【モンゴル/ウランバートル9】初めて語り合えた夜編

スマート&インテリジェント

モンゴルの日は長かった。途中、外に出て山の彼方のサンセットを眺める。
気がついたらナイスガイの手にはウォッカボトル。それをストレートでいただく。少しだけ、と言ったはずのクラウラのグラスに並々注がれたそれを、ぼくのグラスに注ぎ足す。

話はぼくの東京での生活に流れる。やがてぼくは出身大学を尋ねられる。このときすでに韓国、中国を経てきたぼくは知っていた。東アジアでの早稲田大学リスペクトは半端ない、と。
案の定クラウラは驚く。あなたはとてもスマートでインテリジェントなんだね。
その尊敬の眼差し、ぼくにはもったいない。

日本の上位大学が東アジアで過大評価を受けていることは明らかだった。
北京の2日目。宿で出会った北京大学の学生A君に街と大学を案内してもらった。A君は言っていた。
「中国の学生にとって、アメリカとイギリスと日本は憧れの留学先。3トップなんだ」

日本の上位大学は、中国の中流以上の家庭の学生たちにとって、ある種の桃源郷のような位置づけにあるのかもしれない。ハーバード、オックスフォード、ケンブリッジ。ぼくが学生だったころ、それらの名前を舌の上で転がしたときの甘酸っぱい憧れはいまでも思い出せる。クラウラたちはそれと同じような感覚を、WASEDA、KEIO、TOKYO Universityという響きに抱いているのかもしれなかった。
しかしながら、早稲田であれば少なく見積もっても上位20%にA君とクラウラは入れるだろうということを、ぼくは知っていた。

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人生と東京の、輝きと儚さを

東京でのぼくの生活。やがてそれにクラウラが興味を持った理由が明らかになる。
「仕事が終わったら、スモールレストランに行くの?」
なんで小さなレストランなんだろう。しかし確かにぼくは、大きなレストランではなく、小さなレストランで飲むほうが好みだ。
「行くよ」
「そこで、飲んで、食べるの?」
「うん」
「それはとても楽しい?美味しい?」
「うん。最高だよ」
「これ知ってる?」
そう言って、クラウラはまた漢字を見せてきた。

 

東京女子図鑑

 

この日一番の衝撃がぼくに走る。
「東京にきた女性が、いろんな街に移り住む話なの。働いて、恋愛して、スモールレストランに行って…。最初に住む街は三軒茶屋、次は恵比寿、次は銀座、ええと、まだあったかもしれないけど最後は…」
ぼくが引き継ぐ。
代々木上原!」
「そう!」
東京女子図鑑は、『東京カレンダー』のWEBサイトで2015年に連載されていたWEB小説だった。ぼくは当時リアルタイムでその更新を追っていた。やがて書籍化され、映像化されたことまでは知っていたが、まさか中国にまで伝わっていたとは。クラウラはドラマ版を見たらしかった。『東京カレンダー』は本来、東京のレストランを紹介するただのグルメ雑誌だったが、SNS時代のメイクブーム方法論を早くから意識的にキャッチアップしており、面白いメディアだなと思っていた。募集要項をチェックしたこともある。彼らの優れたセンスは主に次の2点に象徴される。

 

1.雑誌がコンセプトとする偏った価値観が戯画的かつ本気で提示されていること(その価値観は多くの批判を呼びかねないにもかかわらず)
2.その提示方法にWEB連載小説を選んだこと

 

クラウラの要約は的確だ。『東京女子図鑑』は就職を機に秋田から上京した「綾」が、仕事、恋愛に葛藤して大人の女性になっていく物語だった。その物語が展開する上でのキーになるのが綾の住む街であり、男性、先輩、友人たちと行くレストランなのだ。レストランは実在のレストランを扱い、グルメ雑誌の原形を申し訳程度にとどめている。しかしこの企画のほぼすべては、知名度の向上と、『東京カレンダー』の価値観の提示に捧げられていたと言って良いと思う。
金×仕事×恋愛×東京×グルメ=人生を謳歌。東京カレンダーの価値観はシンプルな成功主義だ。もちろん、ぼくの価値観とは一致していない。それどころか、それなりの数の男女が綾の生き方には生理的な嫌悪感を抱くだろう。しかしながらこの物語が、人生と東京の、輝きと儚さを、同時に描いたフィクションとして、刺激的な魅力に満ちていることは疑いようがなかった。

スモールレストラン。それはつまりセンスの良い個人料理店だ。世界中のグルメが集まる東京。綺羅びやかな街並み。心地よい喧騒。そこに身を委ねる、おしゃれで、清潔で、お金もあって、人生を楽しんでいる男女。東京の夜。クラウラの見ている東京はとても素晴らしい場所だった。そしてぼくも同じ東京を見ていたことを思い出した。

東京女子図鑑について誰かと話したことはなかった。その連載をぼくは1人で楽しんでいた。東京女子図鑑について初めて語り合えた人がここにいて、初めて語り合えた場所がここにある。それは中国人の女学生であり、モンゴルのゲルなのだ。人生はわからない。そして旅は不思議だ。
「いま話をして、もっと日本語の勉強をがんばろうと思った。日本にまた行きたいと思った。東京での生活についてもっと聞かせてほしい」
そうクラウラは言う。
ぼくは考え込む。
「東京は……」
クラウラは目を輝かせて待っている。
「東京は……」
ぼくは固まってしまった。
「東京は……ナイスだ…」
皆が笑ってずっこける。土壇場でぼくの英語力は地に落ちたようだった。
しかしながら同時にぼくは考えていた。あるいは日本語ならどう答えただろうか。
東京は……東京は……良い…。一体それ以外に、何が言えるだろうか。

「Tokyo Dream」
クラウラはそう言っていた。東京には夢がある。この旅で、日本文化が好きな人にはたくさん会ってきた。しかしそのだれよりもクラウラによる東京の捉え方は、日本人であるぼくのそれに似ていた。その正確さにおいても、その夢見方においても。

 

真っ暗

シャオロンのブッダ巡礼の旅路を皆で計画して、場はお開きになった。シャオロンはぼくと一緒に行きたがっているらしかった。考えておくよ。
ナイスガイに付き添われて真っ暗闇の中ゲルに向かう。

ぼくがナイスガイに言う。
「トイレに行ってくる」
するとナイスガイはゲルもロッジもない暗闇を指す。
「ここを真っ直ぐ行くとあるよ」
「オーケー。トライしてみる」
ぼくは言われた通りの闇に溶け込み、夜空に息を吐いて立ちションをする。

真っ暗だ、映画みたいにキルされたらどうしよう…
私が20分たって帰ってこなかったら…
40分たって帰ってこなかったら…
そう言いながらもクラウラは冷たいシャワーから15分で生きて帰ってきた。
外は寒かったが、暖炉に火がつけられた部屋は暑かった。
ぼくはひとりでなんども涼みに外に出た。
ところどころ雲がかかっていたが星はよく見えた。
また室内にハエがいた。
羽虫がいる部屋では耳栓をする。北京で学んだそれをこの日も実践して寝た。

(たいchillout)