【イスラエル/エルサレム・テルアビブ】「ああ」にはいろんな感情

「ああ」にはいろんな感情

パレスチナ問題とはなんなのか。そうしたことに理解や関心があって、イスラエルパレスチナに出向いたのではない。ぼくにとってその土地はなるべく多くの国を見たいと思って続けた長い旅の「通り道」だった。それだけだ。それは、その後に訪れたバルカン半島、かつてユーゴスラビアだった地域も同じである。あるいは、パレスチナは「通り道」のイスラエルからの「寄り道」でしかなかったとさえ言えるかもしれない。危険なイメージがあったが、それも地域次第だと知り、「行ける(可能)なら行かなきゃ」というくらいだった。それでもパレスチナに行くことはほとんど人に報告せず、SNSでもリアルタイムの投稿は控えた(「地域次第だ」なんて言ってもどこまで理解されるかわからない)。
さまざまな土地にさまざまな問題があった。旅は、それらに関する多くの知識の「断片」をぼくにさずけた。次の国はイスラエルだと話したら、アレクサンドリアで出会ったエジプト人は顔を歪ませた。そうした実体験のディテールは、今ぼくがなにかを思うとき、そのすべての根底にある。ハマスイスラエルにロケット弾を打ち込み、イスラエルがそれに報復をし、ああ、と思う。その「ああ」にはいろんな感情が含まれるが、「くだらない」という思いもそのひとつだ。両陣営の戦闘がくだらないのではない。イスラエルのことなんか知りもせず、今日も私たちはせっせとくだらない問題とくだらない精神的な闘いをして、くだらない勝利や敗北やうつやマインドセットや励ましや涙や自己肯定や自己否定の中に生きざるを得ないことのくだらなさを思うのだ。ぼくは旅を通して、国際問題や語学をなんら体系的に学ばなかった。しかし、蓄積されたある種のディテールたちが、無限の種となって自分の胸の中に今もばら撒かれたままであることを感じる。

 

ペサハ

実は2019年の4月の末、ぼくのイスラエル滞在期間はペサハというユダヤ教の祭りの期間とその大部分が重複していた。ぼくは4月20日に入国し、28日に出国した。ペサハは19日の夕方から26日。丸かぶり。どうりで宿がとんと見つからないわけだ。祭りといっても焼きそばの屋台が出たりふんどしで神輿をかついだりするわけじゃないので、その期間にどんな特別なことがあったのか、最後までわからなかった。エジプト滞在中にそれを知っていたら、ぼくはペサハ期間を外してイスラエルに入国しただろう。実際、数日後にはじまるイスラム断食月ラマダン」のことは旅のルートを組むにあたって意識していた。
28日に出国する航空券を持っており、そのために首都のテルアビブに二泊する計画だった。26日はエルサレムからテルアビブへの移動日の予定だった。しかし、ここでも誤算が起きる。26日は金曜日だった。金曜の夕方から土曜の夕方までは、ユダヤ教の「安息日」という習慣のためあらゆる店が休業し、すべての公共交通機関がストップするのだ。ペサハ中といえども、食事や移動には困らなかったこともあり、ぼくは油断していた。というか、電車やバスが丸一日止まってしまうなんて考えもしなかった。午前に移動を開始していたら安息日のダイヤに移行する前のバスか電車に滑り込めたかもしれないが、差し迫る事情がない限り自分は「早起き」という「がんばり」をスケジュールから排除した上で物事の行動計画を立てる。
結果、もう昼下がりの頃になって移動手段を失ったことが発覚し、テルアビブで予約していた宿の一泊分を無駄にした。エルサレムにもう一泊することになった。ペサハの最終日であるためか宿泊価格が一部で下がっており、83シェケルのホステルを見つけ、そこに宿を移した。翌日の夕方には通常通り交通機関が動き出すらしいが、出発が夕方になるのでテルアビブへの到着は夜になるだろう。フライトは翌午前だから、首都であるのにテルアビブ観光はほぼ不可能というスケジュールになってしまった。

 

安息の一日

不本意ながら手に入れたエルサレムでのもう一日。あらゆる社会システムが機能していないその夜と次の日中は、考えてみれば旅人にとっても行動の余地があまりない安息の一日だった。新しい宿で出会ったサンミという韓国人女性と話し込み、夕飯はキッチンでインスタントラーメンをつくる。サンミはレバノン、ヨルダンと経由してきた短期旅行者。日本語を勉強しているが、いつか日本に行くときのためだと言う(とはいえ、イスラエルを訪れるにあたりヘブライ語を勉強したわけではないだろう)。眉をひそめるときの表情がとても韓国人らしく、これは日本人がしない顔だなァと思う。顔のつくりが同じでも、その使い方に共同体の内側に根付く生活文化の差異が顕れる。それは中国人と出会ったときにも感じる。どこの国が良くてどこが悪いという話ではもちろんない。品のある人は世界共通で品のある表情と話し方をする。その上で、その国の人らしさが内側からほのかに見えてくる。多くの場合、彼または彼女の美質として。ぼくは韓国人の名前がけっこう好きである。旅で出会った人ならサンミ以外にも、ソンジェやイェジィがいる。
翌午前、『深夜特急』のタイトルの元になったという映画の『ミッドナイト・エクスプレス』を、ホステルのテラスにあるコージーなソファにPCを持ち出して観た後、安息日エルサレムの街をゆっくり歩いた。同じように散歩をしているだけのユダヤ人の家族が多いことに気が付く。彼らは正装して散歩をしていた。もみあげを伸ばした男たちはいつものように夜会服のような姿、女性はクラシカルなワンピース。ある幼い姉妹はそんな両親のあいだでマスカット色のスカートにクリーム色のセーターというお揃いの格好だった。

 

テルアビブ・空港へ

夜に到着したテルアビブのバスターミナルは、エルサレムと比較して明らかに有色人種が多く、世俗的な雰囲気があった。イスラエルといえばユダヤの国、そしてエルサレムという宗教的地名をはじめに連想する。しかし、移民を多く抱えたIT先進国としての一面もあった。こうしてやってくると、後者の役回りはテルアビブが主体となって担っているのだと肌で実感する。
ホステルまで歩き、チェックインしたらすぐに洗濯物をバックパックから引っ張り出し、まるで実体の掴めない夜の街(住宅街ともつかない)を歩いて、コインランドリーへ向かう。居場所が定まらない日が続いたせいで洗濯が溜まってしまい、今夜中にリセットしないと着る服が無いのだった。ホステルに戻り、すでに消灯したドミトリーで手狭な二段ベッドの上段にのぼり四苦八苦してシーツをかける。部屋の四隅に目を凝らし、タコ足配線のコンセントを見つけて充電プラグを差し込んだ。
朝、路線バスで鉄道駅へ向かう。しかしバスカードを買わずに乗ってしまったため、運賃を払えなかった。運転手には現金を払う意思を伝えたが、不要だと返され、結果的に無賃乗車。そして鉄道に乗り換え、空港へ。期待通りの時間に到着し、人の少ないロビーでチェックインが完了する。預け入れ荷物のオプションはつけていないはずだったが、追加料金を払わないままになぜかぼくのバックパックはチェックインカウンターで引き取られ、コンベアーに乗せられる。機内持ち込みの荷物を検査され、イミグレーションを通過した。
あとは搭乗の案内を待つだけになった。各ゲートへ伸びる通路の中心にあるフードコートで、スモークサーモンのサンドイッチとビッグサイズのカプチーノを注文した。あと一週間で旅立ちから十ヶ月というところだった。長い付き合いになったアジア、中東。未知のヨーロッパはギリシャアテネがその起点となる。

 

2019年4月 たいchillout

 

【パレスチナ/ベツレヘム】メッセージはアートを……

生誕の地

二泊したラマッラからシェアタクシーを利用して同じパレスチナ内のベツレヘムへ移動する。ここでも水不足は大きな問題らしく、シャワーの時間は7分以内にするように宿の主人に厳命される。
ラマッラはひらけた坂の街だったが、ベツレヘムは崖の街だった。石造りの建物が多く、街は全体的に石灰色めいている。
ベツレヘムはキリストの生誕の地であるらしいが、ぼくはそうしたことをイスラエルに入国するまで知らなかった。ユダヤ人の作った国であるイスラエルに、イスラム教徒の暮らすパレスチナは従属を強いられ、パレスチナの内部にキリストが生まれたベツレヘムが存在する、という複雑な地政である。エルサレムからパレスチナに入ると街でコーランが耳に入るようになったが、ベツレヘムでは教会のスピーカーから夕方のコーランが流れていた。
到着したその晩はケバブを夕食とし、翌朝はスターコーヒーという、スターバックスに似た喫茶店でパンとコーヒーで過ごす。外を出歩いたり宿に戻ったりを繰り返した後、昼前には、有名なバンクシーの壁まで歩いていく。「メッセージはアートを必要とするしアートはメッセージを必要とする」というのがそれを見たときに自分が残したメモ書きだが、なにを考えていたのか今となっては正確にはわからない。帰り道、目についた店に入り、昼だったがビールを飲んでハマスとコロッケを食べる。
その名もまさしく「生誕教会」という教会は、観光地になっている。門の前に立っているTシャツ姿の西洋人女性は、今まさに内部の観覧を終えたところであり、一歩進んでから教会を振り返って、キリスト教式の祈りをごく自然に捧げてからその場を後にした。仏教、ヒンドゥーイスラム……。各地でそれぞれの宗教の敬虔な信者たちを目にする機会があったが、その女性を見てぼくは、自分がキリスト教圏に近づいていることを意識した。
この朝は宿でブログを書き進めたが、夕方もパソコンに向かいプログラム作業を進めた。作業に疲れたり食事を取りたくなると、いそいそと街に出て、さして当てもない散策をはじめた。目抜通りがささやかな街灯に照らされたベツレヘムの夜は繰り返し歩いても変わらずに美しかった。

 

旅人の身勝手さ

ベツレヘムに二泊して、エルサレムに戻った。その際、エルサレムからパレスチナに入るときは存在しなかったチェックポイントを通過する。そこでは荷物とパスポートの検査が機械的に行われたが、国境と呼べるほどの緊張感は微塵も漂っておらず、人出もなく閑散としていた。
新市街のホステルに一泊だけ、100シェケルでチェックインする。これでも最低価格ライン。ラマッラでは65シェケルベツレヘムでは60シェケルだった。イスラエルパレスチナの厳然たる物価格差は、両者の平均的生活クオリティの格差でもあるだろう。ぼくはエルサレムのホステルの洗練されたポストモダン的コモンルームのおしゃれな雰囲気や、タブレットを使った現代風のチェックインシステム、湯だくさんシャワー、スタッフの安定した英語力に、大いに旅の英気を養われることを自覚しながらも、悲鳴を上げる財布とパレスチナの境遇を身勝手に重ね合わせて複雑な気持ちになったりした。
そう、実に身勝手なことだが、旅人は旅がしやすい土地を短絡的に「いい国」だと結論づける。その逆もしかり。特に放浪系バックパッカーは「物価高」を、己を標的にした理不尽で非合理な暴力であるかのように捉えがちなのである。

2019年4月 たいchillout

【パレスチナ/ラマッラ】人の道を説くことで

黒いタンク

朝、ドミトリーで隣同士だった若いイタリア人男性と話し、「Garage」というカフェがラマッラではおすすめだと教えてもらう。自分は今日もそこにいるから、よかったら来るといい。男性がそう言ったので、ぼくは昼過ぎに「Garage」を訪れた。

パレスチナで実質的に首都としての機能を果たしているラマッラの佇まいは、エルサレムとは一見して違った。中心部にはパワフルな市場の持つ猥雑さがあり、たむろする若い男たちには、ムスリム特有の距離の近さがある。一転して「Garage」の位置する街外れには野原の丘が点在し、のどかな雰囲気がある。共通するのは坂の街であること。
家々はその屋上に黒いタンクを揃って配備している。どうやらパレスチナは水不足であるために、そこには水を貯蔵しているらしい。どのようないきさつがあったのかわからないが、それはイスラエルとの関係において、不遇な目にあわされた結果のひとつらしかった。顔を上げれば黒いタンクがあるのは、インパクトの強い光景だった。この国にとって、象徴的でもある。そして、かすかに不吉でもある。

 

人の道を説くことで

住宅街の小さな店でローストビーフのサンドイッチを昼食とし、その後に訪れた「Garage」でイタリア人男性は本を読んでいた。隠れ家のような、DIY風のカフェだ。ヨーロッパ人が多く、ビールも置いてある。男性は小柄で、洒落たマフラーをしている。ぼくはアメリカーノを注文し、男性に本を見せてもらう。イタリア語版の『キャッチャー・イン・ザ・ライ』だった。もう七回もこの本を読んでいるらしい。
男性はシリア国境近くのゴラン高原や、ガザ地区の近くまで足を運んでおり、イスラエルパレスチナを掘り下げていた。いずれも生半可な覚悟では行けない危険地帯だ。ヨーロッパ人の多くはイスラエルには好意的だがパレスチナには否定的だと男性は言う。そして自分の意見を付け加える。それは「Not true」だ、と。それから鳥山明村上春樹の話をして日本語の成り立ち(漢字、ひらがな、カタカナ)などを教えているうちに、興が乗ってきてぼくはカールスバーグを注文した。

パレスチナ国は世界で138の国から国家としての承認を受けているが、日本はそこに含まれない。我が国のみならずアメリカ、イギリス、フランス、カナダ、ドイツそしてイタリアもパレスチナを国として認めていない。男性の言うように、ヨーロッパが(つまり世界の覇権を握っている国々が)一国として自立していこうとするパレスチナの前に立ちはだかっているために、その道のりはこれからも長く険しいと思われる。
ぼくは一個人として、その是非に言及するほどの知識を持ち合わせていない。倫理なら人並みにあるつもりだが、人の道を説くことで乗り越えられるテーマではないことくらいは、認識しなければと考える。

そういえば、ウズベキスタンで一緒にあちこちを見てまわったアライ青年は、ぼくと別行動をとっていたときの長距離列車の中でイスラエル人の女性旅行者と話をしたという。女性はアライ君に、日本にはなぜ死刑があるのかと質問したらしい。ヨーロッパではほぼすべての国で、二十世紀のうちに死刑制度は廃止された。ぼくたちも、人の道を説くことの難しさを、自己矛盾としてちゃんと孕んでいる。

2019年4月 たいchillout

 

全行程

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訪れた地域

・東アジア地域(2018/7〜2018/9)
韓国、中国、モンゴル

中央アジア地域(2018/9〜2018/10)
中国(新疆ウイグル自治区)カザフスタンキルギスウズベキスタン

・東南アジア地域(2018/10〜2019/1)
マレーシアタイシンガポール、香港、中国(華南)ベトナムカンボジアラオス

・南アジア地域(2019/1〜2019/3)
インドネパールモルディブスリランカ

・中東地域(2019/3〜2019/4)
オマーンアラブ首長国連邦エジプトイスラエルパレスチナ

・ヨーロッパ(2019/4〜2019/8)
ギリシャアルバニアモンテネグロクロアチアスロベニア、イタリア、フランス、スペイン、ポルトガル、イギリス、ベルギー、オランダ、ドイツ、チェコデンマーク

【イスラエル/エルサレム】王国の城下町からパレスチナへ

1973とユダヤ人の美しさ

街路樹の木は枯れている。だいたい鹿児島県と同じ北緯31度に位置するエルサレム。4月の末はまだまだ肌寒い。昨晩の雨はあがって、青く硬質な空が澄み渡ったが、遠方では雲の流れは早い。街はまだ少し濡れていた。ウィンドブレーカーを着て適当に歩き、客がよく入っているベーカリーを見つけ、そこで朝食とする。ホットアメリカーノとポテトパイで24シェケル。プラスチックのスプーンが添えられている。窓辺の席に座り、トラムの路線が敷かれている通りを眺めながら食事をした。行き交う人々の数は、一国の中核都市の心臓部としては、それほど多くはない。お手洗いを使わせてほしいと店員に頼むと、トイレの入室パスワード「1973」を教えられる。創業の年だろうか。

噂は耳にしていたし、他の土地でこの国の出身者と出会ったこともあったので予感はしていたのだが、イスラエルはめっぽう美人が多い。この国についてなにも知らない初日の朝からぼくはそれを確信した。アイドル的な「可愛い」とも違うし、ハリウッドやセレブの世界の「綺麗」や「セクシー」とも違う。さばけていてノリがよければ歓迎される日本の「垢抜け」なんて問題にならない。じゃあ、なにが違うのか。それを言葉にするのは難しい。ユダヤ人というのは民族的なカテゴリではないと聞く。見た目は白人だ。ラテンやゲルマンよりもスラブ系に近いかもしれない。鼻の先は少し丸い。しかし、そうした諸要素は決定的な要因にはなりえない。精神的なバランスがものすごくいい人間の顔。野心やコンプレックス、集団、自意識といったものから自由であり、また、自由であるための葛藤なども特に必要なく大人になり、十代のエネルギーを他者への思いやりや、芸術の勉強に向けて生きてきたような顔。エルサレムにはそんな美しさを持った女性が多くいた。

 

王国の城下町からパレスチナ

すぐ近くのTHE COFFEE BEAN & TEA LEAFでこの朝二杯目のコーヒーであるエスプレッソを飲み、それから、旧市街へと歩いて出かけた。入り組んだ城壁で迷路のようになった旧市街は、有名な「嘆きの壁」などの聖地(モスク・教会)をその中に抱え、同時にまた活発な、飲食と交易の商業地区でもある。山のように観光客が訪れていたが、ツーリスティックと呼ぶには素敵すぎる・細かすぎる旧市街を歩くのは楽しかった。RPGで言えば、大陸で一番賑わっている王国の大きな城下町のような雰囲気である。その中のアラブ人のやっている店の一つで、ケバブに似たものを昼食とし、午後の移動に向けてそこを後にした。

屋根裏のホテルは一泊でチェックアウトし、ぼくはパレスチナ自治区のラマッラという街に移動した。朝から宿泊アプリをあたっていたが、直近のエルサレムは宿の空室が少なく、安価な部屋となると皆無だった。最終的にはテルアビブから出国することになるため、その前にエルサレムに戻ってくることができる。エルサレム観光の続きはそれからでも間に合うだろう。初日からパレスチナ自治区を見に行くことを選んだのは、そうした事情からだった。
天候は急変した。雨と雹が降ってくる中でぼくはラマッラ行きのバスに乗った。エルサレムからラマッラまでの道のりは街続きで、検問のような場所もない。しかし、ラマッラ側のバスターミナルに到着すると周りにユダヤ人はまるでおらず、ぼくは、これまでに通り過ぎてきた国々のどこかに再び戻ってきてしまったかのような感触を持った。ムスリムの世界だった。

2019年4月 たいchillout

 

【イスラエル/エルサレム】聖地の屋根裏

エルサレムで寝床をさがす

夜のエルサレムに到着した。バスターミナルの建物を出たところに、トラム(路面電車)の小さな駅があったが、電光掲示板はこの日の便がもう無いことを示している。ぼくはオフラインで使える状態にしていた地図アプリを駆使して、街の中心部まで向かい、宿を探し歩いた。石畳の道を小雨が打ちはじめたが、門を叩いた宿泊施設のあてが外れることを繰り返し、遅い時間になっても寝床は手に入らなかった。
ある宿は地図に描かれた場所に物理的に存在せず、ある宿は鉄の門を完全に閉ざし、ある宿ではクリスマス映画のワンシーンのように、ディナーテーブルを囲む白人の家族が立ち上がって応対に出てくれたが、彼らは客だった。
息を切らして石畳の坂道を登る途中、厳格なユダヤ教徒の男性とすれ違った。黒尽くめで、シルクハットのような帽子を身につけ、もみあげを変わった形に伸ばしている。男性は紳士的な声で、ぼくに good evening と囁き、決して振り返らなかった。
新市街のメインストリートのようなところに到着した。ここまできたら、選り好みしなければどこかには泊まれるだろうと考えた。雨が止んできたこともあり、歩くペースをゆるめたとき、どこからか讃美歌のようなものがきこえてくる。吸い寄せられるようにコーナーをいくつか折れて進むと、静かな街の中で人の集まっている一角があった。
やはり、それは讃美歌の合唱だった。
柔らかな街灯、霧のような雨、どこまでも続く石畳、街の景観に溶け込むトラムステーション、宗教的な服装の紳士、そして路上の讃美歌。ここはあのエルサレムなのだ

 

聖地の屋根裏

メインストリートを通り抜け、再び静かな住宅地に入っていきそうなところにある大きくも小さくもないホテルにぼくは飛び込んだ。空室の有無と一番安い部屋の値段を訊ねると、男性スタッフは450シェケルで空いていると言う。一万二千円を超える価格だ。ぼくは自分の予算ではこのホテルに泊まれないことを伝え、外に出た。男性スタッフはぼくが閉めた扉を押さえて、追いかけてきた。
「予算はいくらだ?」
さっき答えたときと同じ数字をぼくは言う。
「100シェケル
「それでいい。相部屋になるが」
案内されたのは屋根裏だった。屋根裏のスペースは広く、部屋と部屋を隔てる(梁はあるのだが)仕切りがない。それが相部屋と言われる所以だった。それでもベッドとシャワールームがついている。ぼくの部屋にシャワーとトイレがあったので、ルームメイトたちは、ぼくのベッドの脇を通って、男女問わず用をたしにくる。薄暗いその場所で幾人かと手短かな挨拶を交わす。なぜか、マレーシア人が多く泊まりにきているようだった。
荷物を整理し、貴重品をコンパクトなシャワールームに持ち込んだ。熱いシャワーをたくさん浴びた。ダブルベッドに横になれば、傾斜した天井に四角く切り取られた天窓が、ちょうど目に入る。その向こうから木々のざわめき、風の音がする。

2019年4月 たいchillout

 

【エジプト/ダハブ→エルサレムへ②】エイラトから死海を通って

イスラエル入国

バスのチケット代を持ち合わせていなかったために賭けのような気持ちで乗ったシェアタクシーは無事にイスラエルとの国境に到着した。バスよりも早かった。砂漠の中をひた走り、ときどき海岸線が見え、寂寥としながらもうつくしいビーチをいくつか通り過ぎた。商売をしにきたと言っていた同乗の男たちは、国境の直前で下車した。ターバハイツという名の、ジオラマのような街だった。そこは奇妙に静かで、ひまわりが畑に咲いていて、その向こうに海へと土の道が延びており、すべてが太陽と向き合って生きているような場所だった。

難関で知られる国境では、噂通りの厳密な持ち物チェックが行われた。イスラエルは、過激な思想を持つイスラム教徒のテロ組織を第一に警戒している。ぼくはいくつかのアラブの国を巡ってきたので、それぞれの国にどういった目的で入国したのか、そこに知り合いがいるのかと質問される。それでもトラブルなくイスラエルに入国することができた。

 

エイラトから死海を通って

清潔でいい匂いのした国境の建物をイスラエル側に出ると、右手はエメラルドブルーのアカバ湾だ。素晴らしい天気で、海面は透明で、キラキラと輝いている。ATMで1,000シェケルを引き出し、最寄りの街であるエイラトまで行くために16番のバスを待った。ヤシの木が街路樹になっている。アカバ湾の対岸を臨めば、そこは岩石の世界。ヨルダンの国土だった。ヨルダンへの渡航は物理的には可能だが、心を残して、今回の旅では行かないことを選んでいた。

バスはエイラトに到着する。しっかりとした現代的な路線バスだった。ぼくはこの日どこに泊まるのか決めていなかった。その理由はどこまで行けるかわかっていなかったからである。エイラトへの到着は早かった。スムーズすぎるくらいだった。街への興味はあったが、バックパッカー向きの宿が少なく、エルサレム行きのバスチケットも手に入ったため、ぼくは午後も移動を続けることを選んだ。

エルサレム行きのバスのチケット代金は70シェケル。途中トイレ休憩があり、売店には日本のサービスエリアのようになんでも売っている。物価は過去最高水準だった。

街も自然も、たんなる街道も、ひとつひとつの風景には言葉にできない魅力的があった。イスラエルという国は、物質的で豊かな暮らしが営まれていると同時に、複数の宗教の聖地としての牧歌的な佇まいがあり、欧米的でありながら、アラブの風土を持つ。長時間、車窓にこめかみをもたれて、終わらない風景の流れを見続けると陶然としてくる。到着は夜になるだろう。SIMカードは買わないで乗り切れるだろうか。今日の宿はどうしよう。いくつも不安を抱えていたが、それによって一人旅の時間は濃密になり、風景は心に染み入ってくる。

軍服の女性が途中のバス停から乗車していた。バスは混んでいた。近くの乗客が下車しても女性は座らなかった。周囲が座るようにすすめても何度も断っていた。毅然とした表情を崩さず、姿勢も変えない。凛とした、という形容は彼女のためにある言葉だ。イスラエルには徴兵制度がある。街中でも軍服の男女を見かけた。他の国で見た軍人よりも、彼らは高い緊張感を持って仕事についているようにぼくからは見えた。女性は、兵隊だから座らないのだろうか。兵隊が座らないのは、規則だからか、あるいは個人的な考えからだろうか。

死海を通り過ぎた。塩分が高すぎるためにあらゆる生物が生きられないその湖で、人間は浮く。バスから見たたそがれどきの死海に浮いている人はいなかった。山の稜線が美しい。くっきりとした雲の形が焼けている。軍服の女性は立っている。やがて、街道が死海沿いを離れ、バスがエルサレムの位置する内陸の方に道を逸れていっても、たそがれは起伏のある農村の風景を照らしつづけた。

2019年4月 たいchillout