【エジプト/ダハブ→エルサレムへ①】低予算

エジプトのダハブからイスラエルとの国境に向かうバスのチケット代金は調べていたはずだったが、なぜか最終的に財布に残っていたエジプト・ポンドはそれに足りていなかった。ぼくはそのことに当日、バスターミナルに着いてから気がついた。
出国は目前だ。今から両替したらどうやってもポンドを余らせることになる。せっかくジャストの要領で金を使い切ったのに、ここにきて役に立たない小銭をつくるなんて愚行は自分が許せない。
いや、それ以前に、この近くには両替所なんて存在しないのだった。このバスターミナルがあるのは町の外れ。ぼくはすでに砂漠に片足を突っ込んでおり、両替所どころか売店やちょっとしたコーヒーショップさえ見当たらない。幾台かの駐車スペースと、トイレ、埃で煤けたガラスのチケット窓口ひとつだけがバスターミナルの備えるすべてだ。
持ち合わせがチケット代金の65ポンドに足りないのにも関わらず、ぼくはソワソワとバスが現れるのを待っていた。いったいどういうつもりだったのだろう。いま思えば謎でしかない、奇怪な行動である。ちょっと足りないのだがまあ乗せてくれないか、と運転手に交渉でもするつもりだったのだろうか。

近くまで歩けばATMがあるよと教えてくれる親切な人間がいた。それにも関わらず、ぼくはATMに行くことすらためらっていた。つくづく不思議だ。手数料を払い小銭を余らせる結果はATMも同じだが、バスに乗らなければ出国できないし、チケットを買わなければバスに乗れない。バスを諦めて出国しないなら、それはそれとして、今日一日をダハブで過ごすだけの予算もないのだ。国境までの距離は、およそ150キロである。

バスの出発時刻が近づいてきた頃、バスターミナルにはわずかばかりの乗客以外にも人が集まりはじめていた。シェアタクシーと思われる乗用車を運転する荒くれた男たちだ。
男たちはぼくに、どこに行くのかと訊いてくる。むろん、イスラエルだ。ボーダーに行きたいと話せば、乗ってけ、と誘ってきた。料金を訊ねれば、バスのチケットよりも高い。とはいえ、金があっても乗る気はない。ここはシナイ半島だった。ダハブから国境までの砂漠地帯は外務省の定める地域別の渡航危険度がレベル3となっており、過去にISILがテロ活動を行った実績の多い無法地帯だ。ボーダーを超えたすぐ先には、リアルな紛争が行われているパレスチナガザ地区がある。バスですら緊張が伴う道のり。相応の危機感は持っていた。
男たちに正直に予算を伝えると、それじゃあバスも乗れねえぜと眉根を寄せた。知っている。だが、金は無いのだ。断固として。
そのとき、別の乗用車が現れた。四人の男が降りてきてぼくを取り囲む。皆エジプト人に見える。一人が言った。
「俺の車に乗っていけ」
懐事情を話すと、ぴったりそれでいいという。
どうやら他の三人は乗客らしく、彼らと割り勘になるから安くてもかまわないのだそうだ。
ぼくは奇跡が起きたと感じた。ちょっとしたミスからチケットが買えなくなり、間一髪のところでその非常識な低予算を容認する移動手段が現れた。いま出発すればバスよりも早く国境に到着し、不確定要素の多いその後の行程に時間の貯金ができることもメリットだった。束の間気分が高揚し、「じゃあ乗るわ」と伝え、バックパックを男たちに預ける。男たちは協力してそれをスペースの狭いトランクに仕舞い込み、そのあいだにぼくは四人用の車の後部座席の中心に座らされた。

そして、ぼくは突然恐ろしくなった。
男たちはぼくのバックパックを預かり、ぼくの代わりにトランクに収納した。その最終的な瞬間をぼくは見ていない。男たちの手元が、開いたバックドアで死角になっているときに、車内に案内されたからだ。
そしてぼくの席はアラビア語でなにやら話している二人の大柄なエジプト人に挟まれて、ほとんど身動きができない車の中心部だった。
ひょっとすると、ぼくのバックパックがすでに持ち去られているなんてことはないだろうか。
いや、それ以前に。と考えて鼓動が早くなる。──ぼくの身は果たして安全なのか。
考えてみれば、やけに四人の息が合っているような気がした。ぼくを誘う口振りから、荷物の収納まで。だから最初ぼくは、彼らが一人の運転手と三人の乗客なのだとわからず、四人組の友人かなにかだと誤解した。それが誤解ではなかったとしたら。
乗合タクシーには何度も乗ってきたが、多人数を運びやすいバンタイプの車が多く、四人用の普通車はいかにも珍しい。北の国境へ向かう道は地図で見るとほとんど一直線であり、そのあいだに町は東の海沿いに数えるほどしかない。そのどこかで、車が道を外れて、西の砂漠の中枢へとぼくを連れ去っても、それを知る人間はこのシナイ半島に一人もいないだろう。自分としたことが、軽率だった。しかし、いまなら引き返せる。いまこの瞬間だけが、最後の分岐点となり得るだろう。ぼくは、身をよじって両脇の男たちに訴えた。
「荷物を確認させてくれ」
男たちはどうしたんだと不思議がる。そのとぼけ方がわざとらしいように感じた。
「トランクの中のぼくの荷物を確認させてくれ。ちゃんとそこにあるのか? ぼくはいま怖くて不安なんだ。だからバックパックを確認したい」
笑いながら隣の男はドアを開けてぼくを外に出した。そして、ぼくはトランクを開けた。バックパックはそこにあった。
ぼくは席に戻った。大丈夫だよ、男たちはぼくにそう声をかけ、ぼくは三人の乗客にお前たちはどこに行くのか、なにをしにそこに行くのかと質問を続けた。本当に移動が目的の乗客なのかどうか。運転手とのあいだに特別な利害を持っていないかどうか。ぼくがした質問への返答に、不自然なところがないか見極めようとしていたのである。

2019年4月 たいchillout