【マレーシア/ジョホール・バル】宝物、祈り、面談

接続駅 Gemas まで

タイ国鉄の夜が明け、国境で高速鉄道KTMに乗り換えた。夕方にKLセントラルに到着してそのままチケットオフィスへ。驚いたことに「首都KL」と「第二の都市JB」を結ぶ直通列車は存在しないことがここで判明した。仕方なしにぼくは二つの切符を買った。KLから接続駅であるGemasまで、GemasからJBまでだ。その日はギネスビールを飲み、福建麺を食べて寝た。

翌日、Gemas行きの鉄道に揺られているとき、また身体全体の不調が戻ってきていることに嫌でも気づかされた。バンコクを出発したときと同じものだ。失敗したなあ、昨夜飲んじゃったもんなあ、ギネス。一発で退治できたはずの風邪に、ぶり返すチャンスをくれてやってしまったようだ。とにかくパワーになる栄養をとろうと、Gemasでの乗り換え時間でKFCに駆け込んだ。大きなフライドチキン二つにターメリックライスとコールスローサラダだ。もう一度「ルル」を飲んだ。

 

若きイラストレーターとの邂逅

ルルのおかげか、KFCパワーか、JB行きが出発してからしばらく、体調は回復の兆しを見せていた。隣のマレーシア人おじさんに話しかけられる。家族でペナンに住んでいるが、これからJBの実家に帰省するらしい。通路の向こうに奥さんと息子さんがいた。ぼくがバンコクから乗り継いできていることを話すと、おじさんは声を潜めて「女を買ったか」と聞いてきた。「買ってない」と言うと心底不思議そうな顔で「ん? どうしてだ?」と言う。ぼくはなぜか弁解口調になってしまった。「金がなかったんだ。これからも旅行を続けるために節約しなければならなくて…」

おじさんには感謝している。息子さんに出会えたからだ。日本の漫画やアニメ、その中でも特に『東京喰種 (グール) 』が好きなこの16歳の少年はシャンという。シャンはただの消費者ではなく、自分でキャラクターイラストを描いた。これが達者で、SNSではすでに多くのフォロワーを集め、仕事の依頼まで受けている。来春からは日本語の勉強もはじめるという。おじさん (お父さん) は気を利かせて、息子と席を代わってくれた。シャンはタブレットで『東京喰種』のキャラクターたちを描いたイラストを見せてくれた。本当に好きなのだ。そして本当に上手だった。それも一段落すると、いまから即興でぼく (たいchillout) の絵を描くと言う。すぐにシャンはタブレットをペンでなぞりはじめた。揺れる電車の中だった。

ほんの一時間と少しで、正面を向いたぼくのアニメ風カラーイラストが仕上がった。抽象的な背景まで描きこまれている。シャンはぼくの隣に座っていたので、正面の角度から描くことはなかなか難しいはずだった。石田スイの影響が垣間見える画風だ。上手い。どの特徴をどう捉えたのか皆目見当がつかなかったが (それは非常にささいなものなのだろう) 、たしかにぼくだった。実物よりよほど良い。宝物だ。2018年11月、長い旅路を生きる記念すべきぼくの一瞬が、ここに刻まれたのだ。

 

長い祈り

JBセントラルに到着したのは夜。駅と接続したショッピングモールの一階から街角に抜け、予約していたゲストハウスまで歩いた。夏の虫が鳴いていた。「ルル」の効果が切れたようだったが、大丈夫。もう寝るだけだ。シンガポールは直ぐそこだった。

翌朝、体調は回復していた。ほらやっぱり大丈夫。通過点とはいえどもJBの街にだって興味がある。インド料理屋で朝食をすませ、ぼくはもくもくと歩き始めた。JBはKLよりもすっきり清潔だった。高級住宅地があり、その一角にキリスト教系のプライベートスクールがある。白い壁。カラッと晴れた太陽。人のいない坂道。だめだった。また、体調が悪くなってきた。軽い頭痛。関節痛のようなものまである。歩きだしてから二十分も経っていない。身体が今すぐに休息を欲し、フラフラと教会に吸い寄せられた。シンガポールにはキリスト教徒が多いらしく、ここJBにも教会が点在していた。

静かだった。街そのものも静かだったしこの教会はもっと静かだった。神聖で、厳粛だ。ぼくのように長椅子に座っているだけの人もいれば、祭壇へと歩む人もいる。ぼくは硬い長椅子の前の細い長机に両肘をつき、肘は立てたまま両手を組み合わせ、組み合わせた両手の甲に頭を乗せた。下を向き目を閉じた。かなり消耗した。動けなかった。長いことその姿勢でいた。開け放たれたドアからドアへと汗を乾かす心地よい風が吹き抜ける。客観的には、ぼくが祈りを捧げているように見えたかも知れない。だとしたら、長い長いお祈りだった。だとしたら、何に祈っていたのだろう。

 

面談

休むと少し良くなる。こんどこそ治ったと思うと、ぶり返す。こんどこそ悪化したと思うと、休めば良くなる。これはちょっとおかしい。風邪じゃないかもしれない。その後も無理して街を歩いてしまい、ぜーはー言いながらゲストハウスに戻った。ちょっとまじめに体調が心配になってきて、ここでもう一泊して休むことにした。香港行きのフライトまであと五日と迫っている。屋根付きの庭で呆けていると、年配の日本人男性に声をかけられた。元ジャイアンツの桑田真澄が初老を迎えた感じの、さっぱりと知的な風貌のその人は鹿児島からきた松山さんといった。
1975年。松山さんは、あの深夜特急の時代に、二十歳の若さでヨーロッパを旅したらしい。それから40年以上、その人生は旅と共にあり、そして還暦を過ぎた今も旅をやめないでいる。

「ちょっと話そうか」

一人旅をしてる日本人の若者と会ったらいつもそうするかのような口調だった。面談だ。若手がどんな旅をしているか、ちゃんと良い旅をしているか、先輩が見てくれるのだ。
行きがかり上、期せずして、あまり人に頼るつもりは (つもりというか発想そのものがぼくには) なかったのだが、ぼくはいまの体調の話をすることになった。それを受けた松山さんはこともなげにこう言うのだった。

「それはA型肝炎かもしれないね」

 

(たいchillout@アラブ首長国連邦)

ジョホール・バル編終わり。

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