【イスラエル/エルサレム・テルアビブ】「ああ」にはいろんな感情

「ああ」にはいろんな感情

パレスチナ問題とはなんなのか。そうしたことに理解や関心があって、イスラエルパレスチナに出向いたのではない。ぼくにとってその土地はなるべく多くの国を見たいと思って続けた長い旅の「通り道」だった。それだけだ。それは、その後に訪れたバルカン半島、かつてユーゴスラビアだった地域も同じである。あるいは、パレスチナは「通り道」のイスラエルからの「寄り道」でしかなかったとさえ言えるかもしれない。危険なイメージがあったが、それも地域次第だと知り、「行ける(可能)なら行かなきゃ」というくらいだった。それでもパレスチナに行くことはほとんど人に報告せず、SNSでもリアルタイムの投稿は控えた(「地域次第だ」なんて言ってもどこまで理解されるかわからない)。
さまざまな土地にさまざまな問題があった。旅は、それらに関する多くの知識の「断片」をぼくにさずけた。次の国はイスラエルだと話したら、アレクサンドリアで出会ったエジプト人は顔を歪ませた。そうした実体験のディテールは、今ぼくがなにかを思うとき、そのすべての根底にある。ハマスイスラエルにロケット弾を打ち込み、イスラエルがそれに報復をし、ああ、と思う。その「ああ」にはいろんな感情が含まれるが、「くだらない」という思いもそのひとつだ。両陣営の戦闘がくだらないのではない。イスラエルのことなんか知りもせず、今日も私たちはせっせとくだらない問題とくだらない精神的な闘いをして、くだらない勝利や敗北やうつやマインドセットや励ましや涙や自己肯定や自己否定の中に生きざるを得ないことのくだらなさを思うのだ。ぼくは旅を通して、国際問題や語学をなんら体系的に学ばなかった。しかし、蓄積されたある種のディテールたちが、無限の種となって自分の胸の中に今もばら撒かれたままであることを感じる。

 

ペサハ

実は2019年の4月の末、ぼくのイスラエル滞在期間はペサハというユダヤ教の祭りの期間とその大部分が重複していた。ぼくは4月20日に入国し、28日に出国した。ペサハは19日の夕方から26日。丸かぶり。どうりで宿がとんと見つからないわけだ。祭りといっても焼きそばの屋台が出たりふんどしで神輿をかついだりするわけじゃないので、その期間にどんな特別なことがあったのか、最後までわからなかった。エジプト滞在中にそれを知っていたら、ぼくはペサハ期間を外してイスラエルに入国しただろう。実際、数日後にはじまるイスラム断食月ラマダン」のことは旅のルートを組むにあたって意識していた。
28日に出国する航空券を持っており、そのために首都のテルアビブに二泊する計画だった。26日はエルサレムからテルアビブへの移動日の予定だった。しかし、ここでも誤算が起きる。26日は金曜日だった。金曜の夕方から土曜の夕方までは、ユダヤ教の「安息日」という習慣のためあらゆる店が休業し、すべての公共交通機関がストップするのだ。ペサハ中といえども、食事や移動には困らなかったこともあり、ぼくは油断していた。というか、電車やバスが丸一日止まってしまうなんて考えもしなかった。午前に移動を開始していたら安息日のダイヤに移行する前のバスか電車に滑り込めたかもしれないが、差し迫る事情がない限り自分は「早起き」という「がんばり」をスケジュールから排除した上で物事の行動計画を立てる。
結果、もう昼下がりの頃になって移動手段を失ったことが発覚し、テルアビブで予約していた宿の一泊分を無駄にした。エルサレムにもう一泊することになった。ペサハの最終日であるためか宿泊価格が一部で下がっており、83シェケルのホステルを見つけ、そこに宿を移した。翌日の夕方には通常通り交通機関が動き出すらしいが、出発が夕方になるのでテルアビブへの到着は夜になるだろう。フライトは翌午前だから、首都であるのにテルアビブ観光はほぼ不可能というスケジュールになってしまった。

 

安息の一日

不本意ながら手に入れたエルサレムでのもう一日。あらゆる社会システムが機能していないその夜と次の日中は、考えてみれば旅人にとっても行動の余地があまりない安息の一日だった。新しい宿で出会ったサンミという韓国人女性と話し込み、夕飯はキッチンでインスタントラーメンをつくる。サンミはレバノン、ヨルダンと経由してきた短期旅行者。日本語を勉強しているが、いつか日本に行くときのためだと言う(とはいえ、イスラエルを訪れるにあたりヘブライ語を勉強したわけではないだろう)。眉をひそめるときの表情がとても韓国人らしく、これは日本人がしない顔だなァと思う。顔のつくりが同じでも、その使い方に共同体の内側に根付く生活文化の差異が顕れる。それは中国人と出会ったときにも感じる。どこの国が良くてどこが悪いという話ではもちろんない。品のある人は世界共通で品のある表情と話し方をする。その上で、その国の人らしさが内側からほのかに見えてくる。多くの場合、彼または彼女の美質として。ぼくは韓国人の名前がけっこう好きである。旅で出会った人ならサンミ以外にも、ソンジェやイェジィがいる。
翌午前、『深夜特急』のタイトルの元になったという映画の『ミッドナイト・エクスプレス』を、ホステルのテラスにあるコージーなソファにPCを持ち出して観た後、安息日エルサレムの街をゆっくり歩いた。同じように散歩をしているだけのユダヤ人の家族が多いことに気が付く。彼らは正装して散歩をしていた。もみあげを伸ばした男たちはいつものように夜会服のような姿、女性はクラシカルなワンピース。ある幼い姉妹はそんな両親のあいだでマスカット色のスカートにクリーム色のセーターというお揃いの格好だった。

 

テルアビブ・空港へ

夜に到着したテルアビブのバスターミナルは、エルサレムと比較して明らかに有色人種が多く、世俗的な雰囲気があった。イスラエルといえばユダヤの国、そしてエルサレムという宗教的地名をはじめに連想する。しかし、移民を多く抱えたIT先進国としての一面もあった。こうしてやってくると、後者の役回りはテルアビブが主体となって担っているのだと肌で実感する。
ホステルまで歩き、チェックインしたらすぐに洗濯物をバックパックから引っ張り出し、まるで実体の掴めない夜の街(住宅街ともつかない)を歩いて、コインランドリーへ向かう。居場所が定まらない日が続いたせいで洗濯が溜まってしまい、今夜中にリセットしないと着る服が無いのだった。ホステルに戻り、すでに消灯したドミトリーで手狭な二段ベッドの上段にのぼり四苦八苦してシーツをかける。部屋の四隅に目を凝らし、タコ足配線のコンセントを見つけて充電プラグを差し込んだ。
朝、路線バスで鉄道駅へ向かう。しかしバスカードを買わずに乗ってしまったため、運賃を払えなかった。運転手には現金を払う意思を伝えたが、不要だと返され、結果的に無賃乗車。そして鉄道に乗り換え、空港へ。期待通りの時間に到着し、人の少ないロビーでチェックインが完了する。預け入れ荷物のオプションはつけていないはずだったが、追加料金を払わないままになぜかぼくのバックパックはチェックインカウンターで引き取られ、コンベアーに乗せられる。機内持ち込みの荷物を検査され、イミグレーションを通過した。
あとは搭乗の案内を待つだけになった。各ゲートへ伸びる通路の中心にあるフードコートで、スモークサーモンのサンドイッチとビッグサイズのカプチーノを注文した。あと一週間で旅立ちから十ヶ月というところだった。長い付き合いになったアジア、中東。未知のヨーロッパはギリシャアテネがその起点となる。

 

2019年4月 たいchillout