【オマーン/マスカット】心づけをくれないか

ファンタオレンジ

ドバイ行きの夜行バスを、人の少ないバーガーキングで、ファンタオレンジを飲みながら待っていた。バーガーキングなんて普段なかなか行かないし、ファンタオレンジなんて子どもの頃だって飲んでいない。
ハッサンが、車でこのバスステーションまで送り届けてくれた。最後はハグをして別れた。イスラム教徒の男性がつける香水の匂いがした。到着の日に迎えに来てくれたのもこのバスステーションだった。

車の中で、ぼくはハッサンに心づけとして、三泊四日のマスカット滞在で使い残したオマーン・リヤルを手渡した。感謝の気持ちから、ではない。婉曲的にだが、心づけが欲しい、と言われたのだ。たくさんサービスしてもらったのでこちらには不満はない。しかし、違和感はあった。ぼくは、きっと奥さんに言われたのだろう、と愚考した。

 

愚考

ぼくにとっては初めてのAirbnbだったが、ハッサンもどうやら初心者であるらしい、と気がついたのは滞在中のことだ。彼は、ぼくとラージとアレックスという三人のゲストを厚遇したが、やりすぎでは、と思うくらいぼくたちに構ってくれた。一泊の料金も相場からすると随分安い。ぼくがUAEに入国してから何度か、滞在体験のレビューを書いて欲しいと依頼された。それも、ハッサンがまだAirbnbの新参者だったからだった。
ぼくはこう思う。奥さんは途中から、なんとなく機嫌が悪かった。ハッサンがぼくを送ってくれる少し前、ハッサンと奥さんの寝室から言い争いの声が聞こえた。言い争いといっても、ほとんどが奥さんの声だった。奥さんはぼくたちの前ではまったくと言っていいほど喋らなかったのもあり、ああ、不満があるんだ、とぼくは察した。
おそらく、奥さんはAirbnbに積極的ではないのだと思う。一方のハッサンは経済的な成功に野心を持っており、副業としてAirbnbにチャレンジしてみたかった。ハッサンは優秀な父と兄を持っている。自分だって、と思ったはずだ。生活が豊かになるのなら、と奥さんも協力してきたが、ゲストへの過剰なサービスは夫婦の時間とプライベートな空間を奪った。もしかしたら、夫が外国人に媚びているようにも見えたかもしれない。ハッサンには、低価格で徹底的にサービスし、高評価のレビューを積み上げてから値上げに踏み切る狙いがあったに違いない。ハッサンは媚びてなんかいない。中長期的に勝つための戦略がある状況下では、男のプライドは損なわれないからだが、それは奥さんには分からなかっただろう。
しかしながら、ハッサンもハッサンだ、とぼくは思った。ビジネスマンとして、男として、野心と誇りを持っているのに、奥さんに口出しされるなんて。Airbnbをやると決めたなら最初から奥さんに徹底的に考え方を伝えて説得しておかなければならないし、奥さんの機嫌に左右され言い分に耳を貸すのなら、こんなこと最初からやらなければいい。曖昧で、誤魔化している。

ここまでぼくが邪推したのには理由がある。ぼくが残念に思ったのは、はっきりしている。ハッサンは度々、クルアーンを引き合いに出して、ぼくに対して、「人生はマネーのためにあるのではない」と言ってきた。ぼくは、途中からそれが、ハッサンの複雑なマネー・コンプレックスからくるものだと気がついたが、それだけならまだよかった。金銭欲は誰にだってある。開き直ってはいけないが、潔癖に否定する必要もない。イスラム教徒がビジネスをしたっていいし、ビジネスよりも奥さんを大切にしたっていい。ビジネス、家庭、宗教、個人、それぞれの間に矛盾が生じること自体はおかしいことではない。
矛盾をおざなりにして、誤魔化してしまったことが問題だった。
イスラム教徒が、教典を引き合いに出して異教徒に人生のなんたるかを説き、マネーを腐したそばから、奥さんに逆らえずに「心づけをくれないか」なんて言ってしまった。ビジネスも家庭も宗教も個人も、どれも中途半端に見えてしまった。
それが残念だったのだ。
あるいはぼくにとってそれは、敬虔なイスラム教徒も人間だ、ということを肌で理解できる貴重な経験だったかもしれない。同時に、ぼくには未知と畏怖の際たるものであった宗教というものへの尊敬が、たしかに損なわれる体験でもあった。

この件について、ぼくはよく考えた。別れ際のことで、あと味が悪かったからだ。
でも、ぼくはハッサンが嫌いではない。あるいは、嫌いにならないために、オマーンを離れてもしばらく、このことを考え続けたのかもしれない。

(たいchillout)

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