银河铁道TIMES

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【インド/コルカタ】靴下の穴

ファイト一発

アライバルビザの発行にそれほど時間を要した記憶はない。真夜中のコルカタ空港、インド入国の一歩手前。二人きりで待たされた我々は一通りの自己紹介をした。
コリアンガールはイェジィという名であり、わずかな会話でも英語が抜群にうまいと気がついたが、訊ねてみるとやはりイングランドへの留学経験があった。出身はソウル。その日焼けと服装から相当な旅の熟練者だと覚悟したが、出国してからまだ三ヶ月とのことだった (ぼくはこの時点で七ヶ月弱)。しかもその三ヶ月はずっとタイにいたらしい。タイのとある島の「海の家」のようなところで住み込みでボランティアをしながら無料のベッドと三度の食事にありついていたらしいのだ。どうやら海にLoveらしい。
やがて空港職員が現れ二人それぞれにパスポートを返された。パラパラとめくるとビザのスタンプと入国スタンプも押されている。どうやらすべてはスムーズに進行したようだ。このビザで日本人のぼくはこの国への約二ヶ月の滞在が許され、二回の入国が認められる。一回目の入国は今この瞬間に使ってしまったので、プラスあと一回の再入国ができることになる。一度だけ再入国できるということはイコール一度だけインドから出国できることを意味する。その一回はネパールに使うつもりだった。インドからネパールに陸路で行き、そしてネパールからインドに再び戻るのだ。できればそれぞれ別のルートを利用して。
そんなことを考えていたら、同じように自身のパスポートを確認していたイェジィが場の静寂にそぐわぬ一声を発した。
「いぇーい!」
グーにした両手を耳の両脇で天高く伸ばして笑っている。パスポートから顔を上げてそちらを見ても何がいぇーいなのかしばらく理解できずにいた。ぼくに向けているのかすらよくわからないそのスマイルを見ながら頭を二三秒働かせて、やっと「ビザをゲットし入国できた」ことがいぇーいなのだとわかった。なんと唐突な。
ぼくはそれに調子を合わせたほうがいいと思い、リアクションを取ったが、やはりぎこちなくなってしまった。「い、いぇーい…」

人前でいぇーいと言うような振る舞いはあまり得意ではない。恥ずかしいのもあるし、私はそもそもからして感情がハッピーに振り切れることの少ない、ローファイ・チル・ボーイなのである。

──これから朝を待てるいい場所が空港内にあるだろうか
──イェジィと何を話しどう接しようか
──身体に疲れを溜めてはいけない
──ホステルはチェックイン時間前にシャワーを使わせてくれるだろうか
──イェジィはどこに泊まるのだろう?
──コルカタ空港ではWiFiが使えずSIMの販売も無いという説だが果たして
──せめてコンセントだけでも手に入るかしら

上述のネパールの件に加えて、ぼくの脳内はおおむねこのような話題で占められていた。 次の行動、次の行動だった。大人になったぼくはかつての慎重な性格 (石橋を叩いて観察日記をつけるような性格) から完全に脱却していたが、そんなぼくも生きていくための実務的&建設的そして旅的思考をいつしか溜め込み、さらには旅というものにすっかり慣れてしまい、やがてそれらと引き換えに「外国に行く」というただそれだけがもたらす圧倒的喜びに素のままに浸ることもなくなっていたのかもしれない。
だからイェジィはちょっと大切なことを思い出させてくれた。こういうときはファイト一発「いぇーい!」でいいのだ。という旅人の初歩的な心得を。

 

必要なもの全部

イェジィは預け荷物があるようだった。二人で受け取りに行くと、我々だけがアライバルビザ手続きで遅かったためにもうそこには誰もおらず、イェジィの荷物はベルトコンベアから下ろされてポツンと床に置かれていた。
その荷物は二つあり、片方はどう見てもギターケースだった。この人、ギター弾くのか。ただでさえある種の宿命的な出会いをしていると感じていたが、まさかギターとは。
「ギター弾くの?」
「うん」
「アコースティック?」
「No. Classical」
もう一つの荷物は何かわからなかったが、同じようにハードケースであり、少なくともリュックの類ではなかった。
「そっちの荷物は?」
「これ? これはAuto harp」
オートハープ!? 何それ?」
「コードを鳴らせるハープ」
なんと、この人は楽器を二つも持って旅をしている。イェジィのクラシックギターよりも小さなウクレレサイズのギター「ギタレレ」を旅に持って行こうと計画していたぼくは、まさに出発当日にやっとこさパッケージしたバックパックの重さにKOされ、土壇場で六弦と共にする旅を諦めていた。
話を聞くとやはりイェジィもあてのない旅をしていることがわかった。あてのない旅。いつ終わるのかわからない旅だ。一つならまだわかる。それでもフットワークには甚大な影響がある。なのに楽器のハードケースを二つ持って終わりなき旅をするのは、なんといっても規格外だ。だから当然その疑問をぶつけた。「どうして二つも楽器を持ってるの? どっちか一個でいいんじゃないの?」と。ぼくの質問には若干「あんたそれ頭おかしいよ」というニュアンスが含まれていたかもしれない。ぼくは半笑いだった。するとイェジィは真顔で答えた。
「もう韓国に帰るつもりはないから、全部持ってきたの。自分にとって必要なものは全部」

これまで出会った旅人や自分自身も含めて、ここまで覚悟という覚悟が決まっている人は初めてかもしれない。年齢を訊ねると二十六歳だと言う。その年齢ならまだ学生をしてる可能性もあるので音楽の学校にでも行っているのかと訊くと、「No. アクターの学校に行っていた」と言った。役者志望だったのか。「だけどやめて音楽をやることにしたんだ」と。そして今、旅をしている。
「ところで、たいchillout。ホステルの予約はしてる?」
「してるよ。イェジィは?」
「してないよ」
「してないの!」(ここでぼくはさらに驚いた。人生初めてのインドで!)
「してない。そこのホステルやすい?」
「やすいよ。確か…○○バーツ」(ぼくはタイの通貨表示でBooking.comを利用していた)
「○○バーツ。うん。やすいね。そこドミトリーだよね? まだ空いてるかな?」
「空いてると思うよ」
「一緒に行っていい?」
オフコース。ぼくはそう答えた。

タクシー走ってるかな、とイェジィが言うのでぼくは「I think」と口を挟んだ。今は午前三時で、ぼくが予約していたのは次の夜のベッドだった。この時間に街に出るのは普通に考えて危険だし、実際は危険がなくても危険の有無を見極めるために気を張る必要だけはある。タクシーがいてもいなくても、この真夜中に街に出るなんて考えられない。セオリー的に。
「I think──ぼくは思うのだけれど、街に出るのは夜が明けてからにしよう? 夜は危険だと思う。それまで空港で待とう」
イェジィは「それもそうね」という感じで素直にうなずいた。

 

靴下の穴

やがて荷物を積んだカートを押して、話しながらアライバルロビーに出たぼくたちは、そこで朝を待つのにふさわしいスペースを探した。ベンチはいくつかあったが横になれるものはすでに別の誰かが横になっている。しかし全体としては人はそれほど多くなく、気怠い気配があった。インドのインドらしい部分はまだそれほど感じない。
仕方ないのでなるたけすみっこに連なっているベンチの一群を選んだ。横並びに連結されたベンチが数列。一つ一つに肘掛が付いているために身体を横たえることはできないが、向かい合った二列とその前後のベンチに人影はなく、気を抜いて休めそうではある。ぼくはひとつのベンチに座って、向かいのベンチに足を乗せた体勢で眠ろうとした。しかし向かいのベンチとの間隔が意外に広いせいで脱力して休むことはできなかった。二人の荷物一式はカートの上に放置している。盗む人はいなそうだが、ここはインドだからなあ、という心配も少しはあった。
どうにも身体を休めるポジションを見出せずにぼくはほとほと絶望しかけていたが、イェジィは違った。向かい合った二列のベンチの間のスペースにショールを広げ全くためらうことなく床の上に横になったのだ。脱いだ靴を揃え、楽な体勢を見つけて身体を曲げた。顔にもショールを被せて、あっという間に肩で寝息を立てはじめた。
この人はすごい。バックパッカーファッションも二つの楽器も決して見掛け倒しではない。自由さと言う点において、スタイルだけでない部分をしっかりと持っている。何度も書くがここは生まれて初めてのインドであり、この人は二十六歳の女性なのだ。同じように生まれて初めてのインドにきている二十九歳男性のぼくが持っている警戒心や清潔意識は、決して過剰なものではない。むしろかなり緩い。そんなぼくが「まじか」と唸っちゃうのはずいぶんなことだ。なんならさっき出会ったばかりのぼくという人間だってイェジィにとっては素性不明の外国人男性でしかなく、どれだけ危険かわかったものじゃないのに。

軽くうとうとしたのちにぼくは空港内のトイレに出向き、帰りに売店で温かい (インド初の!) チャイを買って戻ってくるのだが、眠っているイェジィと荷物を置き去りにしていいのかしばらく迷っていた。そんなとき、あまり見ないようにしていたがそれでもふとそちらを向けば、寝ているイェジィがこちらに向けている靴下に大きな穴が空いているのが見えた。
インドの旅はもうはじまっている、と思った。

(たいchillout)

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