【日本/東京/文京区】旅にでるまで (6)社会人としての青春

『HUB』東京ドームシティラクーア

時は遡って2015年の年末。忘年会の二次会で一部の社員で連れ立って後楽園にあるアイリッシュパブ『HUB』の東京ドームシティラクーア店に行った。時期が時期なので満席。テラス席に並べられたテーブルのそばには屋外用のパラソルヒーターがいくつか立てられていたが、それでも寒さを凌げているとは言い難い。ここは明るい東京のまさに中心。ノリの良さが全ての接客、ネオン、ビール、テキーラ、年末年始の高揚感。新卒採用を行わないこの会社で当時二十六歳だったぼくは最年少で専門はITエンジニアだった。太っちょで誰よりも酒好きで優しくひょうきんな先輩のひとりは一リットルサイズのグラス (ビーカーのようなデザイン) に注がれたビールをオーダーし、ぼくは確かギネスだった。HUBは総じて割高なので、HUBに行くときのぼくは店によって安くなるなんてことがまずないギネスビールを選ぶことが多かった。

夏に入社して四ヶ月。すでにこの会社はぼくにとって特別だった。誰がなんと言おうと特別なものだった。善良で小心な社員たちは、場所が場所なら徹底的に殻にこもっていたか、徹底的に刺々しくなっていたか、そのどちらかのはずだったけど、この会社はそんな彼らの優しさの一面だけを引き出した。社長は会社のことを「動物園」だと言っていたし、ぼくはときどき「社会復帰リハビリ施設」とこっそりと呼んでいた。あまりに心と身体の健康に良い会社だったから。
ぼくも含めた社員の多くは、馴れ合いというものを苦手とし、もしくは反動で馴れ合いを軽蔑すらしてきた種類の人間だった。だからこそこの会社らしくない会社が、誤解を恐れずに言えば、学校生活のマネごとのようなものをさせようとしていることに最初は戸惑い、やがて馴染んでいった。みんな、この会社をやめても付き合っていけると思っていた。売り上げが傾いたらみんなで辞めて一緒に起業すりゃいい、そんな話すら何度かでた。それでも業績が伸びていた奇跡的なバランスの社風については、以前の記事に書いた。

 

社会人としての青春

この会社ではない、それ以前の職場でしばらく一緒に仕事をした取引先の四十代の先輩が、ぼくに一時期「中国駐在」の話が持ち上がったときに呟いた次の言葉がいつまでも印象に残っていた。
「そうかあ。たいchilloutの社会人としての青春は中国でおくることになるのかあ」
結局駐在の話はたち消えになり、ぼくは転職してしまったわけだが、その言葉はそれからもずっとぼくの心に残っていた。社会人としての青春。
青春といえば高校や大学を思い浮かべる人が多い。ぼくもそうだった。大学生を終えるときというのは本当に「人生の主要な輝き」がここで終了するくらいの悲壮感だった。しかし現実は違った。ぼくは、全ての若者がそうであるように、若さを過大評価し社会を過小評価していた。
やがて腰を壊して長らく休職してしまったその取引先の先輩が「社会人としての青春」と言ったときのぼくはまだ社会人二年目の二十四歳だったが、その言葉の持つ意味を少しずつ理解しはじめていた。当時は今よりも忙しく、能力も無く、苦労も多かったが、それでも社会というものにはある種の、それまで知らなかった方面の魅力があることを知りつつあった。ぼくはまだその一端に首を突っ込んだに過ぎなかった。だが、そこでは成功と失敗、信頼と裏切り、友情、恋愛、意地、駆け引き、そして幅広い年代の男女が生活とプライドを賭けたリアルなドラマが渦巻いており、そのすべてが学生の世界を圧倒するスケールであることには気がついていた。とりわけ、そこが東京であるならば。
昼の十二時になるとビルから溢れ出してくる社員証を首から下げた男たちや、でかい財布を片手に持ったカーディガンの女たちを見て、「けっ」と思うことは依然としてあった。けれど、本当はそれと同じくらいときめくものもあった。二十代前半の頃だった。
それから時を越え『HUB』東京ドームシティラクーア店に流れ着いたぼくは、「社会人としての青春」という言葉について改めて考えてみるべき地点にいた。この会社はぼくの思い描いた未来や到達すべき目標では決してなかった。しかし、不思議なことに、今の自分はここにどっぷり浸かっていていいのだ、そうしてしまうべきなのだという確信だけが強くあった。宿命的な感覚が最初からそこにはあった。あれはひとつの社会人としての青春だった、いつかそう振り返ることになる時期を今の自分は過ごしているのかもしれない。ふとそう思うことがあった。

 

職場に好きな人をつくって

「職場に好きな人を一人作ると、仕事行くのが凄く楽しくなるんよね」と明石家さんまは言っていたが、好きな人がいなくても楽しいものは楽しいはずだ。ぼくは素朴にそう思う。だって本当に楽しいことは一人でもやるでしょう? 仕事も趣味も、旅も、バラエティ番組の司会者も。
2015年当時、会社に女性社員は二人だけだった。昼休みが気がついたら腕相撲大会になっていたりする実質的な男社会。女性社員のうちの一人は総務経理人事を一手に引き受ける社歴のある社員で、年齢不詳の美人だったが、基本的には我々男性社員たちとは自然な距離を取っていた(ぼくはその人のことがけっこう好きだった)。もう一人はもう少し若い三十代半ばのデザイナーで、グルメで酒飲みでゴキゲンな人だったが、仕事では我々男性社員たちを容赦なく引っ張っていくタイプだった。どういうことかというと、つまりこういうことだ。この会社には、良い意味で、女性がいるという感じがしなかった(本当に良い意味で)。

ぼくはあの日、『HUB』東京ドームシティラクーア店で、その女性デザイナーにこう言った。
「ぼくは職場に女性はいない方がいいですね」
むろん年末の無礼講だ。なにより当人と上手くやっていたから言えたことでもある。だけどこれはぼくが四年間の勤め人生活からその頃経験的に出した結論だった。おじさんの先輩社員たちは「派遣とかで若い子がいるくらいがちょうどいいんだけどね〜」としきりと頷き合っていたがぼくはそう考えなかった。この会社には魔法がかかっていた。女性がほとんどいないことがその魔法を成立せしめるいくつかの要因のうちの重要なひとつであるとぼくは考えていた。とはいえ、それから一年以上後に当のそのデザイナーから「たいchilloutさんは会社に女はいなくていいと思ってるんですよ〜」とナチュラルに蒸し返されたときはさすがにあれは失言だったなあと反省したけど。
「社長が嫉妬するから社内恋愛禁止」「妊娠したらうちの会社はクビだからね〜」半ば冗談だったがよくそのデザイナーが言っていたことだった。そんな会社に女性が少しずつ増えはじめたのはだいたい冒頭の『HUB』の一年後からだ。フルタイムアルバイトのCさんはその頃の採用だ。新規事業立ち上げのため渋谷オフィスを完成させ、上場を目指し管理体制を強化していた。「人」が必要であり、派遣やバイトなど、雇用形態にとらわれない方針へと切り替わった。会社は変わりつつあった。しかしぼくは変わらなかった。変わらないつもりだった。
「職場に女性はいない方がいいですね」
と言った気持ちも変わらなかった。いよいよシステム部門でも女性の応募があり、採用が決定したとき、ぼくは不採用になればいいなあと思っていた。それが正直な気持ちだ。そして2017年に会社は変わった。2017年7月入社のひかrewriteと6月入社のその彼氏の社内恋愛が社長に知られることは最後までなかったが、今思えばあの頃は明らかに、職場に女性が「いる」という雰囲気があった。職場に好きな人をつくって仕事をしにきている人たちがいた。それで輝いている人がいて、それで苛立っている人がいた。あらゆる意味で会社は変わってしまっていた。そしてぼくはいつしかそれを肯定的に捉えるようになっていた。

(たいchillout)

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【ネパール/ポカラ】チトワンレディース

街の路線バスにて

バルディヤ行きのチケットを今度こそ買うために、長距離バスステーションにもう一度出向いた。昨日は徒歩で行ったところをこの日は街の路線バスで行くことにした。一つの街に滞在できる時間は限られているので、同じ場所に行く必要が生じた際は別の交通手段を使ってなるべくバリエーションをつけるように心がけていたのだ。
ホステルの前から乗り込み、しばらくして隣の席に女性が座った。「ここ、いいかしら?」。そんなことをネパール語でぼくに言った。ぼくは目的のバスステーションが近づいたところで財布を取り出し、集金係の男にいくら払えばいいのか訊ねた。「ハウマッチ?」。25ネパールルピーとのことだが、ぼくはどの紙幣とどの紙幣を組み合わせてそれを払えばいいのか瞬時に判断がつかず、もたもたしていると隣の女性がネパール語で助けてくれた。「これとこれで25ルピーよ」。そう言って紙幣を選び、集金係の男に渡してくれた。
それをきっかけにその女性と、女性と一緒にバスに入って来た三人の女性と、集金係の男の間でなんやかんやと話が盛り上がり、どうやらそれがぼくについての話であるようだった。ぼくも合わせてニコニコしていたがバスステーションに到着したので心を込めたお礼を述べて別れた。だが、驚いたことに四人の女性はぼくの後を追ってぼくと一緒に降りて来た。「チケット買うの手伝ってあげる」。先ほど隣に座っていた女性が身振り手振りを交えてそう言った。バルディヤの行きのチケットを今これから買うのだということをぼくは彼女たちに話していたのだ。
四人のおかげでチケットはスムーズに購入でき、ここでさようならだと思っていると、四人はぼくにこう言った。「泊まるところはあるの?」。ぼくは答えた。「あるよ。レイクサイドに泊まっている」
ぼくの英語が伝わったのかは分からなかった。だが、いずれにせよ彼女たちはこう言ったのだ。
「うちらのホテルにこない?」
どうやら四人ともネパール人でありながらも他の土地からきた旅行者らしい。ぼくは耳を疑った。出会ってからせいぜい二十分かそこらだ。このときぼくは二つのベクトルへ思考が働いた。一つはこれがなにかの危険な事態であるという推測。詐欺? ぼったくり? 美人局? いずれにせよこの急速な距離の詰め方は、旅のセオリーからするならまず疑う余地なく警戒すべきものだった。もう一つは真逆である。つまりぼくに対して仮に彼女たちが好感を持ち、いっときの交流を深めたいと考えたとしても、男に対していきなり「ホテルにこない?」はさすがに女性として無防備すぎるのではないだろうか、という驚きだ。

 

狭いホテルの四人部屋にて

ぼくはホテルに行った。四人の女性は終始無邪気であり、嘘の気配はないと直感で判断したところもあるし、仮に直感に誤りがあり、四人束になって襲いかかってきても力で勝てると思った。出会った場所とタイミングもある。ポカラは小さい街であるためほぼ全ての外国人が徒歩とタクシーを移動手段とする。トレッキングツアーに参加する場合はホステルが手配したバンなどを利用するが、いずれにせよ街の路線バスでせこせこと移動するやつなんて少数派だ。そんなところでカモを探すのは合理的じゃない。
ぼくの直感は正しかった。ぼくは彼女たちが泊まっている狭い四人部屋に招待され、そこでパイナップルジュースをプレゼントされた。ぼくはベッドの一つに腰掛け、四人はそんなぼくを囲み、拙い英語で一生懸命困惑混じりにコミュニケーションをとった。簡単なネパール語を教えてもらい、FaceBookのアカウントを交換して、日本に来たら連絡してと言った。お決まりのやりとり以上に深い会話をする英語力は彼女たちにはない。四人は家族だった。長女のサールー、次女のマニーシャ、三女のプラティマ、そしてお母さんのチャビカラ。言われてみればお母さんのチャビカラだけ圧倒的におばちゃん風情でずんぐりとしており、穏やかな落ち着きと微笑むだけでこちらが安心する包容力があった。バスでぼくの隣に座っていたのはサールーだ。サールーはもっともぼくのことを気に入っている様子だったがどうやらバツイチらしい。よく見るとそれほど若くもなさそうだ。三十代後半だろうか。マニーシャとプラティマは若く、そして美しかった。
四人はチトワンから来ていた。チトワンも、ポカラと同等かそれ以上のネパール有数の自然の魅力をたたえた観光地だ。どうしてチトワンにこないんだと言われたが、それを言われても困ってしまう。ぼくは西へ西へと進んでいるのだ。だからというわけではないが、次ネパールに来たらチトワンに行くとぼくは言った。「またネパールにくるの?」と言われた。「来る」とぼくは言った。「いつ?」「いつかは分からない。でも来る」。本心だ。ネパールに限ったことではなく、ぼくには「この国はもういいや」と思える国は一つも無かった。どの国でもやり残したことがあった。行きそびれた街があった。
ぼくは四人がぼくを持て余す前に席を立って、帰るよ、と言った。チャビカラ以外の三人が見送りに来てくれた。ぼくは自分の力で帰ることができた。しかし三人はぼくのためにバスを探し、タクシーを呼び止め、値段を交渉し、それなのにぼくは「その値段では乗れない」と言った。十分の一の値段でバスに乗れることを知っていた。豊かな国から来て、世界中を巡る予算を持った人間がこんなにケチだということを、三人は、もしかしたら訝しんだかもしれない。だがぼくは意地でもバスで帰ることを主張し、無理してぼくに付き合わなくても大丈夫だよ、と三人に言った。やがてバスが来た。日は暮れかかっており、舞い上がっている埃も目立たなくなった時間帯。このバスが湖に向かうことをプラティマが乗務員に確認し、ぼくは乗り込んだ。

 

旅の最中のバレンタインデーにて

この日は2019年の2月14日、バレンタインデーだった。ネパールにもバレンタインデーはあるらしい。ホテルでもらったパイナップルジュースは即席のバレンタインデーのプレゼントだったのだ。バスの中は外に比べて眩しいほどであり、ネパールの現代ポップスが流れ、かび臭かった。車窓に目を向けたらサールーとプラティマが外灯のあかりを受けておぼろげに夜の中から浮かび上がり、こちらを見た。ぼくは手を振った。バレンタインデーだろうがクリスマスだろうが誕生日だろうが、この一年、ぼくはひとりぼっちで過ごすつもりで日本を出た。それなのに……こんなにモテたバレンタインデーははじめてかもしれない。一体どういう了見だろう。これだから旅の神様というやつは信用ならない。なにをしでかすかわからないのだ。

(たいchillout)

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【ネパール/ポカラ】なんといってもお気に入り

そして湖には静寂がある

ポカラはこの旅を通してのぼくのお気に入りだと言える美しい街だ。ひとことで表すと湖と山の町。自然というか地形というか、その全体。いわゆる「ランドスケープ」に魅力がある。ただ自然が豊富というのではない。佇まいがいいのだ。多くの人におすすめしたい。
多少はツーリスティックではある。なにせこれだけ自然が魅力的なので観光開発はされている。だが派手さはない。八割のバックパッカーにとって許容範囲内だろう。中心部(つまりレイクサイド)のカフェや食事処は基本的に外国人観光客向けに営業されているが、味や価格帯はわりに安定している。徒歩で町を観て廻ることができる。長旅の途上にあるバックパッカーにはあらゆる点が丁度いいと感じられる町だと思う。静かで美しく、快適さもあり、旅の疲れをここでしばらく癒すのもありかなとつゆほども思わない旅人がいたとしたら、それは極めて少数派の旅人ではないだろうか。

到着したときにバスステーションから見えた真っ白い山の頂は町の中心からも見えた。ある朝その山と湖の見えるカフェのオープンテラス席でコーヒーを飲んでいると、同じテラス席になにもオーダーせずに座っている少年と少女がいた。カフェの身内だろうかと思っていると通りの向こうからスクールバスが現れカフェの前で停車し、二人はそのバスへと駆け出していった。そのあとぼくは広くほとんどだれもいない公園に行って和歌山で買ったハーモニカを吹いた。

ぼくは湖沿いを何度も往復した。朝は幻想的に霧がかかって、昼は空が突き抜け見晴らしが良くなり、しかし夕方の空気の透明感こそ格別だった。童謡とフォークソングの中間のようなさみしげな曲を弾き語るストリートミュージシャンがいて、近づくとなんと彼は日本語で歌っていた。各地の海と川を見てきたが湖というのもいいものだとぼくは思った。川には人の生活がある。海には永遠と繋がっているような開放感と、永遠から帰ってこれなくなりそうな恐ろしさが同時につきまとう。そして湖には静寂がある。

 

バルディヤ行きのチケットを求めて

ホステルにあった英語のガイドブックを読んで次の行き先をバルディヤに決める。ポカラから西、町らしい町がなさそうであり、三つの国境に関する情報も少なかった。最終的にポカラのトラベルエージェンシーの女性から聞き出した情報とネットでのリサーチも加味しての判断だったが不安は残った。インドに入った後も未定だった。首都のデリーが視野に入るが、街が存在するなら刻んでいく方が快適だし、面白味もある。とはいえ交通網の問題もある。鉄道旅をしてみたいが例によってインドの鉄道予約は難関。バスでも考慮すべきことは多い。たとえば無計画に小さい街に入ってしまい長距離バスが立ち寄らないことを後で知ったりすると、大きな街に引き返す必要が生じたり、ひどく割高でイレギュラーな乗り継ぎを強いられることになる。そしてぼくはデリーの前に、リシケシュという、ビートルズが長期滞在したことで知られる街にも、もし可能であれば、行ければと考えていた。リシケシュはガンジスの上流で北にある。また三週間後にインド南部のコチからモルディブに飛ぶ航空券を持っていたため、コチに辿り着けないようじゃ大いに困るわけで、なによりそれまでの限られた時間、納得のいく過ごし方をしたかった。

トラベルエージェンシーの女性はバルディヤ行きのバスは当日券で乗れると言ったが、ぼくはこのときは事前にチケットを入手しておきたいと考え、カトマンズから到着したときのバスステーションまで歩いて行った。しかしバルディヤ行きのバスが発着するのは別のバスステーションだった。それを教えてくれたチケット窓口の女性が別のバスステーションに電話をしてくれ、代わりにここで買ってあげることもできると言ったが、ぼくはそれを断り別のバスステーションまで歩くことにした。いずれにせよ事前にそのバスステーションを見ておきたかったし、ここで買ってもらってもそれが正規の料金であるのか判別がつかないからだ。
そしてその別のバスステーションに来たのだが、結論から言うとこの日はチケットが買えなかった。担当者曰く「fixed bus number がまだない」。どのバスがバルディヤに行くのかまだ決まっていないので予約ができない。そういう理屈だ。明日になったらfixed bus numberがある、だから明日来てくれと言われた。ぼくは明後日の夜行バスを予約するつもりだった。余談だが、バスステーションはこちらの方が規模が大きく、地元の人ばかりで活気があった。ここにはツーリスティックな香りはない。レイクサイドのチルアウトムードもない。チケットカウンターも男たちで混雑しており、カウンターの男とはまともな英会話が成立しなかったので、久々に周囲の人々を巻き込んでてんやわんやのコミュニケーション(意志伝達)大会となった。

歩き通しの一日だったがここからさらに歩いてホステルまで帰り、夜はツナサンドイッチとビールで締めた。

(たいchillout)

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【ネパール/カトマンズ→ポカラ】埃の街から湖の街へ

埃の街

「長く半年近く旅をしてから、いろんなことの見晴らしが良くなってきている。この見晴らしを持ってすれば日本に帰ったときも、なんでもできるような気がしてくる」

肌寒いが陽当たりの良いホステルの屋上でひとりで朝食をとっているときのメモにこう残されている。ぼくはその心境をとてもよく思い出せる。なぜかというと、その感覚は「あの日あの場所」だけではなく「日々あらゆる場所」で断続的に感じ続けていたからだ。しかしそう感じたことは覚えていても、肝心な見晴らしの良さとなんでもできるような全能感そのものは、帰国して一年が過ぎた今ぼくの頭のどこの部分にも残っていない。さみしいと言えばさみしいし仕方ないと言えば仕方ない。ぼくはブログを書き続ける。

カトマンズを経つ日、七ヶ月の旅を共にしたスニーカーをホステルのゴミ箱にぶち込んだ。新しいものを買ったので古いものは捨てる。旅の持ち物すべてにおいて言えることだった。カトマンズは仏教色があり山を身近に感じる美しい街でナイスなクラフトビール屋もあったが、どこを歩いても埃っぽかった。これには出会った旅人もみな閉口しているようだった。ぼくはなんとカトマンズでマスクを買った。今流行のマスクだ。埃っぽいカトマンズに顔をしかめた同室のフランス人男性がぼくにおすすめした街がある。それが西に行った先にある「ポカラ」だ。ポカラには美しい湖があるという。内陸国のネパールにいて、ぼくも湖を見たくなった。それにポカラからさらに西に行けばインドとの国境が三つ程あった。ぼくはネパールに入国したときとは別の国境でインド入りすることにこだわっていたのでポカラはなににつけ最適な中継地点だった。カトマンズには四泊して早朝にポカラ行きのバスに乗った。

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山道

チケットの予約は不要、その場で買って乗れると人々が言うのでぼくはそうした。1,000ネパールルピー、どうやら昼食代金も含まれているらしい。ぼくは最後部座席の左の窓際に案内された。隣は西洋人のカップル。早めに乗り込んで乗客が揃っていくのを見ていたが、旅行者とネパール人が半々というところだろうか。バスの中程には中国人のおじちゃんおばちゃんのグループがいて賑やかにしている。そのノリもその厚かましさも日本人のおじちゃんおばちゃんグループに瓜二つ。そして彼らから通路を挟んで反対側に、ひとりの若い東洋人女性が静かに入ってきて静かに座った。その女性も、中国人かなとぼくは思った。同じ中国人でもこんなに違う。それにぼくは深いインプレッションを受けた。マナーのない浮かれた中年たちと、身のこなしからして丁寧なひとりの若い女性。

朝食はバスの中で買い込んでおいたパンをかじり、それから午前中はずっと車窓から景色を眺め続け、昼食は山の中の食堂だった。バスのチケットから半券を切り取りスタッフに渡すとちょっとしたバイキングにありつける。味は記憶していない。それどころではなかったのだ。ぼくは食後にトイレに入っている間にバスに置いて行かれそうになった。
インドにいた頃からお腹の調子が良くなく、ぼくは街歩きの最中も注意深くトイレの場所を把握し、トイレに困る状況を作らないようにしてきた。
長距離バスの移動でも同様で、ぼくは食べ過ぎないように飲み過ぎないように気をつけ、眠くてもだるくてもトイレ休憩はスルーしないように自分を叱咤した。旅でなによりも大切なのは実はこういう心がけの徹底だ。だが、それでもぼくのお腹は不安定な状態にあり、出発時間ギリギリまで洋式でありながら便座のない(洋式でありながら便座のない)トイレにこもっていると、なんか嫌な予感がしてきた。バスにトイレはついていないのでスッキリしないまま乗りたくはないが、なんか嫌な予感がする。嫌な予感に従ってぼくはトイレから出ることを決断し、ほとんど流れない水で手を洗ってトイレを出ると、食事場所には誰もいない。外に走り出るとぼくのバスが動き出していた。ぼくは手を振って走った。バスは止まった。間一髪。なぜかぼくが謝って無事バスに乗り込んだが、お腹の調子もアレなのであらゆる点で気が気でないままだった。あのままぼくがトイレにこもっていたらどうなっていたのだろう。ぼくのバックパックはバスのトランクに積まれたままだった。
朝早く出たバスは陽が傾く手前くらいの時間にポカラに到着した。あれからお腹は落ち着いたのでもうそれだけで御の字ではあったのだが、ポカラまでの山道は揺れが度を越してひどく、もう二度とあの道をバスで行きたいとは思わなかった。

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白い山

ポカラのバスターミナルからは白い山が見えた。すでに十分標高は高いが、さらに圧倒的に高い位置に見たこともないほど尖った山が見える。それも、とてもクリアに見えている。あれがヒマラヤだろうか。あるいはもしかしたらあれこそがエベレストなのだろうか。ぼくはひとまず売店でコーヒーを頼み、その山が見える位置に座って飲んだ。

(たいchillout) 

【ネパール/カトマンズ】アイコスの火

ヒマラヤのお膝元

カトマンズに一泊した翌午前、早速中心部のタメル地区に出かけてヤクの毛でできた手編みのフード付きセーターを買った。一張羅なのでいくつも試着し3,500ルピーから3,000ルピーまで値引交渉をして手に入れた。それをその場でウィンドブレーカーの下に着て歩き出す。見事に着膨れした。しかし最高にあたたかくなった。SIMカードを300ルピーで仕入れ、7日分4GBを900ルピーでチャージし、昼食は中華食堂で揚州チャーハンを食べた。カフェでアメリカーノを飲みながらiPhoneKindleアプリで小説を読み終え、アウトドア用品店をぶらついて靴や寝袋を物色した。キャンプをするわけではないが、ドミトリー形式のホステルは(特に南国の場合)掛け布団が一年を通してブランケット一枚だけという場合が多く、寒がりなぼくはつらい思いをすることも多かった。寝袋があればそういうときに助かる。キルギスパミール高原のゲストハウスでも暖炉付きの室内でミノムシみたいに寝袋にくるまって寝ている男がいた(彼は冬眠しているみたいだった)。出発前は新品同様だった靴もボロボロになった。旅立ちから半年が経過しており、ついに買い替え時である。靴下や下着もすでに旅先で仕入れたものを着ている。ネパールは登山の国であり、ここカトマンズはヒマラヤに挑戦する登山家たちが態勢を整えるために滞在する、一種のベースキャンプ地だ。そのため、トレッキング用のシューズなどの登山グッズがこれまでの旅先ではみたことないほどに充実していた。

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He doesn't like China

小さなショッピングモールで誰もいないフロアを歩いていると美容院のテナントがあり、表に「Korean Style」というラベルとともに前髪のある日本人みたいな髪型をしたモデルの写真が張り出されている。ぼくからするとそのコリアンスタイルがジャパニーズスタイルであってもまったく違和感がない。だがそうは書かれていないで問答無用で「Korean Style」と断定されていることによって、ここネパールで「韓国風」というのが一種の美的ブランドであることを理解した。
チャイナタウンを歩いていて匂いにつられると、そこは「バラ」というお好み焼きに似た料理をその場で焼いて売っている露店だった。英語を話せる男性が、ぼくがそれを買う世話してくれ、ぼくはてっきり男性が店の関係者かと思ったがただの客だった。男性の容貌は一見中国人に見える。しかし彼はれっきとしたネパール人だった。適当に世間話をしているとひとり旅風の美女が現れる。今度こそ中国人だろう、ぼくがそう思ったのは正解で、女性はモダンな上海ガールだった。世間話の中で上海ガールはネパール人男性に対して、ぼくのことを指して「He doesn't like China」と言った。ぼくが中国に対して批判的なことを言ったわけではない。確か「中国の発展はすごいねえ」という話をネパール人男性が話していたとき、ぼくがただ黙っており、なにかを勘違いして気まずいムードを感じ取った女性がそう言ったのだ。女性がそう言ったのにはまったく根拠がない。だからぼくはその発言に「ある情報」を読み取らざるを得なかった。それは「日本人は一般的に中国が嫌い」ということを中国人自身が認識しているという、とても悲しい情報だった。もちろんぼくは中国が大好きで実際に何度も中国に行っているのだと断固として主張した。

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アイコスの火

街のそこかしこに求人広告が貼ってある。そのいくつかを読んでみると、なるほど、その仕事の売りとして「desktop works」を強調しているものが目についた。どういうことか。desktop worksとはつまりオフィスワーク、事務仕事ということだろう。ネパールではオフィスワークに人気があるのだ。日本でも女性向けの求人媒体なんかで「定時退社! 都心の綺麗なオフィス勤務」という特集が組まれていたりする。それと「同じ感覚」がカトマンズにもある。そういう時代がきっと世界で一斉にやってきているのだ。
旅行代理店に飛び込み、長距離バス路線の価格と日時を確認する。その際カトマンズ発でヒマラヤ山脈を上空からウォッチするフライトツアーを売り込まれたが、ぼくはそれをすでにやっている。ウズベキスタンのタシュケントからマレーシアのクアラルンプールに飛ぶときにヒマラヤを上空から望んだのだ。飛行機には何度も乗ったが、あれは空からの景色の中でも格別のものだった。
夕飯はパン屋でクロワッサンとバナナケーキを買って屋上テラス席の焚火に当たりながら食べた。カトマンズは寒かった。旅の最大の敵は寒さだ。夏に旅をはじめることができてとても良かったし、夏に寒い国に行って、冬に南に下るというプランニングも本当に正解だったと思う。そして来る次の夏はヨーロッパを北上するのだ。火は偉大だ。焚火にあたってそう思った。ぼくはタバコを吸わないが、タバコも火そのものにまず人を惹きつける魅力があるのではないだろうか。そういった意味では東京ではもはや主流となっているアイコスからはタバコの本質が失われているのかも知れない。オフィスの喫煙所でアイコスを吸っていた元同僚たちをチラッと思い出した。

(たいchillout)

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【ネパール/カトマンズ】ウランバートルに似て

三種のカレーとモモ

ネパールのイミグレでアライバルビザ用紙を記入するのだが、用意されているペンが詰めかけている人数に足りず、ぼくはそばにいたポルトガル人男性にボールペンを借りた。日本に行ったことのある彼は東京よりも大阪が好きだと言った。夜が明けはじめたが太陽は出ていない。今日も雨天、もしくは曇天である。インドからの国境を抜けたその場所からいくつかの商店がありこんな時間からSIMカードなどをちゃんと売っているが、一旦ぼくは買わない道を選ぶ。ネパール人には二種類の顔があることにぼくは気づく。ひとつはインド人と見分けがつかない顔だが(鼻が高く目が鋭い)、もう片方はぼくたち日本人に似ているどこか懐かしい顔だ。頬骨がむっちりと張っており、冷えるのか少し赤い。目が細い。ヒマラヤを越えて、チベット民族との混血が進んでいるのかもしれない。一同はバラナシから乗ってきたバスに再び乗り込む。途端にポツポツと雨が窓に当たり出す。ぬかるんだ道を走り出す。
ネパールの景色を車窓から見ておおと思ったのはビールの広告看板がどどんと田んぼや畑の中に立っていることだ。インドでは酒はアンダーグラウンドなものだった。それがネパールでは簡単に手に入るかもしれない。高まる期待。農村地帯の平地を抜けて街を通過し、やがてバスは山間を走り続けた。昼食はぼくらのような山越え客だけをあてにしているだろう山中の大きめの食堂で乗客一斉にとらされる。空いているテーブル席に座ると少年が現れさっとプレートをぼくの前に置いていく。三種類のカレールーとポテトが乗っており、チャパティが配られる。ルーがなくなると勝手に注ぎ足してくれる。ホールスタッフは五人くらいで、全員が十歳から十五歳くらいの少年だった。
バスにはコンセントがあったのでぼくは地図アプリで都度現在地を確認していた。二十二時に出発し、国境到着が真夜中、確か三時くらい。その時点ですでにバスはバラナシからカトマンズまでの三分の二地点まできていたので、案外早くつくかもなと思ったのが甘かった。ネパールに入ってから山道が続きバスのスピードが全然出ていない。結局残り三分の一を進むために二倍以上の時間を使った。ここまで旅を続けてきて「キロメートル」の感覚が身についていたが、その常識が覆る山道だった。到着間際になって近くのインド人の若い男たちと少し会話をした。ムンバイの携帯電話の会社で働いている同僚たちでバラナシ経由のネパール旅行にきたらしい。ぼくはこれから先再びインド入りしてムンバイにも寄りたいと思っていた。ムンバイはインドで一番安全で綺麗だぜ、と若者はぼくに言った。
カトマンズ到着。国境越えバスの発着するバスターミナルなんだから街中にあるだろう。ぼくはそうタカを括っていたが案の定バスターミナルは街外れにあった。ホステルまでの行き方はむろん調べていない。ひとまずバスターミナルにある食堂だかバーのようなとこに入り、そこでモモとミルクコーヒーを斜視の男性店員にオーダーした。モモは桃ではなく、ネパール名物である、蒸し餃子に似た料理だ。だが、ぼくはその時点でネパール名物だと知っていたわけではなく、深く考えずに「うまそうだな」と思ってオーダーした。これが当たりだった。山椒のような味が効いており、やはり中国との近さを意識させられた。

 

ウランバートルに似て

そこから歩く。ひどく埃っぽいが、街の規模感や標高の高さ、遠くの山並みなど、ウランバートルを彷彿とさせるところがあった。ウランバートルでのような出来事がこの街でも起きないだろうか、ぼくはそう思った。大きなトラックが土埃をあげて真横を通り過ぎる環状線風の通りから少しづつ街中に入っていく。住宅街が長く続くが、基本的に道路は舗装されていなく、雨が降ったのでぬかるんでいる。そこら中ゴミだらけで家の壁も煤けている。川にも堤防がなく剥き出しの土に流れて、ゴミが溜まって中洲ができている。地表は灰色・泥色だがだんだんと空が青く澄んできているのが嬉しかった。新鮮なフルーツが香る八百屋や焼きとうもろこしの店を通り過ぎて、ホステルのある街の中心に近づくとさすがに道は舗装されバイクやバス、車が走り、店も人も増えてきた。気温は低く厚手のセーターやジャンパーを着ている人が多い。横幅の狭い青い四階建ての隣に黄色い五階建てがあったり、汚れているが色使いが明るい建物が中心部には多く、素敵だと思った。目についたのは「Study in Japan」「Study in Korea」と書かれた看板だ。その両方が街中のいたるところにある。塾か予備校か、留学サポートセンターのようなものだろうか。考えてみれば日本にネパール人は多い。日本のインドカレー屋のほとんどは実はネパール人が経営しているなんてのはよく聞く話だ。ネパールはインドよりも経済的に遅れをとっているイメージがある。だとすると、出稼ぎがよく行われるだろう。出稼ぎ先として、日本や韓国などの極東がネパールでは人気なのかもしれない。そしてこういうときにJapanと並列でKoreaがピックアップされることを、ぼくたち日本人は受け止めていかなければならない。
自力ではホステルが見つからず、結局いつもながら道を尋ねてチェックイン。早朝に山へ行き日の出を見れるツアーの紹介などを受けるが、聞き流す。ウランバートルでは初日にツアーの参加を決めてそこでクラウラとシャオロンと忘れられないときを過ごした。今回もツアーに参加すれば誰かと出会い特別な時間を過ごせるのかもしれない。今のぼくにはその能動性が必要なのかもしれない。そう考えたが、早起きはしたくないし日の出はお金を払わなくても見れる。宿泊代を考えるとツアー代金はどこも高すぎた。モンゴル以外でぼくはホステル主催のツアーにどこかで参加しただろうか。思い浮かばなかった。
ドミトリーに入ると感じのいい二人のフランス人男性がいた。インスタのストーリーズにカトマンズの写真を投稿して外に出た。寒い。季節の移り変わりに合わせて巧妙に寒さを遠ざけて旅してきたが、ここカトマンズでぼくはついに長旅ではかさばってしまうのでずっと忌避してきた分厚い防寒着を買うことになった。

(たいchillout)

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【インド・ネパール間国境】キラキラバックパッカー事件

真夜中の国境

カトマンズ行きの夜行バスを待っていると、雨が雷雨に変わりバラナシ郊外の長距離バスターミナル全体が停電した。ぼくはベンチにバックパックを置いて自分は立ってチャイを片手にスマホキンドルを読んでいた(ベンチの周囲は蚊がうるさかったので立っていた)が、停電の中で読んでいるのも落ち着かなかったのでスマホをポケットにしまった。停電はじきになおったが強雨は続く。20ルピーのパンケーキをお腹に入れて22時のバスに乗り込み窓際のコンセント付きの33番シートに座った。外気との気温差で窓が曇っていた。
国境に到着したのは真夜中だった。インディアルピーを国外に持ち出すことは禁止らしく、イミグレ直前に唯一あった商店で強制的にインディアルピーをネパールルピーに両替をさせられた。ぼくはネパールを見た後どこか別の国境からインドに再入国するつもりがあり、インディアルピーを多めに残しておいたので焦った。咄嗟に手持ちのインディアルピーを少なめに申告し、要するに嘘をついて少量を両替したが、後々振り返るとやはり最悪のレートだった。雨はほぼ止んでいるが標高が上がってきているのか肌寒い。小さなイミグレは消灯して閉まっており係員が出てくるまで外で待たされた。蚊が多くてウィンドブレーカーのフードを被る。運転手にトイレに行きたいと伝えるとその辺でしてくれと言われた。ぼくは列の最後尾に並び直した。

 

キラキラバックパッカー事件

ぼくがこの国境を訪れたのは2019年の2月だが、その少し前に日本人バックパッカーがネパール人かインド人の車に乗って出入国手続きをせずに国境を越えてしまい大使館経由で日本に強制帰国させられる出来事があった。Twitterの旅関係のアカウントの間では話題になっており、彼と同系統だとされる旅人が「キラキラバックパッカー」と揶揄され、ウェブメディアの記事が(たしか)Yahooトップニュースに取り上げられたのをピークにちょっとした炎上騒動になっていた。キラキラの定義は曖昧だが、たとえば彼ら彼女たちはSNSで輝くことを重視する。現地調査や語学の学習を怠る。現地の文化や人々への配慮ができず、ときとして非常識な行動をとりそれを武勇伝のように語る。女性であれば肌を見せてはいけない国で肌を出している。最低限の常識的な警戒を怠る。宗教に無知。同じキラキラバックパッカーと繋がることを旅の目的にしている。フリーランスノマド、やりたいことを仕事にする、という言葉をよく使う。人々に感動を与えると豪語する。謎のクラウドファウンディング。結局親の金。など色々ある。
そんな彼らの存在が、件の強制帰国事件をきっかけにピックアップされ槍玉に挙げられたわけだ。「ストーカー」や「ロリコン」と一緒で呼称が生まれると加速度的にクローズアップが進む良い例だ。槍玉にあげる側は、そんな彼らへの鬱憤を日頃からため込んでいたであろう、比較的アカデミックで堅実な旅の愛好家たちだった。アカデミック勢は語学や地理、歴史に詳しく、名門大学や語学大学の学生や院生が多く、十分な知識を持ってマニアックな地域に出かけた。そんな旅を一部の人々は自ら限界旅行と名付け、自分たちのことを限界勢だと呼んだ。鉄道オタク、共産主義オタクも多い。現地駐在員とその妻や国際結婚をした人々もこちらのチームだ。彼らはリアルな苦労を知り生活の実感がある。ブログやSNSで発信力がある人も多かった。
強制帰国事件の後、限界勢のひとりが同じ国境を越えようとしたとき、日本人だからという理由でやけに高圧的で厳しいチェックを受けたという呟きがあった、そしてそれは件の事件があったせいなのであろうと。この呟きは多くシェアされた。この呟きからアカデミック勢が引き出そうとした教訓は「キラキラバックパッカーのせいで真剣に立派な旅をしているおれたちがとばっちりを受けるんだ」「ミーハーで無知な旅をするあいつらが日本人旅行者全体の信用度を下げるんだ」というものだった。少なくともぼくにはそう見えた。
だがぼくは思うのだけれど、「真剣で立派な旅」と「ミーハーで無知な旅」の境目は非常に曖昧だ。大切なことは自分は真剣で立派ではないかもしれないと常に疑い続けることである。『深夜特急』ではその自己問答がひとつのテーマになっており、決して旅の感動だけを喧伝するものではなく、そこが他の旅本と深夜特急が今でも一線を画す決定的な要素になっている。そしてそのためには、自分と同じような考え同じような趣味の人間同士でフォローし合い、お互いの限界旅行をいいねし合い、徒党を組んでキラキラバックパッカーを揶揄しているような状況こそ危険だとぼくは思うが、どうだろう? 趣味の話は楽しいが肯定のし合いっこは自己問答の機会をどんどん奪っていく。旅は考える機会をくれる。それに異論のある人はいないだろう。考えることは疑うことだ。正しいとされていることを疑い、自然だとされていることを疑い、自分を疑う。自分が正しいと信じてきたことを疑い、これから先自分が正しいと信じたいことを疑う。
村上春樹は『遠い太鼓』というギリシャ・イタリア紀行文の序章で、この本を「安易な感動や、一般論化を排して、できるだけシンプルに、そしてリアルに」書くつもりだと言っている。貧しいアジアの国々、イギリスは飯が不味い、ウズベキスタン親日国、韓国人は整形好き、イタリア人は情熱的に口説いてくる、少数民族は弾圧されている、南国の人はスローライフ、京都人は高飛車、アメリカは歴史が浅いのがコンプレックス、東欧諸国は民族アイデンティティが分裂している、以上はすべて一般論化だ。アカデミックな旅をする人々には知性がある。しかし彼らは一般論化の分野がキラキラよりも学術的であるだけで傾向として全く同じように一般論化に向かってしまっていることが多く、ぼくはそれを残念に思う。

ぼくのパスポートチェックは一瞬で終わった。イミグレから出たらバスが行ってしまっていた。50ルピーのサイクルリキシャに乗ってネパール側国境に移動しているあいだに地平線が明るくなってくる。

(たいchillout)

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