寧市にいた頃。社会人新卒同期の友人から2019年の9月に挙式をするという連絡を受けた。新郎新婦が付き合い始めてすぐの頃に下北沢の魚介系の飲み屋で新郎がぼくら同期に「嫁にしたい」と断言していたことをよく覚えているから、ぼくは有言実行した彼の幸せを心から嬉しく思った。ぼくの長所は人の幸せを喜べることだ。彼を祝福するために必ず行くと返事をしていた。
だが、旅立ちから半年が経過しても未だ東南アジアを行ったり来たりしていることを考えると、9月までにヨーロッパツアーを終えて帰国するのはなかなかのハードスケジュールになる。実のところ不安はあった。
とはいえ、だ。自由気ままを決め込んでいた旅のタイムリミットがこの時ついに決まったという事実が、心の奥底に何らかの意味を持つ楔を打ち込んだことも確かだった。

それともう一つ。ルアンパバーン滞在中には、小学校の頃から付き合いのある古い友人から結婚の報告を受けた。こちらの挙式は5月。参加するのは諦める必要があった。旅立ちの前日にホテルニューオータニのバーで飲んでいたとき、LINEで彼に旅立つことを伝えたら、すぐに電話がかかってきた。腐れ縁の友なので仰々しくならずに努めて軽薄に (旅の期間もぼかして短めに) メッセージしたつもりだったが、ぼくの表向きの気楽さは真実でなく、これが大きな旅で大きな決心なのだと彼には言わずとも分かったのだろう。そんな友人の式に参加することをぼくは諦める必要があった。

 

関西男と九州男

ルアンパバーン世界遺産に登録されているだけあって、ラオスでは最も観光地化が進んでいる印象があった。ぼくはここに二泊した後、ボートに乗ってメコン川を北上し、タイまで突き抜ける計画を立てていた。ボートで国境を越える。ただそのモチーフにロマンを感じて、そうすることを決めたのだ。
到着初日に出会った九州男のO山さん (前回の記事「【ラオス/ルアンパバーン】久しぶりのまともな人」参照) は、ぼくにとってこの街そのものだったと言っていい。出会ったその夜に食事に誘われ、快諾した。夕方に待ち合わせ場所に出向くと、そこにはO山さん以外に別の日本人男性 (若く見えるが中年) と若いラオス人男性もいた。この日はこの四人でメコン川沿いの露店でBBQをする段取りをO山さんの宿泊しているゲストハウスのオーナーが組んでくれていた。そのオーナーこそ、O山さんと会う前に道端ですれ違ったゲストハウス経営の日本人女性だった (前回の記事参照) 。
若く見える中年男性はI上さん。眼鏡をかけている。実年齢は40代半ばだ。ラオス人男性は20歳のサイくんと言う。サイくんは純朴でハニカミ気質、褐色の肌に黒くまっすぐな髪、細身で美形の青年だった。I上さんは大阪で銀行に勤めている。既婚者だが奥さんとは離婚調停中とのこと。離婚調停中にラオスに一人旅をするなんていい根性している。ぼくもそんなおじさんになりたい。サイくんはO山さんの宿泊しているゲストハウスのスタッフだった。英語を勉強したい意思があるらしく、この「飲み会」の案内役と通訳を買って出てくれた。勉強したいと言う通り、英語力はまだまだこれからという感じがある。加えて日本人が三人集ったこともあって、会話のほとんどが日本語で進行してしまったのは申し訳なかった。とはいえ、こちらとしても久しぶりにまともな日本人の──話上手で座持ちの良い年上の男性たちの ──お相手ができたこともあって、サイくんへの気遣いがなかなか回らなかったというのっぴきならない事情があった。関西弁全開のI上さんと九州弁全開のO山さんの掛け合いは終始愉快で、ぼくは腹を抱えて笑って、珍しく気が大きくなっていた。I上さんはさすがにリッチな旅をしていて、一泊四千円する個室に泊まっていた。明日は少数民族のいる村へ行くツアーを組んでいるらしい。ぼくはこの夜、いったいいくつの Beer Lao を飲んだのか分からなかった。

やがてBBQが締まるとお会計を全額持ってくれたI上さんが「女の子のいる店」に行きたいという。付き合い上手のO山さんは「I上さんが行くならとことん付き合う」態度を見せたが、一方でぼくが何か言う前から「たいchilloutくんはそんなでもって感じだよね?」とぼくへの気遣いも欠かさなかった。
ぼくは「二人が行くなら店まで付いていきますよ。酒飲んで待ってますけど」と言った。I上さんはO山さんに奢ると言った。O山さんはそれをはっきりと断ったが、ぼくサイドに同行する意思があるので、ぼくがこの場で取り残される形にだけはならなそうだということが分かったのか、「では店までは付き合います」と宣言した。

善は急げ。ぼくらはトゥクトゥクを捉まえて夜を駆けた。I上さんが事前にお目当てをつけていたお店は少し街外れにあり、周囲は闇の中だった。ぼくとO山さんが座り踏ん反り返ってI上さんを待っていた紫の照明に照らされたロビーの隣のテーブルには、ドレス衣装の「女の子たち」が退屈そうに指名を待って座っていた。明らかに買う気のないことが分かったぼくらのことを完璧に無視している彼女たちは、ラオス人ではなくベトナム人らしい。ベトナム人ラオスで出稼ぎするというのは意外だった。あるいはそれもこの業界ならではのことなのかもしれない。
ぼくは自己申告どおりハイネケンを飲んで待っていた。O山さんはひょっとするとI上さんと一緒に二階に行きたい気持ちもありそうだったが、ぼくに付き合ってくれた。途中、見るからにハイエンドなスーツを着たでっぷりとした中国人の中年男性が来店し複数人の女の子をスムーズにピックアップして二階に消えた。やがて事を終えたはずのI上さんが降りてきて照れ交じりに言った。
「だめだったわ…」
おじさん、頑張ったね。

外灯が自身の影をアスファルトにパラパラ漫画のように映写する様をトゥクトゥクの夜風を浴びながら眺めて、やがて街中に戻った頃には、I上さんは明日同じ女の子でリベンジすることを誓っていた。トゥクトゥクを降りたところで、ぼくだけが宿の方角が違ったので、二人とは別れた。振り返ると千鳥足の二人が肩を組んでヨタヨタとメコン川へと続く一本道を歩き去る後ろ姿があった。ぼくは無意識にiPhoneのカメラを起動し、それを十分にズームして、画質の荒くなった関西男と九州男の後ろ姿をこっそり写真に収めた。それは最高の夜の最高の記憶を記録する大切な旅の写真の一つになった。

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一生敵わない

翌午前、街中で再び偶然にO山さんと会い、朝食 (オムレツ、トースト、ラオコーヒー) を御馳走してもらった。その後頂上に仏教寺院がデンと鎮座する「プーシーの丘」に一緒に登った際もO山さんはぼくの分の入場チケットを極めて自然に払ってくれた。
旅をしていると年齢差のある友人ができて行動を共にすることも多い (旅の至高の醍醐味だと思う) 。そんなときはぼくも年下の友人には気前よくサービスしてやりたいと思うが、思うわりにそれがあまり上手ではない。
バックパッカーは等しく貧乏なのだから変に格好つけるのは不自然ではないか?とか、多く出すことはせっかくの年齢を越えた対等な友人関係を無下にして上下関係を強いることになってしまうのではないか?とか、女性であればせっかくの性別を越えた対等な友人関係を無下にして異性同士であることを意識させることになってしまうのではないか?とか、余計な懸案をしてしまうのだ。偉ぶったところのないままに一瞬にして後輩にサービスし、次の瞬間にはその恩を無かったことにできるO山さんの手慣れた振る舞いはぼくには真似できないと思った。

朝食時に話を聞くことになったO山さんの経歴はなかなかに波乱に飛んでいた。三十五年の半生で日本各地 (+バンコク) への居住経験があり、あまりここには書けないこともしていた。ヤンチャしてきたのだ。留置所、拘置所、刑務所、独房の定義と差異をここまで明朗に人から説明してもらったのは初めての経験だった。
ぼくは内心、ヤンチャしてきた人とは反りが合わないと思っている。ぼくの少年時代の美学は、表向きの「成績優秀で穏やかな優等生」と裏向きの「唯我独尊」を両立するところにあった。表で「唯我独尊」するヤンチャ者は、内実とことん小心者で、仲間がいなけりゃ何もできない、所属欲求の奴隷だと思っていた。真のアウトローたる資格は、でかい自由の荷の重さとその代償となる責任や孤独を今から予感することのできるこちらの側にある。ぼくはそう考えていた。尖った優等生よりも優しいヤンキーの方が美談になる安直なこの世の中、だからこそぼくは尖った優等生の方こそ──「ロックな生き方」に近いと思っていた。

だがしかし、だ。 O山さんの半生を聞いてぼくは一つ得心がいった。彼の極めてスマートな後輩の扱いは一朝一夕で身につくものではない。ヤンチャの世界独特の人情のようなものがその背中から漂っているのだ。ぼくがシステムエンジニアだった話をすると「自分には学歴がないからITとかあんまりわかんないけど…」と律儀な前置きをして、ぼくの仕事や旅に出るまでのいきさつ、これから先の考えを親身に丁寧に聞いてくれた。
彼はこれからパクセーに向かいラオス原産のコーヒーを仕入れるという。商売をしているのだ。
この人には自分が一生かかっても敵わないものがある。だけどぼくがそう思っていることをこの人は知らないだろう。

(たいchillout)

次回はいよいよボートに乗ってタイの国境を目指すメコン川クルーズです。

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【ラオス/ルアンパバーン】久しぶりのまともな人

雨と道路

この旅で学んだ具体的な知識の一つに「道路は雨によって破壊される」ということがある。それを学んだ訳は単純だ。国の経済レベルが同程度であるとき (つまり道路の補修に回せる予算が同程度であるとき) 、雨の多い国であるほど、道路の状態が悪かったのである。
例えばモンゴルの道路はすごく状態が良かった。中央アジアや、中東の砂漠の国々も、どこまでも凛と清潔に伸びたまま青空と溶け合い、パキンと地平線に突き刺さる美しい道路があった。アラブ首長国連邦オマーンを除けば、それらの国々は決して経済に秀でた国というわけでもない。それなのに美しい道路を持っているのは、一度作った道路がひび割れたりしないまま長く維持されているからなのである。
その意味において熱帯の国々である東南アジアは分が悪かった。特に酷かったのがラオスであり、ラオスでもひときわ最低☆最悪だったのがヴァンヴィエンからルアンパバーンまでの道のりだ。あまりにひどいアップダウンで頭痛に襲われるだけでなく、ただ乗っていただけなのにシートにバウンドし続けた尻のあたりが翌日には筋肉痛になっている有様だった。

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こんにちは その1

満身創痍でたどり着いたルアンパバーンのホステルだったが (トイレも我慢していた) 、ドミトリーは清潔で、オーナーは親切で、しかも滞在した二泊ともぼく一人きりだった。ドミトリーに一人で泊まるのは個室に一人で泊まるよりもハイパー気分がいい。こればかりはやってみなきゃわかんないだろう。
荷物を片付けて街を歩きだすと家屋の佇まいにどことなく中国の香りがする (ぼくは中国の香りに敏感なのだ) 。そういえばこの街からダイレクトに雲南省へ抜けるバスがあると聞いたことがある。さすればここはもう文化のすれ違う場所であり、文化のすれ違う場所特有の文化が育まれた街なのである。
市街地に出ると、さすがに地域ごとすっぽり世界文化遺産に認定されているだけはあって、観光客向けのカフェやレストラン、土産物屋が多い。それらの建築物にはそれなりの風情はある一方で、意外と築年数が浅い、若干チープな印象が目に付く。どこかドラクエの世界を探検しているような雰囲気だなあなどと思いながらそろそろと歩いていると、不意に正面から「こんにちは」と日本人の中年女性に声をかけられた。ぼくが日本人であることに確信を持っているところからして相当なやり手であることが感じられる。軽い世間話の後、名刺を渡される。女性はどうやらこの街でゲストハウスを運営しているらしい。物怖じしないところや明朗な話ぶりにはタフな図々しさと人好きのする愛嬌が 6:4 くらいのバランスで同居している。それはいかにも異国で生き抜いていく女性の適正であるように感じた。女性の元に泊まれば何か面白いことも起きるかもしれないと感じたが、すでに泊まるところのあったぼくは、気が向いたら遊びに行くとだけ言って別れた。

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こんにちは その2

やがて市街地のブロックの北端であるメコン川まで辿り着き、川沿いを冷やかしていると、この日二度目の「こんにちは」がやってきた。いやいや、いまぼくは「やってきた」と書いたが、それは正確を期した表現ではない。実を言えば先方と全く同じタイミングでぼく自身の口からも「こんにちは」という純日本語が口をついて出ていたのである。つまりそれは数分前のように一方的にやってきた「こんにちは」ではなく、お互いがお互いを認識し確かめ合った上での安心安全な「こんにちは」だったことになる。川沿いを歩くぼくと、ゲストハウスのような建物の前の椅子に腰掛けてタバコを燻らせるO山さんは目があった瞬間に、いや、より正確にはその目をなぜだか逸らすことのなかった2〜3秒の間に、お互いが日本人であるという十分な確信を手にし、そのとき日本人らしく目を逸らしてしまうこともなく、 真正面から「こんにちは」とぶつかってゆくことを選んだのだった。

O山と名乗ったその男性は、ぼくより若干年上。東南アジア旅、特に一年住んだこともあるタイには相当に熟練している様子である方言全開の九州男児だった。
O山さんはとても気さくで話しやすかった。話しやすいとはこういうことかという新鮮な驚きがあった。ぼくと気が合ったというのではなく、誰が相手であっても、きっとこの人は話しやすいと感じさせる普遍的な親密さを、「寛 (くつろ) ぎ」を持っている人だった。O山さんと話すことでぼくは、旅する日本人にはやはりどこかに何かしらのクセを持っている人が多いのだということに逆に気付かされてしまうことになった。O山さんにはこれまで会ってきた日本人の多くが持ち合わせていなかった、安心して言葉を紡げる社会性のようなものが感じられたのだ。この人はきっとまともな社会でまともな社会人をやってきた男だ。ぼくはそう感じた。旅やらなんやらにうつつを抜かしている人種にはないその安定感にぼくは、社会というものが持つ空気を懐かしいものとして思い出す経験をすることとなった。
ぼくはiPhoneのアプリに次のようにメモを記した。
──久しぶりにまともな人にあった──と。

(たいchillout)

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【ラオス/ヴァンヴィエン】ニワトリからワインまで

定番の辺境と内向き志向

道無き道を切り開いているように見えるバックパッカーたちでも、現代のバックパッカーはそのほとんどが定型化されたルートを辿る。意外にもそこが非先進国であるほど、バックパッカーの旅路は定形化される傾向にあった。
考えてみればもっともである。先進国ならどこへ行っても生活はできるが、非先進国ならそうは行かない。先進国なら津々浦々交通網が敷かれているが、非先進国はそうではない。そして非先進国であるほどバックパッカーの落とすなけなしの外貨にも大きな価値があり、よって自ずと観光産業に力点が置かれる。観光地化が進む。ときにその国にとってアンバランスな程に。アンバランスな形に。
ラオスもまたそういう印象があった。アジア最貧国と言われながら、バックパッカー向けの交通網や宿、食堂、ツアーには不思議なほど不自由しなく、物価は隣の大国であるタイよりも若干高いくらいだった。ヴァンヴィエンもそういった定形化されたルートの一部、バックパッカー向けに発達を遂げた「定番の辺境」の一つだった。

だがぼくがこの町を知ったのは、ラオスについてリサーチをしたからでもなく、いつものように旅人の間で話題に上がったからでもなかった。それはまだラオスでのルートを一つも定めていない一ヶ月ほど前、とあるラジオ番組を聴いたことがきっかけだった。
その番組は毎年クリスマスイブに沢木耕太郎がナビゲーターを務める『MIDNIGHT EXPRESS〜天涯へ』 (J-WAVE) である。
VPNで日本サーバーを経由しRadikoを利用して聴いたその番組で、沢木氏が今年 (2018年) にヴァンヴィエンを旅行したときのエピソードを語っていたのだ。
沢木氏曰く、ヴァンヴェンはかつてはヒッピーたちがドラッグを求めてたどり着く、それはそれはディープな町だったという。しかし今年、久しぶりに行ってみるとその様子は様変わりし、なんとコリアタウンになっていたというのだ。
氏はその原因を特定する。理由はどうやら韓国からヴァンヴィエンへの直行便が就航したことらしい。都市の発展と観光客の増加に直行便の有無がこれほどまでに影響することに大きく驚いた、というのがその逸話の言わんとするところだった。
ただもう一つ氏を考えさせたことがある。それは、コリアタウン化とは無関係に、かつてはヴァンヴィエンに大勢いた日本人の若い旅人がすっかり姿を消していたということだった。日本の若者の内向き志向。それってどうなの? その問いかけもまた、旅に生きた沢木氏からリスナーへのメッセージだった。

 

ニワトリからワインまで

アニメのワンシーンのようだが、ラオスではどこに行ってもニワトリの鳴き声で目が覚めた。特にヴァンヴィエンのニワトリは格別にうるさかった。
南はヴィエンチャン、北はルアンパバーンへと直結するメインストリートに出ると、東に遠く山が見える。ぼくは自分が物心ついてから山のある街に住んだことがないことに気がついた。今日も良い天気の一日がはじまりそうだった。起きてまず山が見えるって、なんて素晴らしいのだろう。
手近な露店食堂で朝食としてヌードルスープを食べていると、机の上に勝手にペットボトルの水が置かれる。それが請求金額に入っていたのかを確かめずにぼくはお金を払った。
町を歩き出せばすぐに韓国語が目に入る。沢木氏の言っていたことは本当だった。韓国人以外はバックパッカー風の旅行者が多いが、韓国人だけは普通のおじさんおばさんも多い。昨夜同じミニバンに乗ってこの町へ辿り着いたS太はどうしているだろう。連絡先は交換していたが、わざわざ行動を共にするつもりはなかった。
ギターのあるカフェでコーヒーを飲んでギターを弾いていると、隣に座っていた英語のアクセントの綺麗なアルメニア人の女性が貸してくれと言う。ギターを渡すと女性はそれを上手に弾きはじめた。
西洋人の中年夫婦がやってきて、ご主人の方が、カフェのオーナーに言う。「いいエスプレッソを探してるんだが、君のところはいいエスプレッソマシンを持っているかね?」
「持っているとも」
主人はそう答えるがそれが嘘だとぼくは知っている。ここのコーヒーは不味い。なかなかないくらい不味いのだ。ぼくはその悪評判を我慢して飲み込んだ。
昼食は川辺のレストランでビールとチャーハン。川辺と言ったら川辺だ。正真正銘の川辺であり、ぼくはサンダルを脱いであがった座敷席の端っこまでするすると歩みよって川に素足を浸した。ここのレストランは雨季は水没するので乾季だけの営業らしい。カヌーやボートのアクティビティを楽しむライフジャケットに身を包んだ人々が嬌声をあげる。
ホステルに戻ってスタッフに隠れて手洗いで服を洗う。勝手に洗われて勝手にあちこち (ベッドの柵とか) に干されては迷惑なので、こういうことを禁止しているホステルは多い。禁止かOKか分からない場合ぼくは勝手に洗って勝手に干す。そのぼくの背中に突然スタッフのおばちゃんから声がかかり、飛び上がる思いをしたが、おばちゃんはそれを禁止するのではなく、「あんたね、終わったらこっちにきてここに干すんだよ」と親切な指南をしてくれた。
夕食はダックイエローヌードル。アヒルの黄色い麺。ムエタイ道場を通り過ぎて、トイレ欲しさに高そうなホテルに忍び込むとボーイにニーハオと挨拶された。
賑やかな夜市を抜けた町の東には本当にだだっ広いだけの、長距離バスやトラックの駐車場として使われている砂利広場が広がる。薄いサンダルが傾いて足の裏の端がすぐに砂利に擦れる。車道沿いには例によって張り付くように露店が出ていて、客は少ないが、店の子なのか、子どもたちが駆け回る。犬がいるが、そいつが器用に片足で串焼きの棒を抑えて焼き物を食べていた。売り物によってくるハエを追い払うために、剥き出しの扇風機に袋をつけて回しているようなお手製のハエよけが、食べ物たちに覆い被さるようにしてサイレンのごとく回り続けていた。
メインストリートに戻り夜食としてイタリアンの露店に出向く。フォッカチオと赤ワインを頼み、これまた路上を向いた小さな椅子とテーブルで飲み食いした。店の主人は見るからに西洋人だがイタリア人かどうかは判別不能である。
久しぶりの洋食に酔いが気持ちよく回る。明日のバスでルアンパバーンへ行く。そこがラオス最後の町だ。それからタイの北部に抜け、やがてミャンマーバングラデシュに行くことになるのだろうか。
ワインを飲んだのはいつぶりだろう。すぐに思い出せたのはモンゴルで飲んだときだった。あれ以降飲んでいないとすると実に五ヶ月ぶりだった。
日本人がいなくなったと言うヴァンヴィエンにこうして来たわけだが、それが誇らしくもなんともないくらいにヴァンヴィエンは「普通の辺境」であり、ぼくは普通の辺境に行くくらいの経験ならすでに数えきれないほど積んでいた。

(たいchillout)

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【ラオス/ヴィエンチャン〜ヴァンヴィエン】真面目で爽やか

舐められちゃダメ?

ヴァンヴィエン行きのミニバンで一人の日本人男性と乗り合わせた。彼の名はS太。オヤジがシンガポールで働いており、自身はニュージーランドでつい先日までワーキングホリデーをしていたという大学生だった。ワーホリが終わってからシンガポールのオヤジの元に少し滞在したのち、就活がスタートするこの春までの間、東南アジアを旅していた。
在籍は横浜にある名門大学であり、英語も達者。ワーホリでも複数の仕事を掛け持ちしてこなしていたと言うだけあって、自分の能力に強い自信を持っている若者特有の勢いがある。
S太はバンコクからヴィエンチャンへ北上してきたので、カンボジアからラオス入りしていたぼくとはルートが違う。ぼくが長い旅をしているんだと話すと、S太は負けじとワーホリ時代の仕事ぶりやバンコクでの夜遊びの武勇伝を語り出す。
ぼくより背は低いがガッチリした体格の彼は、バックパッカー的たくましさのカケラもない体型のぼくを見て思ったのか、
「向こう (ニュージーランド) では細いと舐められるんで筋トレで身体デカくしました」
と主張した。
なるほど、確かに東アジア人は体のつくりからして細く小さい。あるいは西洋人の中にはそれを「かっこわるい」と見下す人もいるかしれない。そして日本人の中にはそれをコンプレックスだと感じている人もいるのだろう。だがぼくはコンプレックスどころか、自分の華奢な手首や風通しの良い二の腕なんかは西洋人と比べるとなんとも涼しげでいいもんだなあと思っていたくらいだった。
S太はこれまたぼくの顔を見て思ったのか、
「向こう (ニュージーランド) では舐められないために髭をこしらえたんですよ」
と主張した。
なるほど、アメリカのビジネスシーンなんかでもなるべく老けて見られた方が有利だからという理由で髭を作ったりする日本人がいるという。
旅なんて舐められてなんぼだとぼくは考えていた。若く見られ子どもに見られ弱そうに見られることで気にかけてくれる人がたくさんいる。異国の地にいることにおいて元来すべての異邦人は弱く助けを必要とするのだから、せめて助けを必要とする人間であることを隠さない方がいい。ましてや民族や人種に依拠した身体的特徴・文化的慣習を「みんなと一緒にしておくのが安心」という理由 (要するにそういうことだろ?) で変えるのは軸というものが無さすぎる。ぼくはそう考えるがしかし、S太は舐められないことに随分と心を砕いてきたようだった。

 

通過儀礼と人生経験

バンコクには日本人に人気のクラブなどが集まっているエリアがあるが、自分はそこではなくもっといいところを知っている、もっといいところで遊んでいるんだとS太はぼくに訥々と語る。S太の中には、同様にバンコクを訪れていた男性のぼくがそれらの通好みな情報に恐れをなし、S太を男として、旅人として尊敬の目で見てくるようになるだろうといった無意識の期待があるようだった。
しかし夜遊びの共通言語を知らないぼくが上手く返答できないでいることにやがて気がついたのか、随分と後になって訊ねられた。
「女の子のお店とか行ってないんですか?」
「行ってないんですよ」
「なんでですか!?ふつう行きませんか!?」
「いやあ、お金を節約しなければならないので」
「珍しいですね。そういう人はじめてです」
S太は間違っていない。日本人男性にとって東南アジアで女を買うことは旅の通過儀礼のようなものであると言っても過言ではない。そこには日本で同じことをするのとは別の意味がある。ガンジス川で沐浴するとか軽いドラッグに手を出すとかと似ていて、長旅では必ずそのチャンスが訪れる。そんな「人生経験」をみすみす見過ごす旅人はあきらかに少数派である。自分は経験というやつをしてやるんだと決意をして、誰もが旅に出ているはずなのだから。

 

真面目で爽やか

にもかかわらず「人生経験」をしていないのは、このぼくが強烈なストイシズムを備え、善良であることへ盲目的な信念を持っている不器用な優等生タイプの人間であるからと思ったのかもしれない。褒めているのかけなしているのかわからない調子でS太は言った。
「なんだかとても真面目で爽やかな感じが伝わってきますね」
それはぼくの行動原理を根本から理解できないでいる彼が苦し紛れに捻り出したコメントであるようだった。ぼくは真面目でも爽やかでもない。より文脈に即して反論するならば、真面目であることと爽やかであることが素晴らしく、女を買うのがダメなのだと一点信じているほど単純で平和な人間ではない。 (ただ同時に、女やドラッグなどの「ヤンチャした経験」が人の面白さを作ると信じているほど単純で平和な人間でもないというだけだ) 
だが、とも思った。
だが、S太が半ば揶揄の思いも込めて言ったはずである「真面目で爽やか」という言葉に対して、いつもの自分が「みくびるなよ」と思っている一方で、はじめてそれを言葉通り受け取っている自分がいることに気がついた。
確かにぼくは真面目で爽やかな男だと言えなくもないかもしれない、と。たとえ幾通りもの屈折を経た結果の判断であっても、自分が清潔で真っ直ぐな旅をここまでしてきているのは事実だった。そしてもしかしたらこれまでの旅路は、そんなぼくをみくびりの気持なしで真正面から「真面目で爽やか」だと捉えてくれた人たちの助けゆえに順調であり、好意ゆえに楽しかったのかもしれない。より簡単に言えば、自分が思っているよりもぼくは傍からは真面目で爽やかに見えて、そのおかげで色々と得な思いをしてきたのかもしれないと、今はじめてその可能性に気がついたのだった。真面目で爽やかというその見立てが本当に正しいかは別にして。
長々としたS太の話が面倒なのでぼくは途中から窓の方に顔を向けて黙り込んだ。だがその間考えていたのは彼の言葉に導かれた、自分への新しい種類の肯定についてだった。

ヴァンヴィエンについた夜からS太とは会っていない。二人ともルアンパバーンを経由し、やがてぼくはタイへと、S太はベトナムへと越境した。就活は上手くいっただろうか。いや、きっと上手くいっただろう。たまに更新するインスタグラムでS太がかますつまらないボケが、ぼくは嫌いではない。

(たいchillout)

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【ラオス/ヴィエンチャン】調和と予定調和


はじめてのHIS

ヴィエンチャンでHISに行った。それまでは日本人のいることが明らかな場所 (日系旅行会社、日本大使館日本食レストラン、日本人宿) に軽々しく出向かない制約を、特に理由もなく、課しているようなところがあった。しかしヴィエンチャンの街を歩いてその一等地に立つHISの看板を目にしたとき、「ここでまたひとつ、コダワリを取ってみるのもよかろう」という風に気持ちが動いた。長い旅はその形を変えていく慣性を備えている。移ろいゆく心が今こそ移ろおうとしていることに目を止め、なるべくその慣性に従うのだ。
HISで訊ねたことは二点ある。ひとつは次の目的地であるラオス北部のヴァンヴィエンについて、その行き方と所要時間。もうひとつはここヴィエンチャンでオススメのお食事処。じつは後者についてぼくはそれを訊ねる前から期待していた答えがあった。HISの女性社員は言った。
「ここの下に日本人のマスターがやっているレストラン・バーがあるんですけど」
ビンゴ。このHISが入っている建物の一階にどうやら日本人経営らしいセンスの良さそうなバー風なレストランあるいはレストラン風なバーが入っていた。ぼくがHISを訪れた背後にはその店についてのリサーチを行いたいという隠された目的があったのだ。

 

どんな旅してんの?

Dというそのバーにその日の夜に行くことに決めてホステルに戻り延泊を申し出ていると、いかにもバックパッカーな風体のアジア人男性がホステルを訪ねてきた。
男性は、英語に長じてはいないようである中国人のホステルスタッフに一泊の宿泊代金を訊ね、それをタイの通貨である「バーツ」で支払いたいと主張していた。ここはタイではない、ラオスだ。街外れのメコン川を渡れば確かにタイであり、両国の国力には歴然とした差があるのも事実だが、(非ユーロ圏のヨーロッパの小国でユーロが使えるように) ここでもタイバーツの融通がきくのだろうか。
やがて交渉が成立したのか、部屋を見て来た男性は、エントランス前の庭でベンチに座ってことの成り行きを見守っていたぼくに向かって言った。
「Where are you from?」
「Japan」
「I think so」
男性も日本人のようであった。しかし、そこで日本語に切り替えず、英語で返してきたのには面食らった。I think so 以外にも所々で日本語の会話に英語が混じっていた。
インパクトのあったのは話し方だけではない。その風体もだった。髭と髪を存分に伸ばし、ダボっとしたズボンにダボっとした上着。どのような形の服をどのように重ねて着ているのか素人目には判別することが困難である。要するに絵に描いたようなバックパッカースタイルをしていた。
男性はぼくの正面の椅子に座り言った。
「で、どんな旅してんの?」
で、どんな旅してんの? ときたもんだ。間髪を入れないタメ口であるだけでなく、こちらが長期バックパッカーであるとはなから決めてかかっているところが、つよい。
それにしても旅人同士が出会ってからこれほどまでスピーディーに「どんな旅してんの?」という話に入ったのは初めてである。相手が年上か年下かに関わらず基本的に敬語で話し、他人行儀なぎこちなさも込みで慎重に信頼を得ていこうとするぼくとは真逆のコミュニケーションスタイルを男性は旅の武器としており、そしてそれに強い自信を持っているようだった。

 

沈没スポット

一通りお互いの旅の話をした。何度も同じルートを説明し続けてきているので話に詰まることはない。男性はヨーロッパ三ヶ月の旅を終えた後、タイをぶらぶらして現在にいたっていた。ヴィエンチャンに来たのはタイのビザの関係で一度タイを出国する必要があったためらしい。だからタイバーツでの支払いにこだわっていたのだ。東南アジアには相当熟練しているような話ぶりだった。
男性はバックパックからバナナを取り出してぼくに薦めた。ぼくはそのひとつを受け取った。食べ終わったバナナの皮を男性はホステル敷地内の庭の奥へぶん投げた。
男性は、「J」とファーストネームだけを名乗った。ぼくがフルネームを名乗ると、男性はぼくのファーストネームを褒めた。理由を訊ねたところ、死に別れた親友がぼくと同じ名前だったらしい。縁起が悪いことを平気で言うねえと内心突っ込みつつも、ぼくがそういうことに気を悪くする人間ではないことは幸いだった。むしろ旅人としての自分がいっそうドラマティックな星の下にあるように感じ「そりゃなんだかかっこいい」と小気味良く思った。

Jさんのヨーロッパツアーには目的があった。それはプロデューサーを探すこと。どういうことだろうか。聞いてびっくり、Jさんは自分がミュージシャンであると名乗った。ギターを弾き自分の曲を歌うそうだ。ぐっと親近感が湧いたが、どこのギターを使っているのかと聞くと、よく分からないと言った。英語が流暢な上にヨーロッパでプロデューサーを探しているくらいだからグローバルでの活動を視野に入れているのだろう。歌詞は英語で書いているのですか? と訊ねたら驚くべき答えが返ってきた。
「自分の言葉」
「日本語ってことですか?」
「違う。オリジナルの自分でつくった言葉。サンスクリット語とかから引用してきたりしてるけど」
それでは自分以外誰も歌の意味が分からないではないか。そういったジャンルが世の中には存在しているのだろうか。音楽通を自称するぼくにしても初めて耳にするスタイルだった。

今後はラオス北部のルアンパバーンからタイ北部のチェンライに抜けていくつもりだと伝えると、タイでとある村を訪れるように薦められた。
「パーイって村があってね」
「村……ですか」
「うん。世界にはいくつかさ、エネルギーの集まる場所っていうか、特別なバイブレーションのある土地ってのがあるじゃん?」
「あ、はい (エネルギー?? バイブレーション??) 」
「パーイもそういうとこ」
「なるほど (どういうとこなんだろ?) 」
後からまた別の日本人から聞いて知ったことだが、パーイという風光明媚な小さな村には日本人のバックパッカーコミュニティができており、日本人バックパッカーには「沈没」 ( = 旅人が長く同じ土地に留まってしまうこと) スポットの定番として有名であるようだった。沈没してしまう理由の一つにはドラッグがあるという噂も聞いた。

 

予定調和

若く見えるがJさんは三十代後半で離婚歴があった。いろんな旅人がいるものだ。ぼくはその後予定通りタイの北部を訪れたが、その際もついにパーイに出向くことはなかった。
何故だろう。ドラッグを否定する気はないが興味もない。エネルギーやバイブレーションを否定する気はないが興味もない。日本人コミュニティを否定する気はないが、やはりそれにも、結局のところ興味がなかった。
サラリーマンにしては髪が長すぎるような時期もあったにも関わらず、旅人になったぼくは髪も髭も伸ばさないことにしていた。旅人らしい服を仕立てたりもせず、東京生活の私服そのままで日本を飛び出した。だからぼくを一見して、旅歴半年以上のバックパッカーだと感じる人はほとんどいないはずだ。それどころか軟弱なおぼっちゃんに見えたって不思議ではない。自分の風貌や物腰が実情を伝えるために的確なものとは言えないことを自覚した上で、あえてそのままにしている節が自分にはあった。
バックパッカーが自らの風貌や生活を汚していくことには意味がある。例えばそれは旅先で舐められないための防衛でもあるし、出会った旅の者同士が手っ取り早くお互いの同質性を認め合うための目印としても機能する。来た道の実績を誇れる勲章でもあればこそ、行く道へ奮い立つ背中を後押しもするだろう。
しかしぼくは結局そういった衣装を纏わず、パーイには沈没しないバックパッカーだったということになる。日本人コミュニティ、ドラッグ、バイブレーション、そしてきっと酒と音楽。そこで得られるのは自由、退廃、享楽、仲間、青春。パーイにはある種の日本人バックパッカーの典型が潜んでいるように思えたのだ。

典型。悪く言い換えれば予定調和だ。そうか…とここでひとつ自分の性格について思い当たることがある。
ぼくは予定調和な空間に漂う空気が人一倍苦手のようだ。バックパッカーらしい服装、バックパッカーらしいコミュニティ、自由っぽい自由、退廃らしい退廃、仲間らしい仲間、感動らしい感動、会社っぽい会社、愛情らしい愛情。予定調和の一部になるなら一人ぼっちが百倍ましだ。予定調和は人生最大の嘘だという感じがする。
しかし予定調和が人生最大の嘘である一方で、調和は人生最大の輝きであるということもまた事実。だからこそ人は調和を求めて、予定調和に走ってしまうのだろう。

(たいchillout)

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