【エジプト/ダハブ→エルサレムへ①】低予算

エジプトのダハブからイスラエルとの国境に向かうバスのチケット代金は調べていたはずだったが、なぜか最終的に財布に残っていたエジプト・ポンドはそれに足りていなかった。ぼくはそのことに当日、バスターミナルに着いてから気がついた。
出国は目前だ。今から両替したらどうやってもポンドを余らせることになる。せっかくジャストの要領で金を使い切ったのに、ここにきて役に立たない小銭をつくるなんて愚行は自分が許せない。
いや、それ以前に、この近くには両替所なんて存在しないのだった。このバスターミナルがあるのは町の外れ。ぼくはすでに砂漠に片足を突っ込んでおり、両替所どころか売店やちょっとしたコーヒーショップさえ見当たらない。幾台かの駐車スペースと、トイレ、埃で煤けたガラスのチケット窓口ひとつだけがバスターミナルの備えるすべてだ。
持ち合わせがチケット代金の65ポンドに足りないのにも関わらず、ぼくはソワソワとバスが現れるのを待っていた。いったいどういうつもりだったのだろう。いま思えば謎でしかない、奇怪な行動である。ちょっと足りないのだがまあ乗せてくれないか、と運転手に交渉でもするつもりだったのだろうか。

近くまで歩けばATMがあるよと教えてくれる親切な人間がいた。それにも関わらず、ぼくはATMに行くことすらためらっていた。つくづく不思議だ。手数料を払い小銭を余らせる結果はATMも同じだが、バスに乗らなければ出国できないし、チケットを買わなければバスに乗れない。バスを諦めて出国しないなら、それはそれとして、今日一日をダハブで過ごすだけの予算もないのだ。国境までの距離は、およそ150キロである。

バスの出発時刻が近づいてきた頃、バスターミナルにはわずかばかりの乗客以外にも人が集まりはじめていた。シェアタクシーと思われる乗用車を運転する荒くれた男たちだ。
男たちはぼくに、どこに行くのかと訊いてくる。むろん、イスラエルだ。ボーダーに行きたいと話せば、乗ってけ、と誘ってきた。料金を訊ねれば、バスのチケットよりも高い。とはいえ、金があっても乗る気はない。ここはシナイ半島だった。ダハブから国境までの砂漠地帯は外務省の定める地域別の渡航危険度がレベル3となっており、過去にISILがテロ活動を行った実績の多い無法地帯だ。ボーダーを超えたすぐ先には、リアルな紛争が行われているパレスチナガザ地区がある。バスですら緊張が伴う道のり。相応の危機感は持っていた。
男たちに正直に予算を伝えると、それじゃあバスも乗れねえぜと眉根を寄せた。知っている。だが、金は無いのだ。断固として。
そのとき、別の乗用車が現れた。四人の男が降りてきてぼくを取り囲む。皆エジプト人に見える。一人が言った。
「俺の車に乗っていけ」
懐事情を話すと、ぴったりそれでいいという。
どうやら他の三人は乗客らしく、彼らと割り勘になるから安くてもかまわないのだそうだ。
ぼくは奇跡が起きたと感じた。ちょっとしたミスからチケットが買えなくなり、間一髪のところでその非常識な低予算を容認する移動手段が現れた。いま出発すればバスよりも早く国境に到着し、不確定要素の多いその後の行程に時間の貯金ができることもメリットだった。束の間気分が高揚し、「じゃあ乗るわ」と伝え、バックパックを男たちに預ける。男たちは協力してそれをスペースの狭いトランクに仕舞い込み、そのあいだにぼくは四人用の車の後部座席の中心に座らされた。

そして、ぼくは突然恐ろしくなった。
男たちはぼくのバックパックを預かり、ぼくの代わりにトランクに収納した。その最終的な瞬間をぼくは見ていない。男たちの手元が、開いたバックドアで死角になっているときに、車内に案内されたからだ。
そしてぼくの席はアラビア語でなにやら話している二人の大柄なエジプト人に挟まれて、ほとんど身動きができない車の中心部だった。
ひょっとすると、ぼくのバックパックがすでに持ち去られているなんてことはないだろうか。
いや、それ以前に。と考えて鼓動が早くなる。──ぼくの身は果たして安全なのか。
考えてみれば、やけに四人の息が合っているような気がした。ぼくを誘う口振りから、荷物の収納まで。だから最初ぼくは、彼らが一人の運転手と三人の乗客なのだとわからず、四人組の友人かなにかだと誤解した。それが誤解ではなかったとしたら。
乗合タクシーには何度も乗ってきたが、多人数を運びやすいバンタイプの車が多く、四人用の普通車はいかにも珍しい。北の国境へ向かう道は地図で見るとほとんど一直線であり、そのあいだに町は東の海沿いに数えるほどしかない。そのどこかで、車が道を外れて、西の砂漠の中枢へとぼくを連れ去っても、それを知る人間はこのシナイ半島に一人もいないだろう。自分としたことが、軽率だった。しかし、いまなら引き返せる。いまこの瞬間だけが、最後の分岐点となり得るだろう。ぼくは、身をよじって両脇の男たちに訴えた。
「荷物を確認させてくれ」
男たちはどうしたんだと不思議がる。そのとぼけ方がわざとらしいように感じた。
「トランクの中のぼくの荷物を確認させてくれ。ちゃんとそこにあるのか? ぼくはいま怖くて不安なんだ。だからバックパックを確認したい」
笑いながら隣の男はドアを開けてぼくを外に出した。そして、ぼくはトランクを開けた。バックパックはそこにあった。
ぼくは席に戻った。大丈夫だよ、男たちはぼくにそう声をかけ、ぼくは三人の乗客にお前たちはどこに行くのか、なにをしにそこに行くのかと質問を続けた。本当に移動が目的の乗客なのかどうか。運転手とのあいだに特別な利害を持っていないかどうか。ぼくがした質問への返答に、不自然なところがないか見極めようとしていたのである。

2019年4月 たいchillout

 

【エジプト/ダハブ】西の山に陽が沈み

長い眠り

ダハブには三泊する。イスラエルとその国境には未知数なところが多く、出たとこ勝負になりそうだ。あちらは物価も違ってくるだろう。ぼくはダハブという海の町を、ヨーロッパに入る前に安くだらだらと休息できる最後の地点だと捉えていた。
小さなホテルで個室を借りた。部屋は一階にあり、目の前に中庭のプールがあった。係の青年がその水面に網をくぐらせ、入り込んだごみや虫を静かに取り除いていた。
朝だったがそのままチェックインさせてもらい、海の方を向いた裏口から、おもちゃのような町に出る。おもちゃのように見えるのは、背が低くカラフルな建物たちである。ダハブは近年の観光開発によって栄えた土地であるため、カフェや食堂、土産物屋などが最初から観光客向けに作られており、全体がテーマパークのようだった。ぼくはそのうちのひとつに入って、オーシャンビューのテラス席に座ってストロベリージュースを飲む。町のメインストリートは海に沿って伸びており、両サイドに店が立ち並ぶ。海の側にあるすべてのレストランが、この店と同じく海にほとんどせり出すようにしてテラス席を設けていた。
ホテルに戻って、昼寝をした。
再び外に出て、同じ通り沿いの中華料理屋でベジタブルヌードルを食べる。これは昼食。その後、なるべく地元の人が利用してそうな商店を選んで、「おすすめを教えてほしい」と言って店員おすすめの歯磨き粉を買った。そうすると、また眠気がやってきた。逆らういわれもないから、もう一度ホテルに帰ってベッドに横になった。それが昼の三時だった。

目覚めたのは、なんと翌朝だった。十五時間近く眠った計算だ。手洗いにも立たなかったし、ぼんやりとスマホの画面を確認するようなこともなかった。夜行バス明けだったので疲れはあっただろう。それにしても、こんなに眠るものだろうか。個室でよかった。それだけ眠る必要があった身体に、ふさわしい環境を用意できた。という意味でもそうだし、ドミトリーだったら死んでいると誤解されて誰かが騒ぎ出したかもしれない。さすがにこれだけ寝ると、夜行バスの疲れだけでなく、身体の芯で大きなリセットが行われて、どこか長い旅の疲れまでがとれたような感覚があった。

 

西の山に陽が沈み

朝食をすませて、少し本を読む。それから昨日と同じメインストリートに出ていき、海辺の席を選んでコーヒーを飲んだ。
エジプトではずっと晴れている。風は強めで、海は気持ちよさそうに波をつくっている。紅海は、鉱物のようなリッチな色合いに見飽きない。海面の皺も複雑な表情をしている。高級ホテルの朝食ビュッフェのカリカリベーコンのような、説得力のある皺だ。
イスラエルとの国境に向かうバスが出るという町外れ(というか町の外)のバスステーションを確認しておくために、そこまで歩く。再び中心部まで戻ってくると、朝とは別のカフェで、アメリカーノとチョコレートケーキを注文する。ツーリスティックなこの街では、西洋的な食生活が約束される。刺激はないが、考えることを減らして休むには最適だ。これからは大変だろう、これまでも大変だった、と考えることでぼくは自分を甘やかしたように思う。

髪が伸びていたので、床屋に入る。担当の青年は英語をほとんど話さないが、コミュニケーションが成立しないことをそれほど問題視しない様子で淡々とぼくの髪を仕上げていった。旅の最中に髪を切るのはベトナムハノイ以来、二回目だった。かなり短くなった。スタイリングで強力なオイルを塗られたようで、それから数日間はシャワーを浴びても髪がべとついていた(ダハブではシャワー水に海水が混じっているという噂もあるのでそれもべとつきに輪をかけているかもしれない)。
ベリーショートにしたベジータのような髪型をして、ぼくは海沿いを歩いた。
ウェットスーツ姿で、海からあがってくる西洋人たち。ダイビングのツアーから戻ってきたのだろう。既視感のある匂いが鼻につき、しばらく考えてそれが日焼け止めの匂いだとわかった。日本の夏でも、海で同じ匂いを嗅いだ記憶がある。日焼け止めの匂いは海の匂いである。
この日、山の向こうに夕陽が沈んだ。ダハブの西にはシナイ半島の内陸部が広がり、その中心に英語名ではカテリーナ山と呼ばれる、砂漠のど真ん中で焼けつく山がある。キリスト教では聖地の一つであるようだ。それにしても、夕陽というものは見飽きない。日中にその街をどれだけ探検し尽くしても、夕暮れの時間が迫ってくるとぼくは追われるような気分になる。そして早足になってさらに街をむさぼるように練り歩く。
同じ街に何日か滞在している場合はそれがより顕著で、夕方の表情になった街を歩き回るためにあえて日中をどこかで座って過ごすようなことさえしていた。サンセットツアーのようなものには参加したことはない。高いところにのぼってわざわざ日没を待つようなこともしない。夕陽そのものというよりも、夕空があればよく、それによって丸ごと背景セットを入れ替えたように見違えてしまう街を見過ごしたくないのかもしれない。しかし、ダハブの夕陽は美しかった。西の山に陽が沈み、そして東の水平線から大きな月が現れる。二日目の夜、それはちょうど満月だった。

(たいchillout)

 

【エジプト/アレクサンドリア → ダハブ】砂漠と海

レベル3区域へ

夜の十時に、乗客の少ないダハブ行きの夜行バスは出発した。ダハブはシナイ半島の東の海岸沿いにある。そのシナイ半島はアフリカとアジアの結節点にあった。エジプトの国土だが、アカバ湾を挟んで対岸にサウジアラビア、そして北に陸続きでイスラエルが位置する。シナイ半島とアフリカ大陸の境界にはかのスエズ運河が開けている。その地政から、今も昔も政治的に重要な土地であり続けた。外務省の定める「危険レベル」は2019年の春時点で4段階中の「レベル3」。これまでレベル3の区域に入ったのは、キルギスウズベキスタンの国境だけだった。バスの乗客は、途中の検問で幾度も荷物検査をさせられるという。警戒されているのは、テロだ。シナイ半島はISILの動きが活発な地域として知られていた。北のイスラエルとエジプトは慢性的に緊張関係にある。ぼくはその両国をわかつ国境を越えて、陸路でイスラエルに入国するつもりでいた。そのために、まずはダハブまでというわけだ。

自己責任、という言葉が頭に浮かんでくる。むろん、ぼくはそれを受け入れる。もしも元気なままどこかの組織に生捕りにされて日本国政府がぼくの身代金を要求されたら……そのときだけは国民の血税で気前よくお支払いを済ませてほしいが(!)、それにともなう恐怖や苦痛あるいは死すらも、その責任はぼく自身にあることに疑問を挟むつもりは無い。自己責任という言葉は嫌いじゃない。その言葉を振りかざして誰か人を追い詰めるために使うのではない。自分の失敗の原因を他者に帰さないために、そして失敗からは必ず反省を生み出せるようになるために、それを自分に対して使いたいのである。

ところで、ダハブは少し南のシャルム・エル・シェイクと共に、穏やかで暖かい紅海にくつろぐ砂漠のビーチリゾートとしても知られている。リゾート? 治安は大丈夫なのか? どうやら大丈夫そうである。外務省の地図を拡大してみると、シナイ半島の南東の海岸沿いだけ、保護シールが剥がれかけたみたいに「レベル2」になっている。中東やヨーロッパの各地からは、リゾート目的に特化していると思われる直通の航空便がそこへ就航していた。「レベル3」のエリアは、空路で越えるのがスマートなようだ。ヨーロッパ人にとってのこのあたりは、我々にとってのバリ島やセブ島のような距離にある。案外、リゾート地としての位置付けもそういうところにあるのかもしれない。ただ、日本人のブログなどを少し見ると、ダハブのことを書いている人間にはバックパッカーが多かった。どうやらそこでダイビングのライセンスをとるのが定番らしい。日本人バックパッカーの定番なんて死んでも押さえたくない気持ちはある。

 

砂漠と海

色々なところで砂漠や荒野を見てきた。その中でもシナイ半島の砂漠は不思議な美しさで記憶に焼きついている。
真夜中にスエズを渡ったバスは、明け方にかけて半島を南下した。ダハブへの最短経路をとるなら、東へ直進するべきだったが、バスは南下した。結果、シナイ半島の西岸からしばらく、海の景色が広がった。左手に砂漠、右手に海。そのあいだにある乾いた道路をバスは走った。ちょうど、空が薄明るくなった頃だった。前評判と違い、ここまで荷物検査が一度もなかったので、ぼくは期待していたよりは眠れたような気がしていた。目覚めてからバスの中が異様に寒いことに気がついたが、夜明けの光の中で空よりも先に青く色づきはじめた海と、同じく地表から輝くような砂漠に陶然とするのが先だった。バスは凍てつく大気の透明なヴェールに包まれているみたいだった。
しばらくして、町が見えてきた。ダハブではない。平屋ばかりの小さな集落だった。海沿いにその町はあるが、周囲はどこまでも平たい砂漠なので、吹きさらしの剥き出しだ。海の潮にも砂漠の風にも洗われたような色をしていた。家々のうちの壁のひとつに美しい女性の顔の絵が大きく色鮮やかに描かれていた。女性がまとっているのは、ムスリムの見慣れた宗教服とは異なるベドウィンの衣装だった。
ペットボトルから水を飲み、ぼくは運転手の真後ろに席を移動した。少ない乗客が、途中で降りていくためにさらに少なくなり、それを咎める者はいない。移動の目的は二つあった。一つは、外の景色をフロントガラスからもっとよく観たいから。もう一つは、ひょっとすると運転席の近くでは暖房が効いているかもしれないと期待したからだ。砂漠の朝は大地が真空になったように冷えた。二十四時間で四季を一巡するような寒暖差を、日本での常識が拒絶する。だが、どちらかと言うとぼくは、気候そのものにではなく、暖房をつけようとしない運転手を恨んでいた。隠された第三の目的。それは、寒そうにしているぼくにどうか気づいてほしいということだった。

(たいchillout)

写真はダハブ到着後のもの

【エジプト/アレクサンドリア】クレオパトラのBeautiful

お気に入りの「タスク」

狭い雑貨屋で、肌に塗るためのココナッツオイルと二つの固形石鹸を買った。石鹸の原材料は、片方がゼラニウム。もう片方が死海の泥。ぼくがこの旅で持ち歩いていた洗面用品は唯一、二つあった。それが、固形石鹸と顔用の保湿剤である。
固形石鹸は、それ一つで全身と髪、顔、手もまかなう。旅に出る前はむろん、ボディソープにシャンプー、洗顔料、ハンドソープと使い分けていた。それを固形石鹸一つに絞ったのは、荷物を最小限に減らす目的もあったが、旅の覚悟を自分に抱かせるためでもあった。バックパッキングは「どこまでできるか」という実験だ。肌が荒れて髪がベトついてもかまわないか。「綺麗でいる」ことよりも、したいことがあるか。ぼくにはそれがあるということを、自分に対して証明する必要があった。

しかし、顔だけは乾燥するので、保湿するためのなにかが必要だった。日本では化粧水を使っていたが、とにかく保湿力が強ければ調整が効くだろうということで、荻窪無印良品で買った「オイル」を一つ持って旅に出た。そのオイルを中央アジアのどこかで使い切ってからは、ウルムチにあるウイグル民族のマーケットで手に入れたシカだかヤギだかのクリームをせっせと顔面に塗りたくっていた。
固形石鹸の方も、小さくなってくると早めに次の石鹸を買うようにしていた。全身に使用する石鹸なので、「洗浄力」よりも「オーガニック」であることを重視する。必竟、そういう類の店に入った。石鹸が小さくなり、オイルやクリームが底をついてくる。そうすると、そのときいる街でオーガニック系の雑貨屋なんかを探しはじめる。どこにでもある店ではないので、完全に使い切る前に気にして街を歩くようにし、無いならそれはそれとして、次の街、次の国への宿題にした。その一連は、自由気ままな旅における数少ない、そして定期的に発生する「タスク」のようなもので、ぼくは案外この「タスク」を気に入っていた。

 

クレオパトラのBeautiful

街を歩いていると、現地の青年、少年たちが遠くからでもぼくに「ニーハオ」と声をかけ、両手を合わせて拝む仕草を見せてくる。からかわれているように感じたので、どちらかと言えばぼくはそれを不快に感じた。顔は向けるが、返事はしない。数を重ねるにつれ、顔も向けないようになった。
意外にもアレクサンドリアには観光客が少ない。カイロでギザのピラミッドを見た外国人は、こっち(北)ではなくナイル沿いを南下するケースが多いようだ。「ピラミッドを見る」ことがエジプトでのミッションであれば無理もない。エジプト文明のルーツはエジプト民族ではなくスーダンにあるという説もあり、南にはギザよりもさらに本格的な遺跡群が存在するからだ。
「ニーハオ」の青年たちは外国人に慣れていない。そんな彼らに「中国人と日本人を見分けろ」なんて要求はまかり通らない。外国人を笑うことは、いかにその人が閉鎖的な世界で完結して生きているかの証明である。といった考え方を身につけることもきっとない。それを知るのは彼らが、完全に一人で、異国の地に立ったときだ。そしてそこで生きようとしたときだ。そうした機会は、ほとんどの人間には一生訪れることがない。
公園にある背もたれのないベンチでぼんやりとしていると、猫が寄ってきて、ぼくの背中合わせに座った。二、三回、訳もなく「ニャア」と鳴いた。この街で、ぼくと猫だけが言葉を持っていないようだった。ぼくがこの街にいて、一日のうちで唯一口にする「シャウェルマ」という言葉を発する回数と、猫がニャアと鳴く回数はだいたい同じくらいな気がしたからだ。猫は旅人の匂いがわかるのかもしれない。身を寄せあって晴れた昼間の孤独をやり過ごした。
次の日の朝、「ニーハオ」を聞きたくないので、イヤホンをして音楽を聴きながら街を散歩していた。それでも、あるとき背後から笑い声が聞こえてきた。笑い声はぼくの後ろからついてきた。声が高い。まさか、小さな子供なのだろうか。いかにも鬱陶しそうに、一度だけぼくは後ろを振り返った。子供ではなかった。なんと、二人の女性だった。会話をしようとしたら声を張り上げる必要のある距離だったが、ヒジャブをつけているそのシルエットだけでも性別はわかる。子供の身長ではなかった。ぼくは呆れ返った。まさか、女だなんて。
一目見た瞬間に女性だとわかっても、半ば睨みつけるような気持ちで振り向いた勢いはそのままだった。ぼくの気持ちと態度にブレーキは掛からなかった。二人はぼくの、けっして穏やかではない(少なくとも笑いかけてはいない)顔つきを見たはずだった。しかし、それも一瞬のことである。言いたいことがあったわけでもなかったぼくは、二人がぼくに対して反応を示す前に再び前を向いて歩き出す以外にできることが無く、実際にそうした。音楽の再生は停止していた。
はたして、追跡をやめてほしい気持ちは伝わらなかったようだ。ぼくが歩き出すと、二人は後ろでまた歩き出した。ぼくは進行方向を変える決断をし、車通りの少ない一車線の対岸の歩道に渡った。そこから脇道に入るつもりだった。すると、女性たちも同じように渡ってくるではないか。偶然を装うにしては、なんて雑なやり方だろう。ぼくは、続いて女性たちが早足で回り込んでぼくの正面に立つだなんてまったく思いもよらなかった。ぼくは立ち止まった。英語が通じるのかもわからず、言葉に詰まった。二人は笑っていた。ぼくをからかっている笑い方ではなかった。ばかにしているのでもなさそうだ。二人はぼくにどこからきたのかと訊ねた。片言の英語だ。ぼくはそれに答えたが、こちらが困惑しているのだと、二人は今になってやっと気がついたようだった。ぼくも今になって理解した。二人はぼくに好奇心を持っている。
二人とも若く、大学生くらいに見える。先頭に立ってぼくと言葉を交わそうとする方がファトマ。ファトマとぼくのやりとりを見ては、ファトマを小突いてなにかを言ったり、二人で目を見合わせたりしているもう片方の女性がシュリーンという名前だった。シュリーンは太っているが、ファトマはとても美しかった。そのファトマが、二人の存在そのものに困惑しているぼくに、こうやって追いかけてきてしまった理由を説明しようとして言った。beautiful、と。
「なにがだ?」と思うだろう。ぼくが、である。ファトマもシュリーンもほとんど英語ができなかった。きっと、相手を褒める表現を他に知らなかったのだろう。それでも、美しい、と言われたのはうれしかった。疑り深い読者ならここで、彼女たちの目的は詐欺やスリではないかと勘繰るかもしれない。しかし、そうではなかった。どちらかが、立ち止まったぼくの背後から荷物に手を伸ばしたりはしなかった。ぴたりと横並びになり、二人はぼくと一メートルほどの距離を維持して向き合っていた。場所を変えて話さないかと誘われることもなく、妙なガイドを申し出られたわけでもない。と、状況証拠を挙げるまでもなく、その場に居合わせればそういうことは雰囲気でわかるものだ。ぼくは、クレオパトラの生まれ変わりのように美しいファトマが、手振りで「あなたは」とジェスチャーした後、口にした唯一の言葉、beautifulが嘘ではないと信じることができる。
それを裏付けるのが、ほんの数時間後に、アレクサンドリア図書館の中を歩いているときに、知らない女性からまた声をかけられたことだ。その女性の体型はファトマよりもシュリーンに似ていたが、内気さとお茶目さが同居した、いかにも太った女の子にありそうなハニカミ笑顔もシュリーンに似ている。ぼくの肩をポンポンとたたいて、一緒に写真を撮ってくれないかと言った。シュリーン二号はぼくとのツーショットを撮り終え、くすくす笑いながらそのまま弾丸のように学生仲間の中に飛び込んで行った。

 

悲しきASIAN BOY

なぜ俺はモテるのか、なんて馬鹿げたことをこのときぼくが考えたことをお許しいただきたい。おおかた、常日頃はモテないからそんなことを考えるのだろう。
日本人の女性が旅先でモテた話はよく耳にする。純粋な親切から、一途なプロポーズ、一線を超えている事件まで、日本人女性と会うとぼくはそういう話を聞かされてしまうことが多い。バックパッカーに限らず、よく旅をする女性は、モテるということはどういうことか知っているように見える。
しかし、そもそも旅はモテるものだ。それは、旅そのものが人の親切で成り立っていることや、出会いの数の違いもあるし、自分がストレンジャーになるので周りからの注目度も段違いに高まった必然の帰結でもある。だからある意味、ぼくがbeautifulと言われるのとニーハオと言われるのは同じことでもある。
ただ、アジア人女性と比べると、同じアジア人の男性の注目度は低いという先入観がぼくにはある。ぼくたち日本人は、たとえば街を白人男性が歩いていると「外人かっけえ」とごく自然に口走ったりする。同じようにしてぼくが外国を歩いていて、「外人かっけえ」と言われることは無いだろう。それが、アジア人男性はモテないという先入観の具体例だ。ぼくは自分たちが彼らより文化的に洗練されていないような気がやはりするし、精神的に成熟していないと感じることもある。ひがみ根性ではない。上を見ようとするとき、そうしたなにかを文字通り「痛感」するときがぼくにはある。そして、男性にとって重要な身長というファクター。アジア人はそこでたしかになにかしらの遅れをとっている。しかし、ぼくはbeautifulと言われ、まるでアイドルのように一緒に写真を撮ってくださいと迫られた。
一つ仮説として考えられることがある。K-POP男性グループの世界的な活躍だ。プーケットで出会ったスペイン人女性のネレイダは言っていたが、あるK-POPグループがフランスで公演をしたら、スペインに住んでいるネレイダの友人は国境を超えてパリまで駆けつけてライブに参加したらしい。そのくらいK-POPはヨーロッパでも熱狂的に迎えられている。ポイントは、韓国人男性グループのファンにヨーロッパ人女性がたくさんいるということである(日本のアニメキャラにカリフォルニアのインドア男子が熱狂するのとはわけが違うということ)。アジア人男性の顔の、認知度が高まっている。その可能性にぼくは思い至った。ファトマたちは、K-POPのファンだったのかもしれない。

アレクサンドリア図書館の見学を終え、ホステルの近くまで戻り、近所の旅行代理店でダハブ行きのダイレクトバスのチケットを購入した。ダハブはここから南東、シナイ半島の海岸沿いにある。出発は明日の夜。再び外に出ると、世界の死に際のような夕焼け。その夜に、パリではノートルダム大聖堂が燃えていた。

(たいchillout)

 

【エジプト/アレクサンドリア】地中海と1929年のコーヒーショップ

地中海

七十ポンドの鉄道チケットを買って、首都カイロから、地中海を望む港街であるアレクサンドリアに向かった。アレクサンドリアといえば、古代の図書館であるアレクサンドリア図書館や、小説『アレクサンドリア四重奏』が有名な、なにかとロマンチックなイメージがある街だった。
ファイナルファンタジーⅨというゲームがある。あの物語も、主人公であるジタンたちが、架空の国であるアレクサンドリア王国の王女、ガーネット姫を誘拐するところからはじまるのだ。

アレクサンドリア鉄道駅に降り立って、ダウンタウンのメインストリートを通り抜け、海に近いところの宿にチェックインした。ぼくにはめずらしく個室を予約していた。ゆとりのあるツインルームだった。骨董品の家具のような建物には、このホテル以外にもオフィスなどが入っているようだ。部屋にはブラウン管のテレビがある。カーテンやベッドカバー、ベッドサイドの照明器具、そうした細々とした備品の一つ一つが、古びているが「いいなあ」と思えるものばかりだった。決して高級なものではない。機能的でもない。だけど、無印良品ニトリビックカメラなんかには絶対に置いていないことだけはわかる。建物のエレベーターの操作の仕方すらぼくはわからなかった。薄暗い一階でまごついていたところを、掃除夫に助けられてやっとこさレセプションのあるフロアに向かうことができた。それだけ、かけ離れているのだ。
二泊三日の予定だった。それをさらに二泊、延泊した。しんと静かな部屋のバルコニーから、地中海を見ることができた。
地中海である。旅は十ヶ月目に入っている。この海を渡れば、ギリシャにもイタリアにも行ける、というところまできたことになる。ワイン、オリーブ、白身魚、白い壁の輝く島々、太陽の光、海鳥の声。地中海は、南ヨーロッパを象徴する海だ。資金は目減りしているが、いよいよ、いよいよ、とぼくはヨーロッパを意識する。まだ見ぬ世界への期待を強く持っていた。


ブラジリアンコーヒー

小さな半島に向かって緩やかに湾曲した海岸線に沿って堤防が築かれている。堤防に沿う車道と遊歩道が、この街のもう一つの中心地だ。街は堤防まで隙がなく広がっており、海風に吹かれながら歩ける遊歩道には人通りが絶えなかった。しかるに、ぼくは退屈しない。夜になれば、若者たちがくり出した(ホテルからそこまで二分で行けるぼくもくり出した)。堤防に座るカップル。お互いの肩を支えにし、エメラルド色の地中海の風に、シャツの背中を膨らませている。孤独に釣竿を投げているセーターの男。その背で、セルフィー大会を開く青年たちが騒がしい。半島の向こうに陽が沈み、等間隔に椰子の木がシルエットを浮かび上がらせた。その横を、汚いガスを多く出す埃まみれの平たい車たちがせっかちに走り抜けた。
カイロでその魅力に取り憑かれた、シャウェルマというストリートフードがある。ぼくは駅から一直線にホテルを目指す中で、ダウンタウンを通り抜けたが、そのとき注意してシャウェルマスタンドを探しており、しっかりとそれを見つけていた。到着初日にそれを夕食にした。それから、昼に夜にと通い詰めて、その何度目かで、顔を覚えてくれたスタッフたちと記念写真を撮るにまで至る。

一夜明けて、1929年から営業しているという「ブラジリアンコーヒー」に、朝食を目当てに立ち寄った。ここも昨日のうちに目をつけていた店だ。二階まである建物が、地元の人々でいっぱいだった。日本人はおろか、西洋人のツーリストだって一人もいない。開放的な一階は、ハイテーブルに肘をもたれて、立ちながらターキッシュコーヒーのミニカップを一杯引っかけて出ていくような、せわしない男に適している。天井の低い二階は二人掛けのテーブルが所狭しと雑多に置かれていて、夕方に行けば、話し込む男女もたくさんいた。
チーズクロワッサン、ピザ、アメリカーノで47ポンド。名前だけでなく、実際にブラジルのコーヒーを出すことがこの店の売りらしい。しかし惹かれたのはその外観、内装だった。今その場に身を置いているわけではないので、具体的に書けないのがもどかしい。しかし……例えば、椅子やテーブルの手触り、照明や窓枠の装飾、壁のレンガの色合い、階段の軋み、ウェイターの服装、歓談する濃い髭の男たちとヒジャブの女たち、換気扇から差し込む光、古くて大きな扇風機、鈍い光沢を放つ食器──そのような無数の要素が、西洋文明の影響を多分に受けながら、アラブの長い歴史の中で人々の生活と共にあり続けた本物のコーヒーショップとしての佇まいを持っていた。

(たいchillout)

 

【エジプト/カイロ・ピラミッド】ゼロになる文明

到着日

アブダビ発カイロ行きエティハド航空EY655便のキャビンアテンダントは金髪だった。手元に置いておきたいデイパックも頭上の荷物入れに仕舞うように指示されたが、機内食はなかなか美味しい。お昼を回っていたので飲み物にはワインを選んだ。アブダビからカイロまで四時間。四時間は東京から香港までの距離に相当する。同じアラブ圏ではあるし、地図で見ると近いようだが、あっという間というほどの時間ではない。
アフリカそしてアラブ世界の中心的都市の国際空港にしては、カイロ国際空港は小さかった。シャトルバスのエアコンはきいておらず、これはぼくの確認漏れだった可能性もあるが空港と街中をダイレクトに繋ぐ「エアポートバス」が存在しなかった。ちなみにシャトルバスは、「空港」と「空港のバスターミナル」を結ぶバスである。ともあれ25USドルでアライバルビザを買って入国できたぼくは、アラブ首長国連邦では買わなかったSIMカードを久しぶりにエジプトでは購入し、ATMで2000エジプト・ポンドを引き出して(2000というのはカフェのエスプレッソが38ポンドだったところから検討をつけた適当な数字)、空港内でやたらと電話をかけているエジプト人たちを横目にそのシャトルバスに乗った。バスターミナルで別のバスに乗り換えたが、そのバスからも乗り換えが必要である由を確認していたぼくは切符切りの男の指示に忠実に従い、まったくよくわからない幹線道路沿いで降ろされた。車がびゅんびゅん走っている。エジプトの車は外観がレトロだ。角張っていて、背が低く、古いヨーロッパ映画や大戦期のアメリカの都市の写真などで見かけるようなデザイン。レトロな趣味が人気なのではなくて、どうやらこれがスタンダードなようである。ほぼすべての車がそんな感じだからだ。そして運転の荒さにかけては、世界随一であることを、ぼくはこの旅の経験にかけて保証できる。
問題の幹線道路では、あまりに車が速すぎてぼくは何分も対岸に渡ることができずにいた。そんなとき、後ろからやってきた二人の女性に声をかけられた。二人もどうやら同じようにこの道を渡りたいようだが、ぼくとは危険に対する感覚が違うらしく、渡ろうと思えばすぐに渡れそうな様子である。二人は及び腰のぼくを見て「こいつは放っておいたら永遠にこの道を渡れないだろう」とでも思ったのかもしれない。一緒に渡ろうと言ってくれた。陽が傾いてきて、車たちのヘッドライトが点灯しはじめた頃だ。ぼくは二人のヒジャブ姿の女性と一列になり、片方の女性の合図を待った。「XXX!」女性はアラビア語で言った。「いまだ!」「行くよ!」そう言ったのだとぼくにはわかる。ぼくたちはヘッドライトの海の中に飛び出していた。こっちにきて。走っているぼくに女性はジャスチャーでそう示した。そして走りながらぼくに手を伸ばした。手を繋ぐのだとわかった。さすがにそこまでしてくれなくても大丈夫だったが、ぼくはなにかの記念にと思い、その手を握り返した。渡った先を歩くと乗り換えのバス停がある。女性たちは別の道を行くようだ。ちょっとした雑談をしようにも、ぼくが英語で話すとアラビア語で返事が返ってくる。ぼくはアラビア語を理解しない。そうすると女性は適当になって「one! two! three! four!」と言う。ぼくがそれにウケて笑うと、それでコミュニケーションは完了した。
乗り換え先のバスは、バスではなく、乗合式のワゴン車だった。車内ではいかにもアラビアンな音楽がBGMとして流れているが、もちろんこの車は観光客向けのものではない。要するにこの日エジプトに乗り込んできたぼくのために雰囲気を作ってくれているわけではなく、人々が望むからこの音楽が流されている。アラブ人にとってアラビアンな音階は、今も普通に親しまれているポップスであるということだ。例えばラジオや有線で日本の伝統的な音階を使った音楽が日常的に流され、ごく自然に人々がそこにチャンネルを合わせるようなことは日本ではないだろう。
そしてカイロの中心であるラムセス駅でぼくは降ろされた。そのワゴン車が市の中心部に入るに従って見えてきた街並み、そして活気のある駅周辺の様子と人々の姿は刺激的だった。車だけでなく、カイロは駅やマンションなどの建築もことごとくレガシーな外観をしている。駅前からいくつものバスが出発しているが、どれも英語の表記がない。高いミナレットのモスクが見えてきて、そして鳴り響くコーラン。フルーツ売りの馬車。レンガ造りのシーシャ屋の軒先にいる、ターバンの老人。椅子専門店。そのすべての椅子が竹で編まれている。串焼きの煙が立ち込める一角。商いは路上でも行われている。ある少年は地面に売り物の煙草を積み上げ、客が来ないあいだは教科書を広げて勉強をしていた。あるステッキの老人は、地面にトイレットペーパーを敷いて、その上に座りなにかを売っていた。千年以上前にイスラム化されたエジプトではもうピラミッドは信仰されていないが、遺伝的には古代のエジプト民族固有の血が今も続いているという。なるほど、たしかに、アラビア半島や南アジアで見てきたアラブ人とは違った面差しをしている人がいる。鼻が、高いだけではなくその先端が鋭角で、老人なんかだとそのせいで悟りでも開いたみたいに哲学的に見える。目も鼻もクリッとした、ティピカルなアラブ人が、フレンドリーな分だけ少し軽薄に見えたりするのとは対照的だ。女性はヒジャブをつけているが、アラビア半島と比較するとカジュアルなファッションをしている。目と鼻と口は出している人がほとんどだ。マレーシアなどに近いかもしれない。地域柄、ムスリムは世界的に褐色の肌をしているイメージがあるが、カイロではヒジャブの下に白い肌と青い目をした女性をときどき見かけてはっとした。スキンケアでは及びもつかない、白人の白い肌である。観光客ではない。たとえばある女性はスクールバッグを背負いノートを胸に抱えて、褐色の肌をした友人と並んで路線バスの吊り革を掴んでいた。ファッションもヒジャブも振る舞いも、肌と目の色以外はすべてこの土地の周囲に溶け込んでいた。白人の血が主体となったエジプト人なのだとわかった。ヨーロッパに近づいている。

 

二日目

一晩明けて、ホステルの朝食を食べる。ブラックコーヒー。コッペパン二つ。オムレツ。クッキーが二種類。エジプトは建築が魅力的だ。バルコニー。扉。扉の取手。錠前。階段。エレベーター。街灯。植木鉢。天井の色。天井の高さ。すべてが冒険映画で立ち寄る街のセットのように、ぼくたちにとってはファンタジックに見えるが、つくりはしっかりしている。信じられないが、すべて本物で、あとから雰囲気を出すために作ったレプリカじゃない。四月のカイロは気候もいい。乾いていて、晴れている。雨上がりの初秋の朝の透明な空気が正午いっぱい続くような感じだ。ホステルから出て、あまりの気持ちよさに深呼吸をしていると、鍋を抱えた少女がどこからか現れて隣のマンションまで走っていった。
さて、なにをしよう。新しい街の一日がはじまってまずぼくはカフェを探す。その街での最初の商業的やりとり、最初の探検、人との初歩的な交流、それをカフェという空間でカフェの店員さんを相手に実践する。街歩きの計画もほとんどそこで立てる。トイレなどで困ったら簡単にホステルに帰ることができる距離が大事だ。それなら地図もいらない。雨も許せる。一杯のコーヒーだから注文のハードルも低い。カフェには地元の人がいる。カフェからは街が見える。リッチな店に入ってしまってもたかが知れている。カフェでは観光業に従事しているわけでもないごく普通の人が働いている。だいたいの場合、若い人たちだ。目が冴え、頭が冴え、姿勢が正しく、呼吸も正しい、体温は適正で、空腹感まで理想的。新しい街でカフェを探すとき、ぼくはだいたいそんな状態でいる。自然にそんなコンディションに整っていく。すべてに注意が向いて、自分が最も冴えているその時間は、街についても人についても自分についても人生についても過去についてもこれからについても、すべてを同時に考え、すべてに関する考えが並列的に正しく、間違いない方向で整理されていくのである。
東西南北、一日を街歩きに費やした。賑やかそうな地区から地区へ、疲れたらカフェへ、ときにはトイレを堪えて早歩き。お昼はあらためてラムセス駅を見にいき、構内のレストランでアラビアータとストロベリースムージーを注文した。昼下がり、あるショッピングセンターの裏手のテント小屋のようなところでシーシャ屋に入る。日本ではシーシャというとどうも若者の遊び場のような浮かれた印象があるが、なんてことはない、シーシャの本場アラブ圏では昼間から暇をしているほこりっぽいおじさんたちが客層の中心だ。音楽なんてかかっていない。だけどそれがいい。粉っぽいターキッシュコーヒーとシーシャはよく合った。ぼくは煙草を吸わないが、煙には不思議な力があるなあと思う。煙が漂うと空気の流れが可視化される。そして、そのゆったりとした空気の流れを見ていると、それはまるで時間の流れでもあるかのように見えてくる。落ち着いた気持ちになるのだ。加えてシーシャには物質的大きさ、造形の美、そしてそれを楽しむための手続きがある。蕎麦の薬味が最初からつゆに入っていないで別皿に乗っているのと一緒で、「セットアップ」という一手間が、これからの時間に意味を持たせてくれる。
夕食は前日と同じスタンドでシャウェルマを買って立って食べた。ぼくはわざわざローカルフードをネットで調べたりしないが、どうやらシャウェルマはその類らしく、ホステルの周囲を歩き回っているうち繁盛しているようだったその店に行くと会心の当たりだった。これが本当に美味しかった。シャウェルマは巻き物だ。この店は肉も野菜も入っており、安く、次々に売れていくので常に出来立てだった。そう、忘れてはならないが、エジプトは物価が安いのである。ヨーロッパに向かう前の、最後の経済的自由をぼくはここで味わえていたのかもしれない。
酒屋で瓶ビールを買ってホステルのある建物に帰ると、アンティークなエレベーターが動いていない。居合わせた中年の男性とボタンを押したり叩いたりと試行錯誤したが男性はあきらめて階段に向かった。するとその直後にエレベーターが降りてきて、ぼくを迎え入れるその扉が開いた。ぼくがホステルのある階に到着すると、ちょうど男性も階段を上ってきて、エレベーターの透明なガラスを挟んで(ガラス張りなのだ)目が合った。男性はにやりと笑って、ぼくに向かって親指を立てた。

 

三日目と四日目

そして次の日、ピラミッドを見に行く。ピラミッドというと砂漠の果てにあるものだとぼくは思っていたが、実はそうではない。ワールドクラスの観光地としては拍子抜けするくらいカイロの街に隣接しており、なんと地下鉄で近くまで出ることができる。ギザの大ピラミッド(クフ王の墓)もスフィンクスも、後世のカイロ市民とエジプト政府が観光業で潤えるべく五千年前に政治的な配慮が行われたかのようにコンパクトにそこにまとまっている。当のピラミッドへの感想だが、特にない。160ポンドで入場し、一通りを歩きながら見て、写真を撮った。ピラミッドは三つあるので移動にはそこそこ歩く。その周辺にはラクダを連れた男たちがうろついており、いくらか払えばそいつに乗ることができるらしい。誰かと一緒にいるならまだしも、そしてこんなケチンボな長旅をしていないのなら、ぼくも話の種にラクダに乗ったかもしれない。だがそのときぼくの財布の紐は激硬であった。激硬であるために、エリア内のレストランで食事をとったりもせず、ガイドも頼まず、チケットにもう少し上乗せをすると入場できる展示スペースやピラミッドの内部にも入らなかった。ぼくはただ、160ポンドか……と思いながらひたすらその四角錐のまわりをぐるぐると徘徊して、ここにはどんな観光客がくるのだろうと、いつものように人々を見渡していた。歴史へのロマンや、アカデミックな関心も、ぼくはそれほど少ない人間ではないはずだった。しかし、それよりも優先されるものがあった。余裕がなかったのだとも言えるし、意識が高かったのだとも言える。「あの」ピラミッドを見るにつけても、ぼくはそこがどれほどツーリスティックであるかを見極めようとしていたし、適正価格の判定に慎重になりもした。観光地としてのピラミッドが、その価値に与ろうとする現代エジプト人やエキゾチシズムを求める西洋人、中国人、そして日本人である自分自身にどのように映っているかを確認し、イメージと現実のギャップを炙り出し、それによってピラミッドが好きか嫌いか、ピラミッドを肯定するか否定するか、ピラミッドに感動できるかできないか、決めようとしていた。
今ならもう少し違う旅をするだろう。だけど、あのときあれだけシリアスだったからこそ、「この次は」という新たな気分も生まれるのだと思う。次にピラミッドを訪れたときは、似非ベドウィンの男らにチップをはずんで歯を剥き出しにしたラクダと並んでセルフィーでもしてみるかもしれない(しない)。
ちなみに翌日には、ナイル川沿いに建つエジプト考古学博物館に行っている。美術館や博物館はどの都市にもあるが、ここはまさにエジプト文明に焦点を当てている。やはりピラミッドを見るだけでは、悠久の歴史に想いを馳せるのにも限界があったのだろう。
その展示を見て思ったのは、エジプト文明の魅力は、その宗教と文化がある地点を境に完全に途絶えてしまっているということだ。だから当時の人々がなにを考えていたのか誰にもわからない。その手がかりはすべて掘り起こされたものの中から探すしかない。そして、同時代の日本では「縄文」という文明以前の社会が存在したに過ぎなかったことと対照的に、エジプトには文明があった。文明があったのに、それが完全消滅した。ヨーロッパも東アジアも前文明の上に新たな文明が積み重なる直線的な発展構造を有しているのに対し、エジプト文明はゼロになった。
博物館の帰りに、ナイル川にかかる橋を渡って戻ってきたところにあるタハリール広場で「ヘイマン!」と声をかけられる。タハリール広場は、アラブ連盟の本部に代表される政府庁舎やリッツカールトン、インターコンチネンタルなどの世界ホテルが立ち並ぶカイロの中心地のひとつだ。そこから放射状に道路が伸びる巨大ロータリーの心臓部分でもあり、芝生が敷かれて寛げるスペースもある。声をかけてきた男はぼくにスマートフォンを渡した。そしてなにかのモニュメントの前に八人のエジプトの若い男たちがニコニコして整列した。写真を撮れ、というわけだ。八人の男が並ぶのを見るだけでこんなに清々しい気持ちになったことはない。男たちは並んで立っているだけだが、それぞれがそれぞれのスタイルでわずかに気取った表情を作った。それがなんともいい雰囲気だった。かっこいいぞ、心の中でそう呟きながらシャッターを押した。

(たいchillout)



【アラブ首長国連邦/アブダビ】白いモスクと緑の海

白いモスクと緑の海

アブダビの朝をむかえた。部屋に備えつけられたポットで沸かしたお湯と、携帯していたティーバッグを使って紅茶を飲み、洗濯をして、通路に置かれた物干し台に、許可をとって洗濯物を干した。
アブダビにはシェイク・ザイード・グランド・モスクという白く美しいモスクがあるらしい。明日、エジプトのカイロ行きの便に乗るため、アビダビ観光ができるのは今日一日だけである。ぼくは、まずはそのモスクに行くことに決め、その後はノープランということにして、昨日の夜に準備した青リンゴとフィナンシェの朝食を済ませてから街にでた。
スターバックスでコーヒーを飲み、バスターミナルに出かけてバスカードを買う。モスク行きのバスに乗ると、人は少なかったが、揃って派手なワンピースを着た日本人女性二人組が乗っており面食らった。モスクを見終えて街に帰ってくると、まだ明るかったが宿に戻って洗濯物の乾き具合を確かめた。ぼくの部屋の前、洗濯物を干していた通路に二人のフィリピン人女性がいた。一人は椅子に座って、もう一人がその後ろに立ってハサミを持っている。散髪をしているのである。ハサミを持っている方の女性が「ハァ〜イ」としなをつくって言い、ぼくにお前はレディーボーイなのかと聞いてきた。
「レディーボーイ?」
「そう、レディーボーイ」
「なに、レディーボーイって?」
女性たちはくすくす笑う。
「ゲイのことよ」
「ノー」と言って部屋に戻ろうとすると、
「あなたも髪切ってあげる?」
ぼくはそろそろ髪を切りたいと思っていた。実はこのとき少し真剣に切ってもらおうかと悩んだのだが、つい断ってしまった。
少し身体を休めてから、ビーチへ。街の中心部から歩いてゆけた。広い砂浜に人は少ない。ぼくはサンダルを脱いで素足でビーチを歩いた。細かい砂が滑らかで、貝殻やゴミのようなものもほとんどない。磯の匂いなどは少しもない。どこか人工的で、そのせいで幻想的でもあった。アブダビの陽は長いが、もうサンセットがはじまっている。手をつないで砂の上を歩く男ふたりが目の前を通り過ぎた。とにかく風が気持ちいい。空気が乾燥しているから、陽が翳るとすぐに汗が引くのだろう。三日月が出た。暑い一日で温められた表面の砂を踏み抜いて、埋まっていた冷たい砂に足裏が触れる。それを一歩ずつ繰り返す。海の色は明るく、色彩にグリーンが混じっている。ここは砂漠の果ての海なのである。
翌朝、スターバックスで寛いでいると、予定していたエアポートバスの時間に遅れそうになり走った。そのバスは目の前まできたところで逃してしまったが、次の便でなんとか空港のチェックインには間に合った。
空港では、ギリギリアウトの重さのバックパックを節約のため機内持ち込みにしたく、試行錯誤した。チェックインカウンターと手荷物検査はしれっとクリアしたが、搭乗ゲートでついに「こんな重いバッグは機内に持ち込めない」と言われた。預け荷物のチェックインはもう締め切っているはずだったが、どうやら追加料金なしでそこに紛れ込ませてくれたようだ。
離陸。ぼくはついにアラビア半島を立った。次はエジプトだ。この旅で唯一のアフリカ大陸の国である。ピラミッドをみるぞ。

(たいchillout)