【オマーン/マスカット】Help!

Help!

Airbnbステイ三日目は、Cave(洞窟)に連れて行ってくれた。例によってメンバーはホストのハッサンとぼく、そしてドイツ人ゲストのラージとアレックスだ。ただし、これはツアーである。ハッサンに10リヤルを支払った。ぼくはひとりでマスカットの街を散策したい気持ちも強かった。だが、良きも悪きもそうした雰囲気ではなかった。ここでこうして集まったのもなにかの縁だから……。ラージとアレックスはローカルな体験と自然に貪欲だ。ハッサンは人との関わりを愛し、施しの心を持っていたが、ビジネスの感覚もあった。
高速道路を走った。砂漠? いや、岩山という感じだ。緑は一切無い。郊外に出れば建物も無い。道路は相変わらず美しく、海が見えることもあった。朝早い静かな車の中でラージは窓にもたれて眠っている。
洞窟。と言われてもどうにもイメージが湧かなかったが、到着してみて、なるほどこういうものかと思った。ぼくたちは水着を用意していた。明るい肌色の岩々が切り裂かれた渓谷に透き通ったエメラルド色の川が流れており、そこを一時間弱歩いて、ときには泳いで、奥までたどっていくと、洞窟の中にぽっかりとプールのような場所があるのだ。洞窟の天井は割れており、そこから木漏れ日のように外界の光が差し込む。天井の裂け目から、その天然のプールに飛び込むこともできた。渓谷の入り口は閑散としていたが、洞窟に近づくにつれ、観光客が増え、賑やかになってきた。
しかし実は、ぼくはその洞窟まで辿り着けなかった。
途中の、足が水底につかない場所を一定の距離、泳いで渡る必要があった。子どもの頃は水泳を習っていたけど、ぼくはそのとき恐怖で先に進めず、岩に掴まって「ここで待っている」とハッサンに言った。それまでの水深が深い地点で、思うように息継ぎができず、手足も動かず、前を行く三人にまったくついていけなかった。何度かハッサンの助けを借り、みんなの激励を受けて辛うじて洞窟の目前までたどり着いたが、いよいよ体が、言うことを聞かない状態の寸前まで来ていると思った。ここで見栄を張ってはいけない。ここで気をつかってはいけない。ぼくはそう思い、ハッサンに正直に言った。ハッサンはラージとアレックスをガイドする役目もあるから、二人を連れてすぐ目の前の洞窟に泳いで入っていった。
ぼくは待った。
だが、待っているこの場所も、実は足がつかない。手で岩に掴まっていたが、その岩はぬかるんで滑りやすかった。そして、低い水温がぼくの体力を確実に奪っていった。信じられない。昨日は三人ともあれだけ熱い温泉に浸かっていたのに、今日はこんなに冷たい水を泳げるなんて。確かにぼくは、中三で野球部を引退してからまともな運動をしていないが、確かにぼくは、そもそもが非力な優等生タイプで暑さにも寒さにも雨にも風にも湿気にも乾燥にも騒音にも悪臭にも弱いが、それでも同年代の三人との総合的なフィジカルのパワーに差があり過ぎた。人種が違うのだ。というのも、ひとつの解だろう。いや、間違いなくそれはある。しかしそれにしても、だ。日本人としてのぼくは身長もあるし、運動で周囲から強烈な遅れをとるようなことも経験してきていない。そうした自己認識が、彼らを見て、歪むのだ。体力をつけたい、と思った。
様子を見に来たハッサンの肩に掴まって、ぼくは陸地まで送り届けられた。
そのときHelp meと言った。この旅における、最初で最後のHelp meだった。

 

美しいムスリムは豊か

渓谷の入り口から洞窟への往復で、印象的だったことはあと二つある(ちなみに風景の美しさは言うまでもない。見る余裕はあまり無かったが)。
ひとつは、帰り際、中国人だと思われる若い女性の二人組が、岩の先端に立ちエメラルド色の入江を眺めて、「高いねえ」「水綺麗だねえ」ときゃっきゃしている後ろから、ハッサンがなんとも気安く「飛び込んじゃえよ」と声を掛けたことだ。現代日本風に言えば「チャラい」声の掛け方にぼくからは見え、厳格なムスリム男性というイメージを裏切った。トーブも着ていないし、レジャーの場だから開放的になっているのかも知れない。あるいは、いくら宗教的なムスリムでも、奥さんが見ていなければ、男は大体こんな感じなのだろうか。
もうひとつ。大きなスピーカーを持ち歩き、そこから大音量で音楽を流している数人の男女とすれ違った。ラージが、不快そうに、「彼らはどこの国の人だ?」とハッサンに聞いた。この美しい風景の中に、音楽はいらない。ぼくもそう思う。集団が持ち歩くスピーカーには、空間を自分たちのものにしたいという傲慢さがあらわれている。
ハッサンは、自明のことのように「彼らはフィリピン人だよ」と言った。ラージは憂鬱そうに「ああ」と頷いた。
オマーンもとい中東にフィリピン人移民が多いことは、別の記事でも書いた。女性は、裕福なオマーン人の家でメイドとして働くことも多いという。スピーカーから音楽を流していた集団の中の女性は、薄着で派手な化粧をしており、女性と言えばニカーブで全身を覆うオマーン人女性の姿を見慣れていたぼくには新鮮に映った。しかし、そのときぼくは久しぶりに薄着の女性を見てときめいたのではない。逆だった。「ああ、オマーン人女性って綺麗だったんだなあ」と思ったのだった。
移民は歴然と下に見られている。経済力が低い国は「下」に見られている。それは差別だろうか。差別に違いない。ハッサンとラージは、そして言葉を発しなかったがぼくも、そのときフィリピン人たちを差別した。ムスリムの女性は美しい。それは魂が美しいからだ。普段なら考えないそんなことを、ぼくはフィリピン人女性との比較で考えた。宗教(イスラム教)は魂のステージを高くする。そしてそれは現実での幸福とも直結する。宗教を持つ人たちは、ごく自然にそう考えるのではないだろうか。ここ中東では、宗教の有無は経済力と知性と結びついている。宗教を持たず、醜いフィリピン人は無教養で貧しく、アッラーを信じ美しいムスリムは知的で豊かなのだ。事実として。
我ら極東の経済大国(日中韓)も、西洋の人々も、ムスリムの土地からムスリムのロジックで見れば、極めて自然に「美しくない」と見えるに違いない。あのときぼくは、擬似的にでもムスリムの側に立って世界を見たのだと思う。むろん、それは一方的なものの見方だ。だが、たとえ一方的でも、垣間見るかどうかで大きな違いがある。これだけは経験しないと分からない。

この旅の終盤、バンコクで美しいフィリピン人女性に出会った。その女性は、「これからバーレーンに行く」と言った。

(たいchillout)

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